上海古籍出版社『三國志集解』校勘補

 以下、藝文印書館印行本を「藝文本」、上海古籍出版社校点本を「校点本」と表記する。
 各卷の「卷首」や「元号何年」や「附伝」等の表記は、「藝文本該当頁」にまとめた。


藝文本:5-5上 (詳後坿記)
校点本:4 (詳後附記)
校点本校勘記に記載なし。

三國志一 魏書一 武帝紀第一

藝文本:37-38上 二年春正月
校点本:64 二年春正月
この一節の前に改行無し。

藝文本:63-51上 十一年春正月
校点本:108 十一年春正月
この一節の前に改行無し。

三國志二 魏書二 文帝紀第二

藝文本:黄初元年 40-105下 西有有廣陽
校点本:288 西有廣陽
校点本校勘記に記載なし。

三國志三 魏書三 明帝紀第三

藝文本:太和元年 5-126上 與戊巳司馬曹寬
校点本:358 與戊己司馬曹寬
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:景初元年 43-145上 累載相
校点本:418 累載相襲
校点本校勘記に記載なし。

三國志四 魏書四 三少帝紀第四

藝文本:高貴郷公 甘露三年 51-179上 一而已
校点本:531 父一而已
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:高貴郷公 甘露三年 51-179上 續漢志禮儀志云明帝永平二年三月上始漢官儀三老五更皆取有首妻男女全具者帥羣臣躬養三老五更於辟雍養三老五更之儀先吉日司徒上太傅若講師故三公人名用其德行年耆高者一人爲老次一人爲更也
校点本:531 續漢志禮儀志云:「明帝永平二年三月,上始帥羣臣,躬養三老、五更於辟雍。養三老、五更之儀:先吉日,司徒上太傳若講師,故三公人名,用其德行年耆高者一人爲老,次一人爲更也。」漢官儀:「三老、五更,皆取有首妻,男女全具者。」
校点本校勘記に記載なし。
弊サイトで原文を公開する暁には、『後漢書』禮儀志を参考にし、校点本をベースとし、本文を次のように改める(予定)。
續漢志禮儀志云、「明帝永平二年三月、上始帥羣臣、躬養三老・五更於辟雍。養三老・五更之儀、先吉日、司徒上太傳若講師、故三公人名、用其德行年耆高者一人爲老、次一人爲更也」。漢官儀、「三老・五更、皆取有首妻、男女全具者」。

藝文本:高貴郷公 甘露五年(補卷上 8-1180下) 董崇
校点本:541 董崇
「董崇」は「黃崇」(黄権の息子)ではなかろうか。

三國志五 魏書五 后妃傳第五

藝文本:卞后 4-194下 蔡邕曰帝女曰公主
校点本:583 章懷注:「蔡邕曰,帝女曰公主
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:甄后 9-197上 侁駪以先爲聲
校点本:591 詵、侁、駪,以先爲聲
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:甄后 12-198下 沈所撰魏書己逸
校点本:595 沈所撰魏書已逸
校点本校勘記に記載なし。

三國志六 魏書六 董卓二袁劉表傳第六

藝文本:董卓 15-213上 晉書曰漢官儀尙書爲中臺
校点本:641 晉書曰: 漢官,尙書爲中臺
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:董卓 17-214上 鍾虡四枚
校点本:644 鍾虡四杖
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:李傕 郭氾 30-220下 己己幸曹操營
校点本:667 己巳幸曹操營
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:袁紹 46-228下 三月上已
校点本:692 三月上巳
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:袁紹 46-228下 上已屆此
校点本:692 上巳屆此
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:袁紹 49-230上 大尉位在大將軍上
校点本:698 大尉位在大將軍上
「大尉」は「太尉」とすべきか。

藝文本:袁紹 51-231上 章懷注引愼子曰
校点本:701 章懷注:「愼子曰
校点本校勘記に記載なし。 ※記載の仕方は、他箇所とのバランスを考慮する。

藝文本:袁紹 67-239上 若乃天啓于心
校点本:723 若乃天啓於心
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:袁紹 68-239下 古禮也
校点本:731 古禮字也
校点本校勘記に記載なし? ※要確認。

藝文本:袁紹 69-240上 兄家己死
校点本:724 兄家已死
校点本校勘記に記載なし。

三國志九 魏書九 諸夏侯曹傳第九

藝文本:夏侯淵 9-295上 魏武帝置秩二千
校点本:907 魏武帝置,秩二千石
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:曹爽 32-306下 庸匠亦難復制
校点本:946 庸匠亦難復製
校点本校勘記に記載なし。

三國志十 魏書十 荀彧荀攸賈詡傳第十

藝文本:荀彧 7-326上 分兵平諸縣布敗走兗州遂平
校点本:1006 分兵平諸縣
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:荀彧 8-326下 論者或謂衞覬傳覲還漢朝爲侍郞
校点本:1012 論者或謂衞覬傳(覲)覬還漢朝爲侍郞
校点本校勘記に記載なし? ※要確認。

藝文本:荀彧 8-326下 不知衞覲之漢侍郞在爲魏侍中之後
校点本:1012 不知衞(覲)覬之漢侍郞在爲魏侍中之後
校点本校勘記に記載なし? ※要確認。

三國志十二 魏書十二 崔毛徐何邢鮑司馬傳第十二

藝文本:毛玠 17-378上 使其各爲耍約言語
校点本:1170 使其各爲要約言語
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

藝文本:毛玠 19-379上 故不能舉其耍契之辭也
校点本:1170 故不能舉其要契之辭也
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

三國志十三 魏書十三 鍾繇華歆王朗傳第十三

藝文本:華歆 23-399上 命百官總已以須君到
校点本:1232 命百官總已以須君到
「已」は「己」とすべきか。

藝文本:王朗 28-401下 武罪已之迹
校点本:1239 武罪己之迹
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

三國志十四 魏書十四 程郭董劉蔣劉傳第十四

藝文本:蔣濟 35-430上 使𧙓移金行哉
校点本:1328 使祚移金行哉
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

藝文本:劉放 42-433下 此蓋承𧙓省文
校点本:1338 此蓋承祚省文
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

三國志十五 魏書十五 劉司馬梁張溫賈傳第十五

藝文本:劉馥(補卷上 29-1191上) 太祖任劉馥爲揚州刺史每請伐吳
校点本:1353 太祖任劉馥爲揚州刺史。呂延濟曰:「劉馥每請伐吳
校点本校勘記に記載なし。

三國志十六 魏書十六 任蘇杜鄭倉傳第十六

藝文本:蘇則 3-456上 本終南
校点本:1409 本終南垂山
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:蘇則 5-457上 侍中傳巽目之
校点本:1411 侍中傳巽目之
「傳」は「傅」とすべきか。 見づらい。

三國志十七 魏書十七 張樂于張徐傳第十七

藝文本:張郃 13-480上 弻按宕渠互見蜀志先主傳
校点本:1482 (弻按,宕渠,互見蜀志先主傳。)
校点本校勘記に記載なし。

三國志十八 魏書十八 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八

藝文本:典韋 17-492上 一义入
校点本:1520 一叉入
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:閻温 25-496上(補卷上 33-1193上) 胡三省曰論語云君子惡居下流天下之惡皆歸焉謂下流當惡居而不當愛也一曰流輩也牽於父子之愛而廢君臣之義是常人之流下一等見識故曰下流之愛弻按本志武文世王公傳樂陵王茂傳封茂爲聊城王以慰太皇太后下流之念意亦同此
校点本:1536 嚴衍曰:「父上而子下,以父而愛子,是慈惠之澤從上而流及於下,故曰下流之愛,非常流,下等之說也。不然,孫登之將死也,上疏於父權曰: 願陛下棄忘臣身,割下流之愛。豈謂其父有下等人識見耶?想魏、晉間恆言,自是如是,非獨就以此規其父也。」胡三省曰:「論語云: 君子惡居下流,天下之惡皆歸焉。謂下流當惡居而不當愛也。一曰,流,輩也。牽於父子之愛,而廢君臣之義,是常人之流,下一等見識,故曰下流之愛。」弻按: 本志武文世王公傳樂陵王茂傳: 「封茂爲聊城王,以慰太皇太后下流之念。」意亦同此。
補卷上には、「卷十八閻温傳第二十五頁第九行故曰下流之愛下補小注」とあり、校点本は「第八行」の下に補っている。
弊サイトで原文を公開する暁には、本文を次のように改める(予定)。
胡三省曰、「論語云、君子惡居下流、天下之惡皆歸焉。謂下流當惡居而不當愛也。一曰、流、輩也。牽於父子之愛、而廢君臣之義、是常人之流、下一等見識、故曰下流之愛」。嚴衍曰、「父上而子下、以父而愛子、是慈惠之澤從上而流及於下、故曰下流之愛、非常流、下等之說也。不然、孫登之將死也、上疏於父權曰、願陛下棄忘臣身、割下流之愛。豈謂其父有下等人識見耶。想魏・晉間恆言、自是如是、非獨就以此規其父也」。弻按、本志武文世王公傳樂陵王茂傳、「封茂爲聊城王、以慰太皇太后下流之念」。意亦同此。

藝文本:閻温 25-496上 拜西域戊已校尉
校点本:1532 拜西域戊己校尉
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:閻温 25-496上 戊已校尉一人
校点本:1536 戊己校尉一人
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:閻温 25-496上 卓遷西域戊已校尉
校点本:1536 卓遷西域戊己校尉
校点本校勘記に記載なし。

三國志二十 魏書二十 武文世王公傳第二十

藝文本:武文世王公 6-521下 林薨於甘露元年正月乙己
校点本:1617 林薨於甘露元年正月乙巳
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:武文世王公 8-522下 靑龍三年冬十月已酉薨
校点本:1620 靑龍三年冬十月己酉薨
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:武文世王公 15-526上 減損大殽饌
校点本:1632 減損(大)〔太〕官殽饌
「官」の字の増補は校点本校勘記に記載なし。

藝文本:武文世王公 23-530上 然爾時司馬羽翼己成
校点本:1644 然爾時司馬羽翼已成
校点本校勘記に記載なし。

三國志二十一 魏書二十一 王衞二劉傅傳第二十一

藝文本:王粲 1-531上 既齊於已
校点本:1646 既齊於己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:王粲(補卷上 39-1196上) 卜台也
校点本:1685 小冶也
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:王粲 26-543下 劉孝標引文士傳曰
校点本:1686-1687 劉孝標(引)注:「文士傳曰
「注」の字の増補は校点本校勘記に記載なし。

三國志二十二 魏書二十二 桓二陳徐衞盧傳第二十二

藝文本:陳泰 13-569上 蜀志先主傳作李韶
校点本:1765 蜀志先主傳作李韶
「先主」は「後主」とすべきか。

藝文本:陳泰 14-569下 上巳書鄧艾
校点本:1768 上巳書鄧艾
「巳」は「已」とすべきか。

藝文本:陳泰 18-571下 本傳言司馬文王率六軍軍丘頭
校点本:1772 本傳言司馬文王率六軍軍丘顗
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

藝文本:衛臻 28-576下 獨棄別傳不采
校点本:1789 獨棄別傳不採
校点本校勘記に記載なし。

三國志二十三 魏書二十三 和常楊杜趙裴傳第二十三

藝文本:常林 11-585上 時苗字德冑
校点本:1813 時苗字德冑
「冑」は「胄」とすべきか。

藝文本:杜襲 18-588下 拜大中大夫
校点本:1825 拜大中大夫
「大中大夫」は「太中大夫」とすべきか。

三國志二十六 魏書二十六 滿田牽郭傳第二十六

藝文本:郭淮 19-634上 此傳亦未載
校点本:1964 此傳未載
校点本校勘記に記載なし。

三國志二十七 魏書二十七 徐胡二王傳第二十七

藝文本:徐邈 2-637下 魏涼州刺史領戊已校尉
校点本:1973 魏涼州刺史領戊己校尉
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:王昶 9-641上 欲使汝曹立身行已
校点本:1982 欲使汝曹立身行己
校点本校勘記に記載なし。

三國志二十八 魏書二十八 王毌丘諸葛鄧鍾傳第二十八

藝文本:諸葛誕 22-661下 魏置征東將車
校点本:2049 魏置征東將軍
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛誕 27-664上 戮其元惡而己
校点本:2054 戮其元惡而已
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鄧艾 29-665上 己東至壽春
校点本:2058 已東至壽春
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鄧艾 29-665上 今三隅己定
校点本:2059 今三隅已定
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鄧艾 34-667下 議者多以爲維力己竭
校点本:2065 議者多以爲維力已竭
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鄧艾 37-669上 杜預曰面縛
校点本:2072 胡三省曰:「杜預曰,面縛
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鍾会 48-674下 葬我小君定似
校点本:2088 葬我小君定姒
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鍾会 52-676下 呂氐春秋曰桀爲無道
校点本:2096 呂氏春秋曰:「桀爲無道
校点本校勘記に記載なし。

三國志二十九 魏書二十九 方伎傳第二十九

藝文本:華佗 1-683上 與旉相似
校点本:2115 與「旉」相似
「旉」は「專」とすべきか。

藝文本:杜虁 13-689上 扁之對不可以言言者
校点本:2135 扁之封不可以言言者
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:管輅 26-695下 館陶令諸葛原遷新興大守
校点本:2156 館陶令諸葛原遷新興大守
「大」は「太」とすべきか。

三國志三十 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十

藝文本:烏丸 4-706下 从鄭玄說
校点本:2189 從鄭玄說
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:烏丸 8-708下 封邟𦂫侯
校点本:2194 封邟𦂫侯
「𦂫」は「鄕」とすべきか。

藝文本:東夷 20-714下 遺太尉司馬宣王征淵
校点本:2215 遺太尉司馬宣王征淵
「遺」は「遣」とすべきか。 見づらい。

藝文本:東夷 27-718上 言語己定
校点本:2223 言語已定
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:東夷 25-717上 其在平安道成川郡者
校点本:2224 其在平安道成川郡省
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:東夷 30-719下 位宮久己破亡
校点本:2230 位宮久已破亡
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:東夷 35-722上 眞番四部
校点本:2240 眞番四部
「部」は「郡」とすべきか。

藝文本:西戎 68-738下 漢書云傳聞條支有弱水
校点本:2293 (漢)〔後〕漢書云: 傳聞條支有弱水
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:東夷 69-739上 今不屬也
校点本:2265 今不屬見
校点本校勘記に記載なし。

三國志三十一 蜀書一 劉二牧傳第一

藝文本:劉璋 9-745上 見費褘傳
校点本:2315 見費褘傳
「褘」は「禕」とすべきか。 見づらい。

藝文本:劉璋 13-747上 費褘葬此
校点本:2319 費褘葬此
「褘」は「禕」とすべきか。 見づらい。

三國志三十二 蜀書二 先主傳第二

藝文本:卷首 3-750上 通鑑膝作䣛
校点本:2329 通鑑「膝」作「厀」
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:卷首 3-750上 䣛與膝同
校点本:2329 厀與膝同
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:卷首 5-751上 華陽國志北海相魯國孔融爲黃巾所圍使太史慈求救於先主先主曰孔文舉聞天下有劉備乎以兵救之廣陵太守下邳陳登元龍太尉球孫也有雋才輕天下士謂功曹陳矯曰雄姿傑出有王霸之略吾敬劉玄德
校点本:2331 華陽國志:「北海相魯國孔融爲黃巾所圍,使太史慈求救於先主。先主曰: 孔文舉聞天下有劉備乎?以兵救之。
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:建安十七年 21-759上 懼禍及已
校点本:2359 懼禍及己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:章武元年 36-766下 夾溪
校点本:2382 其一焉夾溪
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:章武二年 36-766下 於夷道猇【原注許交反】亭駐營
校点本:2383 於夷道猇亭【原注: 「許交反。」】駐營
校点本校勘記に記載なし。 ※【】内は集解箇所。

藝文本:章武二年 37-767上 自佷【原注佷音恆】山通武陵
校点本:2383,2384 自佷山【原注: 「佷,音恆。」】通武陵
校点本校勘記に記載なし。 ※【】内は集解箇所。

三國志三十三 蜀書三 後主傳第三

藝文本:後主 建興二年 4-771下 而江夏費褘
校点本:2398 而江夏費褘
「褘」は「禕」とすべきか。 見づらい。

藝文本:後主 建興十二年 10-p774下 費褘和解
校点本:2408 費褘和解
「褘」は「禕」とすべきか。 見づらい。

三國志三十四 蜀書四 二主妃子傳第四

藝文本:後主太子 5-783上 費褘子恭尙公主見褘傳
校点本:2436 費褘子恭尙公主,見褘傳
「褘」は「禕」とすべきか。 見づらい。

三國志三十五 蜀書五 諸葛亮傳第五

藝文本:諸葛亮 3-785上 在邊鄙而巳
校点本:2438 在邊鄙而已
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

藝文本:諸葛亮 3-785上 鵾鵬巳翔於遼廓
校点本:2438 鵾鵬已翔於遼廓
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

藝文本:諸葛亮 3-785上 可謂諸葛知已
校点本:2442 可謂諸葛知己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 7-787上 逮大和中
校点本:2446 逮大和中
「大」は「太」とすべきか。

藝文本:諸葛亮 9-788上 兵勢巳合
校点本:2452 兵勢已合
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

藝文本:諸葛亮 10-788下 史臣廢弃
校点本:2453 史臣廢棄
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 18-792下 埽地卻洒
校点本:2459 埽地卻灑
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 26-796下 住者憤踊
校点本:2475 住者憤踴
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 一腳四足
校点本:2482 一脚四足
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 雙者爲牛腳
校点本:2482 雙者爲牛脚
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 前腳孔分墨二寸
校点本:2482 前脚孔分墨二寸
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 前杠孔去前腳孔分墨二寸七分
校点本:2482 前杠孔去前脚孔分墨二寸七分
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 後腳孔分墨去後軸孔三寸五分
校点本:2482 後脚孔分墨去後軸孔三寸五分
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 後杠孔去後腳孔分墨二寸七分
校点本:2482 後杠孔去後脚孔分墨二寸七分
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 前後四腳
校点本:2482 前後四脚
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 30-798下 孔徑中三腳杠長二尺一寸
校点本:2483 孔徑中三脚杠長二尺一寸
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 36-801下 埋人腳而戰
校点本:2493 埋人脚而戰
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 36-801下 諸葛瞻埋人腳戰處也
校点本:2493 諸葛瞻埋人脚戰處也
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛亮 42-804下 命大傅掾犍爲李興爲文曰
校点本:2499 命大傅掾犍爲李興爲文曰
「大」は「太」とすべきか。

三國志三十六 蜀書六 關張馬黃趙傳第六

藝文本:関羽 4-807下 京兆金褘等謀挾天子以攻魏
校点本:2513 京兆金褘等謀挾天子以攻魏
「褘」は「禕」とすべきか。 見づらい。

藝文本:関羽 6-808下 粱章鉅曰羽好左氏
校点本:2515 梁章鉅曰:「羽好左氏
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張飛 8-809下 受政教之中正而已
校点本:2519 受政教之中正已
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:趙雲 17-814上 陳祇寵待
校点本:2534 陳祇寵待
「祇」は「祗」とすべきか。

三國志三十七 蜀書七 龐統法正傳第七

藝文本:龐統 2-816下 水經注敘魚粱洲於峴山前
校点本:2540 水經注敘魚粱洲於峴山前
「粱」は「梁」とすべきか。

三國志三十八 蜀書八 許麋孫簡伊秦傳第八

藝文本:秦宓 13-830上 尙猷訽茲黃髮
校点本:2582 尙猷訽茲黃髮
「訽」は「詢」とすべきか。 見づらい。

三國志四十 蜀書十 劉彭廖李劉魏楊傳第十

藝文本:魏延 18-849下 延知儀必不巳從
校点本:2642 延知儀必不己從
校点本校勘記に記載なし。

三國志四十一 蜀書十一 霍王向張楊費傳第十一

藝文本:霍峻 4-853下 追贈廣漢大守
校点本:2650 追贈廣漢大守
「大」は「太」とすべきか。

藝文本:霍峻 4-853下 大尉趙彥信及漢中陳申伯
校点本:2652 大尉趙彥信及漢中陳申伯
「大」は「太」とすべきか。

藝文本:向朗 7-855上 二玉之文殆述所作乎
校点本:2657 二玉之文,殆述所作乎。」
」(鍵カッコ閉じ)は不要と思われる。

藝文本:楊洪 11-857上 馮本常作當
校点本:2664 馮本「常」作(當)〔嘗〕
「(當)〔嘗〕」のように、鍵カッコを附すべきか。

三國志四十二 蜀書十二 杜周杜許孟來尹李譙郤傳第十二

藝文本:許慈 6-861下 舉手可釆
校点本:2677 舉手可采
校点本校勘記に記載なし。 見づらい。

藝文本:来敏 10-863下 與費禕對奕
校点本:2686 與費禕對弈
校点本校勘記に記載なし。

三國志四十三 蜀書十三 黃李呂馬王張傳第十三

藝文本:張嶷 14-882下 幷見其姊
校点本:2748 並見其姊
校点本校勘記に記載なし。 ※2箇所。

三國志四十四 蜀書十四 蔣費姜傳第十四

藝文本:費禕 6-887下 幷論當世之務
校点本:2760 並論當世之務
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:費禕 6-887下 猶有不暇爾
校点本:2761 猶有不暇爾」。琬自漢中還涪,禕遷大將軍,錄尙書事。
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:費禕 7-888上 琬自漢中還涪禕遷大將軍錄尙書事延煕七年
校点本:2763 延煕七年
校点本校勘記に記載なし。 ※校点本は、陳寿本文「琬自漢中還涪禕遷大將軍錄尙書事」が裴注「猶有不暇爾」の後に入れられている。

藝文本:姜維 13-891上 與游軍幷力搏之
校点本:2773 與游軍併力搏之
校点本校勘記に記載なし。

三國志四十五 蜀書十五 鄧張宗楊傳第十五

藝文本:鄧芝 2-894下 進可兼幷天下
校点本:2784 進可兼併天下
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鄧芝 2-894下 如幷魏之後
校点本:2784 如併魏之後
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:楊戯 16-901下
校点本:2805
「少府脩愼」より以下、季漢輔臣贊本文に対する陳寿補足文の文字の大きさ、挿入位置が大幅に異なる。それら全てを記載していくと、ただいたずらに項目を増やすことになるので、ここでは敢えて省略する。

藝文本:楊戯 23-905上 幷敕郁曰
校点本:2817 並敕郁曰
校点本校勘記に記載なし。

三國志四十六 吳書一 孫破虜討逆傳第一

藝文本:孫堅 4-908下 雋擊弘
校点本:2829 儁擊弘
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 4-908下 賊餘帥韓忠復據宛拒雋
校点本:2829 賊餘帥韓忠復據宛拒儁
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 4-908下 雋又大破之
校点本:2829 儁又大破之
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 4-908下 雋自將精卒五千
校点本:2829 儁自將精卒五千
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 5-909上 徐州刺史陶謙等推雋爲太師
校点本:2830 徐州刺史陶謙等推儁爲太師
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 5-909上 范書雋傳初平四年
校点本:2830 范書儁傳:「初平四年
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 5-909上 范書雋傳獻帝詔雋與太尉楊彪等十餘人
校点本:2830 范書儁傳:「獻帝詔儁與太尉楊彪等十餘人
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 5-909上 遂留質雋等
校点本:2830 遂留質儁等
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 5-909上 雋素剛
校点本:2830 儁素剛
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 5-909上 雋不死於卓
校点本:2830 儁不死於卓
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫堅 5-909上 雋不死於董卓
校点本:2830 儁不死於董卓
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫策 16-914下 己乃渡江居江都
校点本:2847 己乃渡江居江都
「己」は「已」とすべきか。

三國志四十七 吳書二 吳主傳第二

藝文本:孫権 黄武四年 28-939下 拜廬江大守
校点本:2928 拜廬江大守
「大」は「太」とすべきか。

藝文本:孫権 黄武四年 29-940上 子熾字公煕
校点本:2929 長子熾,字公煕
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫権 赤烏五年 50-950下 續漢志百官志太官令一人
校点本:2964 續漢(志)〔書〕百官志:「太官令一人
他箇所も「續漢志百官志」で検索してみるとよい…かも。

藝文本:孫権 赤烏五年 50-950下 水經温水注引林邑記曰
校点本:2964 水經温水注:「林邑記曰
校点本校勘記に記載なし。

三國志四十八 吳書三 三嗣主傳第三

藝文本:孫亮 建興二年 2-956下 鳳栖山在鄂州武昌縣西北二百二十五里
校点本:2983 鳳棲山在鄂州武昌縣西北二百二十五里
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫休 太平三年 7-959上 已未孫綝使宗正孫楷與中書郞董朝迎休
校点本:2992 己未,孫綝使宗正孫楷與中書郞董朝迎休
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫休 永安四年 12-961下 前己辨之
校点本:3000 前已辨之
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫亮 永安五年 15-963上 令巳不得專
校点本:3002 令己不得專
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫休 永安七年 17-964上 海鹽見孫權傳赤鳥五年
校点本:3008 海鹽見孫權傳赤烏五年
校点本校勘記に記載なし。
弊サイトで原文を公開する暁には、「赤鳥」を「赤烏」に改める。

藝文本:孫晧 元興元年 20-965下 惟赤鳥五年書立子霸爲魯王
校点本:3013 惟赤烏五年書立子霸爲魯王
校点本校勘記に記載なし。
弊サイトで原文を公開する暁には、「赤鳥」を「赤烏」に改める。

藝文本:孫晧 寶鼎元年 24-967下 故各獻已所貴
校点本:3020 故各獻己所貴
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 寶鼎元年 24-967下 示損已而不爲彼貨利
校点本:3020 示損己而不爲彼貨利
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 建衡三年 31-971上 僅以身
校点本:3030 僅以身免
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 鳳皇元年 33-972上 蓋奉巳先卒
校点本:3034 蓋奉已先卒
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 鳳皇三年 35-973上 事由於已
校点本:3036 事由於己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 天璽元年 38-974下 太尉璆卽宏璆
校点本:3041 太尉璆卽弘璆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 49-980上 伷以晧致印綬於已
校点本:3059 伷以晧致印綬於己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 50-980下 不合長歷
校点本:3062 不合長曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 50-980下 吾本已姓
校点本:3062 吾本己姓
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 56-983下 披懷虛已
校点本:3066 披懷虛己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫晧 52-981下 以爲已相
校点本:3069 以爲己相
校点本校勘記に記載なし。

三國志四十九 吳書四 劉繇太史慈士燮傳第四

藝文本:劉繇 2-985下 以老病卒于家
校点本:3078 以老病卒於家
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:太史慈 9-989上 策己平定宣城以東
校点本:3091 策已平定宣城以東
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:太史慈 10-989下 孤是卿知已
校点本:3091 孤是卿知己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:太史慈 11-990上 幷觀察子魚所以牧禦方規何似
校点本:3092 並觀察子魚所以牧禦方規何似
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:太史慈 11-990上 一以意許知已
校点本:3092 一以意許知己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:太史慈 12-990下 子義故多知已
校点本:3096 子義故多知己
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十 吳書五 妃嬪傳第五

藝文本:妃嬪 3-995上 奮弟祺
校点本:3110 奮弟祺嗣
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:妃嬪 5-996上 蓋魏用景初歷
校点本:3115 蓋魏用景初曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:妃嬪 9-998上 詩稱刑于寡妻
校点本:3122 詩稱刑於寡妻
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:妃嬪 9-998上 至于兄弟
校点本:3122 至於兄弟
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:妃嬪 9-998上 以御于家邦
校点本:3122 以御於家邦
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:妃嬪 9-998上 幷及公主魯育
校点本:3122 並及公主魯育
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:妃嬪 12-999下 隨晧遷于洛陽
校点本:3126 隨晧遷於洛陽
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:妃嬪 12-999下 詩云刑于寡妻
校点本:3127 詩云:「刑於寡妻
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十一 吳書六 宗室傳第六

藝文本:宗室 8-1003下 列軍自朝歌至于河橋
校点本:3142 列軍自朝歌至於河橋
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:宗室 8-1003下 幷收雲
校点本:3142 並收雲
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:宗室 9-1004上 幷招誘餘民
校点本:3142 並招誘餘民
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:宗室 17-1008上 乃至于此
校点本:3156 乃至於此
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:宗室 18-1008下 亦幷見害
校点本:3158 亦並見害
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十二 吳書七 張顧諸葛步傳第七

藝文本:張昭 6-1011下 動不爲已
校点本:3167 動不爲己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:諸葛瑾 23-1020上 因以已心遙往忖度之
校点本:3195 因以己心遙往忖度之
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:歩騭 34-1025下 思慮不到則巳
校点本:3212 思慮不到則已
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十三 吳書八 張嚴程闞薛傳第八

藝文本:張紘 3-1029上 幷求親戚爲之後
校点本:3223 並求親戚爲之後
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張紘 3-1029上 誠懼幷命戮力死戰之寇
校点本:3225 誠懼並命戮力死戰之寇
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張紘 6-1030下 晧意謂尙以斯喩已
校点本:3229 晧意謂尙以斯喩己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張紘 7-1031上 晧性忌勝已
校点本:3229 晧性忌勝己
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張紘 7-1031上 拚飛惟鳥
校点本:3231 拼飛惟鳥
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張紘 7-1031上 微小黃雀
校点本:3231 微小於黃雀
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張紘 7-1031上 建安見孫權傳赤鳥二年
校点本:3231 建安見孫權傳赤烏二年
校点本校勘記に記載なし。
弊サイトで原文を公開する暁には、「赤鳥」を「赤烏」に改める。

藝文本:程秉 9-1032上 故詩美關睢
校点本:3234 故詩美關雎
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:闞澤 10-1032下 改四分用乾象歷
校点本:3237 改四分,用乾象曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:闞澤 10-1032下 晉書宋書歷志曰
校点本:3237 晉書、宋書曆志曰
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:闞澤 10-1032下 不見改歷
校点本:3237 不見改曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:闞澤 10-1032下 故孫氏用乾象歷
校点本:3237 故孫氏用乾象曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:闞澤 10-1032下 漢會𥡴太守劉洪付乾象歷於東萊徐岳
校点本:3237 漢會𥡴太守劉洪付乾象曆於東萊徐岳
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:闞澤 10-1032下 乾象歷三卷
校点本:3237 乾象曆三卷
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:闞澤 10-1032下 劉洪乾象歷術三卷
校点本:3237 劉洪乾象曆術三卷
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十四 吳書九 周瑜魯肅呂蒙傳第九

藝文本:周瑜 1-1039上 以老病卒于家
校点本:3258 以老病卒於家
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:周瑜 6-1041下 左右有弩窗矛宂
校点本:3267 左右有弩窗矛穴
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:周瑜 7-1042上 己選三萬人
校点本:3266 已選三萬人
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:周瑜 7-1042上 時曹公軍衆巳有疾病
校点本:3268 時曹公軍衆已有疾病
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:周瑜 14-1045下 會瑜巳徙肅母到吳
校点本:3280 會瑜已徙肅母到吳
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:周瑜 16-1046下 聞曹公己向荆州
校点本:3282 聞曹公已向荆州
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:呂蒙 30-1053下 晉陶侃傳備威儀迎母
校点本:3306 晉書陶侃傳:「備威儀迎母
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十五 吳書十 程黃韓蔣周陳董甘淩徐潘丁傳第十

藝文本:韓当 5-1057上 元本作及已
校点本:3318 元本作及己
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十七 吳書十二 虞陸張駱陸吾朱傳第十二

藝文本:虞翻 6-1080下 引禁併行
校点本:3393 引禁并行
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 8-1081下 易律歷一卷虞翻撰
校点本:3399 易律曆一卷,虞翻撰
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 8-1081下 周易集林律歷一卷
校点本:3399 周易集林律曆一卷
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 8-1081下 虞翻注京房周易律歷一卷
校点本:3390 虞翻注京房周易律曆一卷
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 10-1082下 並見仲翔說
校点本:3400 并見仲翔說
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 11-1083上 遷司徙
校点本:3401 遷司徙
「徙」は「徒」とすべきか。

藝文本:虞翻 13-1084上 今並輯各依所引錄之
校点本:3407 今并輯各依所引錄之
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 15-1085上 並伏節死難
校点本:3410 并伏節死難
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 19-1087上 諸書既並言在元鼎中
校点本:3414 諸書既并言在元鼎中
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 21-1088上 並遵行之
校点本:3416 并遵行之
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:虞翻 19-1087上 楊雄之才
校点本:3416 (楊)〔揚〕雄之才
「楊雄」の箇所は他にもあるが、ここだけ修正されているのは不自然な気が…。

藝文本:陸績 23-1089上 從今己去
校点本:3420 從今已去
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸績 24-1089下 並以親附太子
校点本:3423 并以親附太子
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸績 24-1089下 似與二顧並爲遜之外生
校点本:3423 似與二顧并爲遜之外生
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張温 26-1090下 恐終不爲已用
校点本:3426 恐終不爲己用
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張温 27-1091上 虛已待之
校点本:3427 虛己待之
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張温 28-1091下 爲已形勢
校点本:3427 爲己形勢
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:張温 29-1092上 因敘已情
校点本:3430 因敘己情
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:駱統 31-1093上 羣賊並起
校点本:3433 羣賊并起
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:駱統 31-1093上 並得全活
校点本:3434 并得全活
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:駱統 31-1093上 汝南葛陂盜賊並起
校点本:3434 汝南葛陂盜賊并起
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:吾粲 37-1096上 吾本已姓
校点本:3443 吾本己姓
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十八 吳書十三 陸遜傳第十三

藝文本:陸遜 1-1098上 水經注兩說並存
校点本:3450 水經注兩說并存
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 5-1100上 令並獲自進
校点本:3456 令并獲自進
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 5-1100上 諸將並欲迎擊備
校点本:3456 諸將并欲迎擊備
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 6-1100下 諸將並曰
校点本:3457 諸將并曰
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 6-1100下 水陸並進則及鋒而用
校点本:3458 水陸并進,則及鋒而用
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 7-1101上 諸君並荷國恩
校点本:3459 諸君并荷國恩
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 8-1101下 於是並坐極歡
校点本:3460 於是并坐極歡
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 8-1101下 並刻權印
校点本:3461 并刻權印
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 9-1102上 公卿並爲祖道
校点本:3462 公卿并爲祖道
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 9-1102上 並掌荆州及豫章三郡事
校点本:3462 并掌荆州及豫章三郡事
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 12-1103下 並帥支黨來附遜
校点本:3467 并帥支黨來附遜
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 13-1104上 並應遽爲寇
校点本:3469 并應遽爲寇
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 14-1104下 先是二宮並闕
校点本:3470 先是二宮并闕
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸遜 15-1105上 並以親附太子
校点本:3471 并以親附太子
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 21-1108上 而並旋受誅殛
校点本:3481 而并旋受誅殛
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 24-1109下 後並歷顯位
校点本:3485 後并歷顯位
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 24-1109下 雲並自結於成都王穎
校点本:3485 雲并自結於成都王穎
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 25-1110上 並收雲及弟耽
校点本:3485 并收雲及弟耽
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 25-1110上 並伏法
校点本:3485 并伏法
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 25-1110上 並以無罪夷滅
校点本:3485 并以無罪夷滅
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 26-1100下 事亦並在晉書
校点本:3485 事亦并在晉書
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 23-1109上 並吳中夏督陵景撰
校点本:3486 并吳中夏督陵景撰
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 24-1109下 吳王晏並救理之
校点本:3487 吳王晏并救理之
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 25-1110上 所著文章凡三百餘篇並行於世
校点本:3488 所著文章凡三百餘篇,并行於世
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 25-1110上 又撰新書十篇並行於世
校点本:3489 又撰新書十篇,并行於世
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:陸抗 25-1110上 直齊書錄解題並十卷
校点本:3489 直齊書錄解題并十卷
校点本校勘記に記載なし。

三國志五十九 吳書十四 吳主五子傳第十四

藝文本:孫登 1-1111上 孫咸並見符緯也
校点本:3492 孫咸并見符緯也
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫登 2-1111下 竭忠知已之君
校点本:3492 竭忠知己之君
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫和 8-1114下 直事在署者頗斆焉
校点本:3503 直事在署者頗斅焉
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫奮 15-1118上 釋文所引隱義並鈔入焉
校点本:3514 釋文所引隱義并鈔入焉
校点本校勘記に記載なし。

三國志六十 吳書十五 賀全呂周鍾離傳第十五

藝文本:呂岱 15-1126上 九月已丑卒
校点本:3542 九月己丑卒
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:周魴 16-1126下 未能釆納
校点本:3545 未能采納
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:鍾離牧 23-1130上 己不得爲孝子矣
校点本:3545 已不得爲孝子矣
校点本校勘記に記載なし。

三國志六十一 吳書十六 潘濬陸凱傳第十六

藝文本:潘濬 4-1133下 聞太子登己數言之
校点本:3566 聞太子登已數言之
校点本校勘記に記載なし。

三國志六十二 吳書十七 是儀胡綜傳第十七

藝文本:是儀 2-1140下 則霸己賜死久矣
校点本:3590 則霸已賜死久矣
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:胡綜 4-1141下 地理志云鄠縣古扈國有戶亭訓纂云戶扈鄠三字一也古今字不同耳
校点本:3594 正義曰:「地理志云,鄠縣,古扈國,有戶亭。訓纂云,戶、扈、鄠,三字一也。古今字不同耳。」
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:胡綜 4-1141下 括地志云衞州城故老云周武王伐紂至于商郊牧野乃築此城酈元注水經云自朝歌南至淸水土地平衍據臯跨澤悉牧野也括地志又云紂都朝歌在衞州東北七十三里朝歌故城是也
校点本:3594 正義曰:「括地志云: 衞州城,故老云周武王伐紂,至于商郊牧野,乃築此城。酈元注水經云: 自朝歌南至淸水,土地平衍,據臯跨澤,悉牧野也。括地志又云: 紂都朝歌,在衞州東北七十三里朝歌故城是也。」
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:胡綜 5-1142上 春秋合誠圖云紫微大帝室太一之精也
校点本:3595 索隱曰:「春秋合誠圖云,紫微大帝室,太一之精也。」
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:胡綜 6-1142下 燕惠王固己疑樂毅
校点本:3598 燕惠王固已疑樂毅
校点本校勘記に記載なし。

三國志六十三 吳書十八 吳範劉惇趙達傳第十八

藝文本:呉範 2-1146下 羽己去
校点本:3606 羽已去
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:趙達 6-1148下 中常侍廬江王蕃傳劉洪乾象歷
校点本:3614 中常侍廬江王蕃傳劉洪乾象曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:趙達 7-1149上 至于建安
校点本:3615 至於建安
校点本校勘記に記載なし。

三國志六十四 吳書十九 諸葛滕二孫濮陽傳第十九

藝文本:諸葛恪 6-1152下 吳廬江大守治皖城
校点本:3627 吳廬江大守治皖城
「大」は「太」とすべきか。

藝文本:諸葛恪 17-1158上 可以鏡譏于後
校点本:3644 可以鏡譏於後
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:孫綝 26-2262下 決水又北入于淮
校点本:3660 決水又北入於淮
校点本校勘記に記載なし。

三國志六十五 吳書二十 王樓賀韋華傳第二十

藝文本:王蕃 2-1166下 傳劉洪乾象歷
校点本:3676 傳劉洪乾象曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:王蕃 2-1166下 又歷志曰
校点本:3676 又曆志曰
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:王蕃 2-1166下 善歷數之學
校点本:3676 善曆數之學
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:韋曜 9-1170上 雲翹承
校点本:3687 雲翹承□
校点本校勘記に記載なし。「□」は記号の四角。

藝文本:韋曜 12-1171下 又性精确
校点本:3691 又性精確
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:韋曜 12-1171下 續漢志律歷志
校点本:3693 續漢志律曆志
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:韋曜 13-1172上 囚昔見世閒有古歷注
校点本:3693 囚昔見世閒有古曆注
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:韋曜 13-1172上 此指周長生之洞歷
校点本:3693 此指周長生之洞曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:韋曜 13-1172上 史通表歷篇
校点本:3693 史通表曆篇
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:韋曜 13-1172上 陶弘景帝代年歷
校点本:3693 陶弘景帝代年曆
校点本校勘記に記載なし。

藝文本:韋曜 13-1172上 又作洞歷記
校点本:3693 又作洞曆記
校点本校勘記に記載なし。

三國志集解補卷上

藝文本:補卷上 33-1193上 卷十八龎淯傳第二十一頁
校点本:なし
「龎」は「龐」とすべきか。

 文責:suite
2013.05.20 公開