宋書巻三十九

 志第二十九

    百官上

 太宰、一人、周武王時、周公旦始居之、掌邦治、爲六卿之首、秦・漢・魏不常置、晉初依周禮、備置三公、三公之職、太師居首、景帝名師、故置太宰以代之、太宰、蓋古之太師也、殷紂之時、箕子爲太師、周武王時、太公爲太師、周成王時、周公爲太師、周公薨、畢公代之、漢西京初不置、平帝始復置太師官、而孔光居焉、漢東京又廢、獻帝初、董卓爲太師、卓誅又廢、魏世不置、晉旣因太師而置太宰、以安平王孚居焉、
 太傅、一人、周成王時、畢公爲太傅、漢高后元年、初用王陵、
 太保、一人、殷太甲時、伊尹爲太保、周武王時、召公爲太保、漢平帝元始元年、始用王舜、後漢至魏不置、晉初復置焉、自太師至太保、是爲三公、論道經邦、燮理陰陽、無其人則闕、所以訓護人主、導以德義者、

 太宰は、一人。周の武王の時に、周公旦始めて之に居り、邦治を掌り、六卿の首爲り。秦・漢・魏には常置せず。晉の初めには周禮に依り、備へて三公を置く。三公の職は、太師を首に居き、景帝の名師なれば、故に太宰を置きて以て之に代ふ。太宰は、蓋し古の太師なり。殷の紂の時に、箕子を太師と爲し、周の武王の時には、太公を太師と爲し、周の成王の時には、周公を太師と爲す。周公薨じ、畢公を之に代ふ。漢の西京の初めには置かざるも、平帝は始めて復た太師の官を置き、而して孔光を焉に居く。漢の東京には又た廢す。獻帝の初めには、董卓は太師と爲り、卓誅されて又た廢す。魏の世には置かず。晉には旣に太師に因りて而して太宰を置き、安平王孚を以て焉に居く。
 太傅は、一人。周の成王の時に、畢公を太傅と爲す。漢の高后元年に、初めて王陵を用ふ。
 太保は、一人。殷の太甲の時に、伊尹を太保と爲す。周の武王の時には、召公を太保と爲す。漢の平帝の元始元年には、始めて王舜を用ふ。後漢より魏に至りても置かず、晉の初めには復た置く。太師自り太保に至るまで、是れを三公と爲す。道を論じて邦を經め、陰陽を燮理し、其の人無くば則ち闕く。人主を訓護し、德の義なる者を以て導かしむる所以なり。

 太宰は、一人。周の武王の時代に、周公旦をはじめてこれに据え、国家の政治を担当し、六卿の首席とさせた。秦・漢・魏では常置しなかった。晋の初年には『周礼』に従い、備えて三公を置いた。三公の職は、太師を首席に据えたが、景帝の名が師であったため、そこで太宰を置いてこれに代えた。太宰は、おそらく古代の太師である。殷の紂王の時代に、箕子を太師とし、周の武王の時代には、太公を太師とし、周の成王の時代には、周公を太師とした。周公が薨去すると、畢公をこれに代えた。西漢の初年には置かなかったが、平帝は再び太師の官を置き、孔光をこれに据えた。東漢ではまた廃止した。献帝の初年には、董卓は太師となり、董卓が誅殺されるとまた廃止した。魏の時代には置かなかった。晋では既に太師に基づいて太宰を置き、安平王司馬孚をこれに据えた。
 太傅は、一人。周の成王の時代に、畢公を太傅とした。漢の高后元年(187)に、初めて王陵を任用した。
 太保は、一人。殷の太甲の時代に、伊尹を太保とした。周の武王の時には、召公を太保とした。漢の平帝の元始元年(AD1)には、初めて王舜を任用した。後漢より魏に至っても置かず(1)、晋の初年には再び置いた。太師より太保に至るまで、これらを三公とした。道を論究して国家を経営し、陰陽を調和し、徳を有する者がいなければ空位とした。天子を教え護り、徳の篤い者に導かせるためであった。

 (1)原文「後漢至魏不置」。
 『三国志』魏書第四「斉王紀」景元四年(263)十二月庚戌の条に、「以司徒鄭沖爲太保」とあり、魏の末年に鄭沖が太保となっている。

 相國、一人、漢高帝十一年始置、以蕭何居之、罷丞相、何薨、曹參代之、參薨、罷、魏齊王以晉景帝爲相國、晉惠帝時趙王倫、愍帝時南陽王保、安帝時宋高祖、順帝時齊王、竝爲相國、自魏晉以來、非復人臣之位矣、
 丞相、一人、殷湯以伊尹爲右相、仲虺爲左相、秦悼武王二年、始置丞相官、丞、奉、相、助也、悼武王子昭襄王始以樗里疾爲丞相、後又置左右丞相、漢高帝初、置一丞相、十一年、更名相國、孝惠・高后置左右丞相、文帝二年、復置一丞相、哀帝元壽二年、更名大司徒、漢東京不復置、至獻帝建安十三年、復置丞相、魏世及晉初又廢、惠帝世、趙王倫篡位、以梁王肜爲丞相、永興元年、以成都王穎爲丞相、愍帝建興元年、以琅邪王睿爲左丞相、南陽王保爲右丞相、三年、以保爲相國、睿爲丞相、元帝永昌元年、以王敦爲丞相、轉司徒荀組爲太尉、以司徒官屬幷丞相爲留府、敦不受、成帝世、以王導爲丞相、罷司徒府以爲丞相府、導薨、罷丞相、復爲司徒府、宋世祖初、以南郡王義宣爲丞相、而司徒府如故、

 相國は、一人。漢の高帝十一年に始めて置き、蕭何を以て之に居き、丞相を罷め、何薨じ、曹參を之に代へ、參薨じ、罷む。魏の齊王は晉の景帝を以て相國と爲す。晉の惠帝の時には趙王倫、愍帝の時には南陽王保、安帝の時には宋の高祖、順帝の時には齊王は、竝びに相國と爲る。魏晉自り以來、復た人臣の位に非ず。
 丞相は、一人。殷湯は伊尹を以て右相と爲し、仲虺を左相と爲す。秦の悼武王の二年に、始めて丞相の官を置く。丞は、奉、相は、助なり。悼武王の子昭襄王は始めて樗里疾を以て丞相と爲し、後に又た左右の丞相を置く。漢の高帝の初めに、一丞相を置き、十一年には、名を相國に更む。孝惠・高后には左右の丞相を置き、文帝の二年には、復た一丞相を置く。哀帝の元壽二年には、名を大司徒に更む。漢の東京には復た置かず。獻帝の建安十三年に至り、復た丞相を置くも、魏の世及び晉の初めには又た廢す。惠帝の世に、趙王倫篡位するや、梁王肜を以て丞相と爲す。永興元年には、成都王穎を以て丞相と爲す。愍帝の建興元年には、琅邪王睿を以て左丞相と爲し、南陽王保を右丞相と爲し、三年には、保を以て相國と爲し、睿を丞相と爲す。元帝の永昌元年には、王敦を以て丞相と爲し、司徒荀組を轉して太尉と爲し、司徒の官屬を以て丞相に幷せて留府と爲すも、敦受けず。成帝の世には、王導を以て丞相と爲し、司徒府を罷めて以て丞相府と爲すも、導薨じ、丞相を罷め、復た司徒府と爲す。宋の世祖の初めに、南郡王義宣を以て丞相と爲し、而して司徒府は故の如くす。

 相国は、一人。漢の高帝十一年(196BC)に初めて置き、蕭何をこれに据え、丞相を廃止し、蕭何が薨去すると、曹参をこれに代え、曹参が薨去すると、廃止した。魏の斉王は晋の文帝を相国とした(1)。晋の恵帝の時代には趙王司馬倫、愍帝の時には南陽王司馬保、安帝の時には宋の高祖、〔宋の〕順帝の時には斉王(蕭道成)は、みな相国となった。魏晋より以来、もう人臣の位ではなかった。
 丞相は、一人。殷湯は伊尹を右相となし、仲虺を左相とした。秦の悼武王の二年(309BC)に、初めて丞相の官を置いた。丞は、奉、相は、助である。悼武王の息子の昭襄王は初めて樗里疾を丞相となし、後にまた左右の丞相を置いた。漢の高皇帝の初年に、一丞相を置き、十一年(196BC)には、相国に改称した。孝恵帝・高后〔の時代〕には左右の丞相を置き、文帝の二年(178BC)には、再び一丞相を置いた。哀帝の元寿二年(1BC)には、大司徒に改称した。東漢ではもう置かなかった。献帝の建安十三年(208)に至り、再び丞相を置いたが、魏の時代及び晋の初年にはまた廃止した。〔晋の〕恵帝の時代に、趙王司馬倫が簒奪すると、梁王司馬肜を丞相とした。永興元年(304)には、成都王司馬穎を丞相とした。愍帝の建興元年(313)には、琅邪王司馬睿を左丞相となし、南陽王司馬保を右丞相となし、三年(315)には、司馬保を相国となし、司馬睿を丞相とした。元帝の永昌元年(322)には、王敦を丞相となし、司徒荀組を移して太尉となし、司徒の属官を丞相に併せて留府(京師の丞相府)としたが、王敦は受けなかった。成帝の時代には、王導を丞相となし、司徒府を廃止して丞相府としたが、王導が薨去すると、丞相を廃止し、再び司徒府とした。宋の世祖の初年に、南郡王劉義宣を丞相とし、司徒府は元と同じくした。

 (1)原文「魏齊王以晉景帝爲相國」。
 『三国志』『晋書』『資治通鑑』によると、相国となったのは、景帝ではなく文帝である。ここでは、「景帝」を「帝」として訳す。

 太尉、一人、自上安下曰尉、掌兵事、郊祀掌亞獻、大喪則吿諡南郊、堯時舜爲太尉官、漢因之、武帝建元二年省、光武建武二十七年、罷大司馬、置太尉以代之、靈帝末、以劉虞爲大司馬、而太尉如故、
 司徒、一人、掌民事、郊祀掌省牲視濯、大喪安梓宮、少昊氏以鳥名官、而祝鳩氏爲司徒、堯時舜爲司徒、舜攝帝位、命契爲司徒、契玄孫之孫曰微、亦爲夏司徒、周時司徒爲地官、掌邦敎、漢西京初不置、哀帝元壽二年、罷丞相、置大司徒、光武建武二十七年、去大、
 司空、一人、掌水土事、郊祀掌掃除陳樂器、大喪掌將校復土、舜攝帝位、以禹爲司空、契玄孫之子曰冥、亦爲夏司空、殷湯以咎單爲司空、周時司空爲冬官、掌邦事、漢西京初不置、成帝綏和元年、更名御史大夫爲大司空、哀帝建平二年、復爲御史大夫、元壽二年、復爲大司空、光武建武二十七年去大字、獻帝建安十三年、又罷司空、置御史大夫、御史大夫郗慮免、不復補、魏初又置司空、

 太尉は、一人。上安自り下を尉と曰ふ。兵事を掌り、郊祀には亞獻を掌り、大喪には則ち諡を南郊に吿ぐ。堯の時に舜を太尉の官と爲し、漢は之に因る。武帝の建元二年に省く。光武の建武二十七年に、大司馬を罷め、太尉を置きて以て之に代ふ。靈帝の末に、劉虞を以て大司馬と爲すも、而して太尉は故の如くす。
 司徒は、一人。民事を掌り、郊祀には省牲視濯を掌り、大喪には梓宮を安んず。少昊氏は鳥を以て官を名づけ、而して祝鳩氏を司徒と爲す。堯の時には舜を司徒と爲す。舜は帝位を攝り、契に命じて司徒と爲す。契の玄孫の孫を微と曰ひ、亦た夏の司徒と爲る。周の時には司徒を地の官と爲し、邦敎を掌る。漢の西京の初めには置かず。哀帝の元壽二年に、丞相を罷め、大司徒を置く。光武の建武二十七年には、大を去る。
 司空は、一人。水土の事を掌り、郊祀には掃除を掌りて樂器を陳べ、大喪には將校を掌りて土を復す。舜は帝位を攝り、禹を以て司空と爲す。契の玄孫の子を冥と曰ひ、亦た夏の司空と爲る。殷湯は咎單を以て司空と爲す。周の時には司空を冬官と爲し、邦事を掌る。漢の西京初めには置かず。成帝の綏和元年に、名を更めて御史大夫を大司空と爲し、哀帝の建平二年に、復た御史大夫と爲し、元壽二年に、復た大司空と爲し、光武の建武二十七年に大の字を去る。獻帝の建安十三年に、又た司空を罷め、御史大夫を置く。御史大夫郗慮免ぜられ、復た補さず。魏の初めには又た司空を置く。

 太尉は、一人。上安より下を尉といった。兵事を担当し、郊祀には亜献を担当し、大喪には諡号を南郊に告げた。堯の時に舜を太尉の官となし、漢はこれを踏襲した。武帝の建元二年(139BC)に省いた。光武帝の建武二十七年(51)に、大司馬を廃止し、太尉を置いてこれに代えた。霊帝の末年に、劉虞を大司馬としたが、太尉は元と同じくし〔て置き続け〕た(1)

 (1)『後漢書集解』巻八「孝霊帝紀」中平六年(189)夏四月の条に、「太尉馬日磾免、幽州牧劉虞爲太尉」とあり、集解の当該箇所には、「惠棟曰、袁宏紀、三月乙丑、光祿劉虞爲大司馬、領幽州牧」とあり、
 巻九「孝献帝紀」永漢元年(189)九月乙酉の條に、「㠯太尉劉虞爲大司馬、董卓自爲太尉、加鈇鉞・虎賁」とあり、この時期の劉虞の官名に関しては混乱が見られる。

 大司馬、一人、掌武事、司、主也、馬、武也、堯時棄爲后稷、兼掌司馬、周時司馬爲夏官、掌邦政、項籍以曹無咎・周殷竝爲大司馬、漢初不置、武帝元狩四年、初置大司馬、始直云司馬、議者以漢有軍候千人司馬官、故加大、及置司空、又以縣道官有獄司空、又加大、王莽居攝、以漢無小司徒、而定司馬・司徒・司空之號竝加大、光武建武二十七年、省大司馬、以太尉代之、魏文帝黃初二年、復置大司馬、以曹仁居之、而太尉如故、
 大將軍、一人、凡將軍皆掌征伐、周制、王立六軍、晉獻公作二軍、公將上軍、將軍之名、起於此也、楚懷王遣三將入關、宋義爲上將、漢高帝以韓信爲大將軍、漢西京以大司馬冠之、漢東京大將軍自爲官、位在三司上、魏明帝靑龍三年、晉宣帝自大將軍爲太尉、然則大將軍在三司下矣、其後又在三司上、晉景帝爲大將軍、而景帝叔父孚爲太尉、奏改大將軍在太尉下、後還復舊、

 大司馬は、一人。武事を掌る。司は、主なり。馬は、武なり。堯の時に棄を后稷と爲し、司馬を兼掌す。周の時には司馬を夏官と爲し、邦政を掌る。項籍は曹無咎・周殷を以て竝びに大司馬と爲す。漢の初めには置かず、武帝の元狩四年に、初めて大司馬を置く。始めに直に司馬と云ふも、議者は漢には軍候千人の司馬の官有るを以てせば、故に大を加ふ。司空を置くに及び、又た縣道の官に獄の司空有るを以て、又た大を加ふ。王莽居攝し、漢には小司徒無きを以て、而して司馬・司徒・司空の號を定めて竝びに大を加ふ。光武の建武二十七年に、大司馬を省き、太尉を以て之に代ふ。魏の文帝の黃初二年には、復た大司馬を置き、曹仁を以て之に居き、而して太尉は故の如くす。
 大將軍は、一人。凡そ將軍は皆な征伐を掌る。周の制には、王は六軍を立つ。晉の獻公は二軍を作り、公は上軍を將ゐる。將軍の名は、此に起つるなり。楚の懷王は三將を遣はして關に入らしめしときに、宋義を上將と爲す。漢の高帝は韓信を以て大將軍と爲す。漢の西京には大司馬を以て之に冠す。漢の東京には大將軍は自ずから官と爲り、位は三司の上に在る。魏の明帝の靑龍三年には、晉の宣帝は大將軍自り太尉と爲り、然して則ち大將軍は三司の下に在り。其の後に又た三司の上に在り。晉の景帝の大將軍と爲り、而して景帝の叔父の孚太尉と爲れば、奏して大將軍を改めて太尉の下に在らしめ、後に復た舊に還す。
 晉武帝踐阼、安平王孚爲太宰、鄭沖爲太傅、王祥爲太保、義陽王望爲太尉、何曾爲司徒、荀顗爲司空、石苞爲大司馬、陳騫爲大將軍、凡八公同時竝置、唯無丞相焉、
 有蒼頭字宜祿、至漢、丞相府每有所關白、到閣輒傳呼宜祿、以此爲常、

 晉の武帝踐阼し、安平王孚を太宰と爲し、鄭沖を太傅と爲し、王祥を太保と爲し、義陽王望を太尉と爲し、何曾を司徒と爲し、荀顗を司空と爲し、石苞を大司馬と爲し、陳騫を大將軍と爲し、凡そ八公を同時に竝置し、唯だ丞相無し。
 蒼頭に字宜祿なるもの有り。漢に至り、丞相府は每に關白せらる所有り、閣に到りて輒ち傳へて「宜祿」と呼べば、此を以て常と爲す。
 丞相置三長史、丞相有疾、御史大夫率百僚三旦問起居、及瘳、詔遣尙書令若光祿大夫賜養牛、上尊酒、漢景帝三公病、遣中黃門問病、魏・晉則黃門郞、尤重者或侍中也、魏武爲丞相以來、置左右二長史而已、漢東京太傅府置掾・屬十人、御屬一人、令史十二人、不知皆何曹也、自太尉至大將軍・驃騎・車騎・衞將軍、皆有長史一人、將軍又各置司馬一人、太傅不置長史也、
 太尉府置掾・屬二十四人、西曹主府吏署用事、東曹主二千石長吏遷除事、戶曹主民戶祠祀農桑事、奏曹主奏議事、辭曹主辭訟事、法曹主郵驛科程事、尉曹主卒徒轉運事、賊曹主盜賊事、決曹主罪法事、兵曹主兵事、金曹主貨幣鹽鐵事、倉曹主倉穀事、黃閣主簿省錄衆事、御屬一人、令史二十二人、御屬主爲公御、令史則有閣下・記室・門下令史、其餘史闕、案掾・屬二十四人、自東西曹凡十二曹、然則曹各置掾・屬一人、合二十四人也、
 司徒置掾・屬三十一人、御屬一人、令史三十五人、司空置掾二十九人、御屬一人、令史三十一人、司空別有道橋掾、其餘張減之號、史闕不可得知也、

 丞相に三長史を置く。丞相に疾有らば、御史大夫は百僚を率ゐて三旦に起居を問ひ、瘳に及び、詔して尙書令を遣はして光祿大夫の若く養牛、上尊酒を賜ふ。漢の景帝には三公病まば、中黃門を遣はして病を問はしむ。魏・晉には則ち黃門郞、尤も重き者或いは侍中なり。魏武の丞相と爲りし以來、左右の二長史のみを置く。漢の東京には太傅府に掾・屬十人、御屬一人、令史十二人を置くも、皆な何れの曹なるかを知らざるなり。太尉自り大將軍・驃騎・車騎・衞將軍に至るまで、皆な長史一人有り、將軍には又た各司馬一人を置くも、太傅には長史を置かざるなり。
 太尉府に掾・屬二十四人を置き、西曹は府吏の署用の事を主り、東曹は二千石長吏の遷除の事を主り、戶曹は民戶祠祀農桑の事を主り、奏曹は奏議の事を主り、辭曹は辭訟の事を主り、法曹は郵驛科程の事を主り、尉曹は卒徒轉運の事を主り、賊曹は盜賊の事を主り、決曹は罪法の事を主り、兵曹は兵の事を主り、金曹は貨幣鹽鐵の事を主り、倉曹は倉穀の事を主り、黃閣は簿省錄衆の事を主る。御屬一人、令史二十二人。御屬の主を公御と爲し、令史に則ち閣下・記室・門下の令史有るも、其の餘りは史闕く。案ずるに掾・屬二十四人なれば、東西の曹自り凡そ十二曹、然して則ち曹に各掾・屬一人を置き、合はせて二十四人なり。
 司徒には掾・屬三十一人、御屬一人、令史三十五人を置く。司空には掾二十九人、御屬一人、令史三十一人を置く。司空には別に道橋掾有り。其の餘りの張減の號は、史闕きて知るを得可からざるなり。
 漢東京大將軍・驃騎將軍從事中郞二人、掾・屬二十九人、御屬一人、令史三十人、騎・衞將軍從事中郞二人、掾・屬二十人、御屬一人、令史二十四人、兵曹掾史主兵事、稟假掾史主稟假、又置外刺姦主罪法、其領兵外討、則營有五部、部有校尉一人、軍司馬一人、部下有曲、曲有軍候一人、曲下有屯、屯有屯長一人、若不置校尉、則部但有軍司馬一人、又有軍假司馬・軍假候、其別營者則爲別部司馬、其餘將軍置以征伐者、府無員職、亦有部曲司馬・軍候以領兵焉、案大將軍以下掾屬與三府張減、史闕不可得知、置令史・御屬者、則是同三府也、其云掾史者、則是有掾而無屬、又無令史・御屬、不同三府也、
 漢の東京に大將軍・驃騎將軍には從事中郞二人、掾・屬二十九人、御屬一人、令史三十人。騎・衞將軍には從事中郞二人、掾・屬二十人、御屬一人、令史二十四人。兵曹の掾史は兵事を主り、稟假の掾史は稟假を主り、又た外刺姦を置きて罪法を主る。其の兵を領して外に討ちしときには、則ち營には五部有り、部には校尉一人、軍の司馬一人有り、部下には曲有り、曲には軍候一人有り、曲の下には屯有り、屯には屯長一人有り。若し校尉を置かざれば、則ち部但には軍の司馬一人有り。又た軍の假司馬・軍の假候有り、其の別營なる者をは則ち別部司馬と爲す。其の餘りの將軍置きて以て征伐せし者には、府に員職無く、亦た部曲司馬・軍候有りて以て兵を領す。案ずるに大將軍以下の掾屬と三府の張減は、史闕きて知るを得可からざるなり。令史・御屬を置きし者は、則ち是れ三府に同じなり。其の掾の史なる者は、則ち是れ掾有りて而して屬無く、又た令史・御屬無く、三府に同じからざるなりと云ふ。
 魏初公府職僚、史不備書、及晉景帝爲大將軍、置掾十人、西曹・東曹・戶曹・倉曹・賊曹・金曹・水曹・兵曹・騎兵各一人、則無屬矣、魏元帝咸煕中、晉文帝爲相國、相國府置中衞將軍・驍騎將軍・左右長史・司馬・從事中郞四人、主薄四人、舍人十九人、參軍二十二人、參戰十一人、掾・屬三十三人、東曹掾・屬各一人、西曹屬一人、戶曹掾一人、屬二人、賊曹掾一人、屬二人、金曹掾・屬各一人、兵曹掾・屬各一人、騎兵掾二人、屬一人、車曹掾・屬各一人、鎧曹掾・屬各一人、水曹掾・屬各一人、集曹掾・屬各一人、法曹掾・屬各一人、奏曹掾・屬各一人、倉曹屬二人、戎曹屬一人、馬曹屬一人、媒曹屬一人、合爲三十三人、散屬九人、凡四十二人、
 魏の初めの公府の職僚は、史は書を備へず。晉の景帝の大將軍と爲るに及び、掾十人を置き、西曹・東曹・戶曹・倉曹・賊曹・金曹・水曹・兵曹・騎兵は各一人、則ち屬無し。魏の元帝の咸煕中には、晉の文帝相國と爲り、相國府に中衞將軍・驍騎將軍・左右の長史・司馬・從事中郞四人、主薄四人、舍人十九人、參軍二十二人、參戰十一人、掾・屬三十三人を置く。東曹の掾・屬をは各一人、西曹の屬は一人、戶曹の掾を一人、屬は二人、賊曹の掾を一人、屬は二人、金曹の掾・屬をは各一人、兵曹の掾・屬をは各一人、騎兵の掾を二人、屬は一人、車曹の掾・屬をは各一人、鎧曹の掾・屬をは各一人、水曹の掾・屬をは各一人、集曹の掾・屬をは各一人、法曹の掾・屬をは各一人、奏曹の掾・屬をは各一人、倉曹の屬は二人、戎曹の屬は一人、馬曹の屬は一人、媒曹の屬は一人、合はせて三十三人と爲す。散屬九人、凡そ四十二人。
 晉初凡位從公以上、置長史、西閣・東閣祭酒、西曹・東曹掾、戶曹・倉曹・賊曹屬各一人、加兵者又置司馬・從事中郞・主簿・記室督各一人、舍人四人、爲持節都督者、置參軍六人、安平獻王孚爲太宰、增掾・屬爲十人、兵・鎧・士・營軍・刺奸五曹皆置屬、幷前爲十人也、楊駿爲太傅、增祭酒爲四人、掾・屬爲二十人、兵曹分爲左・右・法・金・田・集・水・戎・車・馬十曹、皆置屬、則爲二十人、趙王倫爲相國、置左右長史・司馬・從事中郞四人、參軍二十人、主簿・記室督・祭酒各四人、掾・屬四十人、東西曹又置屬、其餘十八曹皆置掾、則四十人矣、凡諸曹皆置御屬・令史・學幹、御屬職錄事也、
 江左以來、諸公置長史・倉曹掾・戶曹屬・東西閣祭酒各一人、主簿・舍人二人、御屬二人、令史無定員、領兵者置司馬一人、從事中郞二人、參軍無定員、加崇者置左右長史・司馬・從事中郞四人、掾・屬四人、則倉曹增置屬、戶曹置掾、江左加崇、極於此也、

 晉の初めに凡そ位の公に從ふ以上には、長史、西閣・東閣の祭酒、西曹・東曹の掾、戶曹・倉曹・賊曹の屬各一人を置き、兵を加ふる者には又た司馬・從事中郞・主簿・記室の督各一人、舍人四人を置き、持節都督爲る者には、參軍六人を置く。安平獻王孚の太宰爲りしときには、掾・屬を增して十人と爲し、兵・鎧・士・營軍・刺奸の五曹に皆な屬を置き、前に幷せて十人と爲すなり。楊駿の太傅爲りしときには、祭酒を增して四人と爲し、掾・屬を二十人と爲し、兵曹分ちて左・右・法・金・田・集・水・戎・車・馬十曹と爲し、皆な屬を置き、則ち二十人と爲す。趙王倫の相國爲りしときには、左右の長史・司馬・從事中郞四人、參軍二十人、主簿・記室の督・祭酒各四人、掾・屬四十人を置く。東西の曹には又た屬を置き、其の餘りの十八曹には皆な掾を置き、則ち四十人。凡そ諸曹に皆な御屬・令史・學幹を置き、御屬の職は錄事なり。
 江左以來、諸公に長史・倉曹の掾・戶曹の屬・東西閣の祭酒各一人、主簿・舍人二人、御屬二人を置き、令史に定員無し。兵を領する者には司馬一人、從事中郞二人を置き、參軍に定員無く、加崇せし者には左右の長史・司馬・從事中郞四人、掾・屬四人を置き、則ち倉曹には增して屬を置き、戶曹には掾を置き、江左より加崇せしこと、此に極まるなり。
 長史・司馬・舍人、秦官、從事中郞・掾・屬・主簿・令史、前漢官、陳湯爲大將軍王鳳從事中郞是也、御屬・參軍、後漢官、孫堅爲車騎參軍事是也、本於府主無敬、晉世太原孫楚爲大司馬石苞參軍、輕慢苞、始制施敬、祭酒、晉官也、漢吳王濞爲劉氏祭酒、夫祭祀以酒爲本、長者主之、故以祭酒爲稱、漢之侍中・魏之散騎常侍高功者、竝爲祭酒焉、公府祭酒、蓋因其名也、長史・從事中郞主吏、司馬主將、主簿・祭酒・舍人主閤內事、參軍・掾・屬・令史主諸曹事、司徒若無公、唯省舍人、其府常置、其職僚異於餘府、有左右長史、左西曹掾・屬各一人、餘則同矣、餘府有公則置、無則省、晉元帝爲鎭東大將軍及丞相、置從事中郞、無定員、分掌諸曹、有錄事中郞・度支中郞・三兵中郞、其參軍則有諮議參軍二人、主諷議事、晉江左初置、因軍諮祭酒也、宋高祖爲相、止置諮議參軍、無定員、今諸曹則有錄事・記室・戶曹・倉曹・中直兵・外兵・騎兵・長流賊曹・刑獄賊曹・城局賊曹・法曹・田曹・水曹・鎧曹・車曹・士曹・集・右戶・墨曹、凡十八曹參軍、參軍不署曹者、無定員、江左初、晉元帝鎭東丞相府有錄事・記室・東曹・西曹・度支・戶曹・法曹・金曹・倉曹・理曹・中兵・外兵・騎兵・典兵・兵曹・賊曹・運曹・禁防・典賓・鎧曹・田曹・士曹・騎士・車曹參軍、其東曹・西曹・度支・金曹・理曹・典兵・兵曹・賊曹・運曹・禁防・典賓・騎士・車曹凡十三曹、今闕所餘十二曹也、其後又有直兵・長流・刑獄・城局・水曹・右戶・墨曹七曹、高祖爲相、合中兵・直兵置一參軍、曹則猶二也、今小府不置長流參軍者、置禁防參軍、蜀丞相諸葛亮府有行參軍、晉太傅司馬越府又有行參軍・兼行參軍、後漸加長兼字、除拜則爲參軍事、府板則爲行參軍、晉末以來、參軍事・行參軍又各有除板、板行參軍下則長兼行參軍、參軍督護、江左置、本皆領營、有部曲、今則無矣、公府長史・司馬、秩千石、從事中郞、六百石、東西曹掾、四百石、他掾三百石、屬二百石、
 長史・司馬・舍人は、秦の官。從事中郞・掾・屬・主簿・令史は、前漢の官にして、陳湯の大將軍王鳳の從事中郞と爲りしは是れなり。御屬・參軍は、後漢の官にして、孫堅の車騎參軍事と爲りしは是れなり。本と府の主に敬無きも、晉の世に太原の孫楚の大司馬石苞の參軍爲りしときに、苞を輕慢すれば、始めて制して敬を施せしむ。祭酒は、晉の官なり、漢の吳王濞は劉氏の祭酒と爲る。夫れ祭祀に酒を以て本と爲すに、長者の之を主れば、故に祭酒を以て稱と爲す。漢の侍中・魏の散騎常侍の高功なる者をは、竝びに祭酒と爲す。公府の祭酒は、蓋し其の名に因るなり。長史・從事中郞は吏を主り、司馬は將を主り、主簿・祭酒・舍人は閤內の事を主り、參軍・掾・屬・令史は諸曹の事を主る。司徒に若し公無くば、唯だ舍人を省くも、其の府には常に置き、其の職僚は餘りの府に異にす。左右の長史、左西曹の掾・屬各一人有るも、餘りは則ち同じ。餘りの府には公有らば則ち置き、無くば則ち省く。晉の元帝の鎭東大將軍及び丞相爲りしときには、從事中郞を置き、定員無く、諸曹を分掌せしめ、錄事中郞・度支中郞・三兵中郞有り。其の參軍に則ち諮議の參軍二人有り、諷議の事を主り、晉の江左の初めに置き、因りて軍諮祭酒なり。宋の高祖の相爲りしときには、止みて諮議の參軍を置き、定員無し。今の諸曹に則ち錄事・記室・戶曹・倉曹・中直の兵・外兵・騎兵・長流の賊曹・刑獄の賊曹・城局の賊曹・法曹・田曹・水曹・鎧曹・車曹・士曹・集・右戶・墨曹有り、凡そ十八曹の參軍。參軍は曹者を署らず、定員無し。江左の初めに、晉の元帝の鎭東丞相府には錄事・記室・東曹・西曹・度支・戶曹・法曹・金曹・倉曹・理曹・中兵・外兵・騎兵・典兵・兵曹・賊曹・運曹・禁防・典賓・鎧曹・田曹・士曹・騎士・車曹の參軍有り。其れ東曹・西曹・度支・金曹・理曹・典兵・兵曹・賊曹・運曹・禁防・典賓・騎士・車曹凡そ十三曹、今は闕きて餘りし所十二曹なり。其の後に又た直兵・長流・刑獄・城局・水曹・右戶・墨曹の七曹有り。高祖の相爲りしときには、中兵・直兵を合はせて一參軍を置き、曹は則ち猶ほ二なり。今の小府には長流の參軍なる者を置かず、禁防の參軍を置く。蜀の丞相諸葛亮の府には行參軍有り、晉の太傅司馬越の府には又た行參軍・兼行參軍有り、後に漸に長兼の字を加ふ。除拜せば則ち參軍事と爲し、府板せば則ち行參軍と爲す。晉の末以來、參軍事・行參軍は又た各除板せらる有り。板行の參軍の下に則ち長兼行參軍。參軍督護は、江左に置く。本と皆な營を領し、部曲有るも、今は則ち無し。公府の長史・司馬は、秩千石、從事中郞は、六百石、東西曹の掾は、四百石、他の掾は三百石、屬は二百石なり。
 特進、前漢世所置、前後二漢及魏・晉以爲加官、從本官車服、無吏卒、晉惠帝元康中定位令在諸公下、驃騎將軍上、
 驃騎將軍、一人、漢武帝元狩二年、始用霍去病爲驃騎將軍、漢西京制、大將軍・驃騎將軍位次丞相、
 車騎將軍、一人、漢文帝元年、始用薄昭爲車騎將軍、魚豢曰、魏世車騎爲都督、儀與四征同、若不爲都督、雖持節屬四征者、與前後左右雜號將軍同、其或散還從文官之例、則位次三司、晉・宋車騎・衞不復爲四征所督也、
 衞將軍、一人、漢文帝元年、始用宋昌爲衞將軍、三號位亞三司、漢章帝建初三年、始使車騎將軍馬防班同三司、班同三司自此始也、漢末奮威將軍、晉江右伏波・輔國將軍、竝加大而儀同三司、江左以來、將軍則中・鎭・撫・四鎭以上或加大、餘官則左右光祿大夫以上竝得儀同三司、自此以下不得也、
 持節都督、無定員、前漢遣使、始有持節、光武建武初、征伐四方、始權時置督軍御史、事竟罷、建安中、魏武帝爲相、始遣大將軍督軍、二十一年、征孫權還、夏侯惇督二十六軍是也、魏文帝黃初二年、始置都督諸州軍事、或領刺史、三年、上軍大將軍曹眞都督中外諸軍事、假黃鉞、則總統外內諸軍矣、明帝太和四年、晉宣帝征蜀、加號大都督、高貴公正元二年、晉文帝都督中外諸軍、尋加大都督、晉世則都督諸軍爲上、監諸軍次之、督諸軍爲下、使持節爲上、持節次之、假節爲下、使持節得殺二千石以下、持節殺無官位人、若軍事得與使持節同、假節唯軍事得殺犯軍令者、晉江左以來、都督中外尤重、唯王導居之、宋氏人臣則無也、江夏王義恭假黃鉞、假黃鉞、則專戮節將、非人臣常器矣、

 特進は、前漢の世に置きし所にして、前後の二漢及び魏・晉には以て加官と爲し、本官の車服に從ひ、吏卒無し。晉の惠帝の元康中には位を定めて諸公の下、驃騎將軍の上に在らしむ。
 驃騎將軍は、一人。漢の武帝の元狩二年に、始めて霍去病を用ひて驃騎將軍と爲す。漢の西京の制には、大將軍・驃騎將軍の位は丞相に次ぐ。
 車騎將軍は、一人。漢の文帝の元年に、始めて薄昭を用ひて車騎將軍と爲す。魚豢曰く、「魏の世には車騎は都督爲らば、儀は四征と同じ。若し都督爲らざれば、持節と雖も四征なる者に屬し、前後左右雜號將軍と同じ。其れ或いは散還して文官の例に從はば、則ち位は三司に次ぐ」と。晉・宋には車騎・衞は復た四征の督する所と爲さざるなり。
 衞將軍は、一人。漢の文帝の元年に、始めて宋昌を用ひて衞將軍と爲す。三號の位は三司に亞ぐ。漢の章帝の建初三年には、始めて車騎將軍馬防をして班を三司に同じからしむ。班同三司は此自り始まるなり。漢の末には奮威將軍、晉の江右には伏波・輔國將軍に、竝びに大を加へられて而して儀同三司たり。江左以來、將軍の則ち中・鎭・撫・四鎭以上には或いは大を加へ、餘りの官の則ち左右光祿大夫以上には竝びに儀同三司を得るも、此自り以下は得ざるなり。
 持節都督は、定員無し。前漢に使を遣はしときに、始めて持節有り。光武の建武の初めに、四方を征伐せしときに、始めて權時に督軍御史を置き、事竟らば罷む。建安中に、魏の武帝相と爲り、始めて大將軍を遣はして軍を督せしむ。二十一年に、孫權を征して還りしときに、夏侯惇をして二十六軍を督せしむるは是れなり。魏の文帝の黃初二年には、始めて都督諸州軍事を置き、或いは刺史を領せしむ。三年に、上軍大將軍曹眞をして都督中外諸軍事とし、黃鉞を假し、則ち外內の諸軍を總統せしむ。明帝の太和四年に、晉の宣帝の蜀を征せしときに、號を大都督と加へらる。高貴公の正元二年に、晉の文帝は都督中外諸軍たり、尋いで大都督を加へらる。晉の世には則ち都督諸軍を上と爲し、監諸軍を之に次ぎ、督諸軍を下と爲す。使持節を上と爲し、持節を之に次ぎ、假節を下と爲す。使持節は二千石以下を殺すを得、持節は官位無き人を殺し、若し軍事ならば使持節と同じかるを得、假節は唯だ軍事に軍令を犯す者を殺すを得。晉の江左以來、都督中外は尤も重く、唯だ王導を之に居く。宋氏の人臣には則ち無きなり。江夏王義恭に黃鉞を假す。黃鉞を假すは、則ち專ら戮するに節將なれば、人臣の常なる器に非ず。
 征東將軍、一人、漢獻帝初平三年、馬騰居之、征南將軍、一人、漢光武建武中、岑彭居之、征西將軍、一人、漢光武建武中、馮異居之、征北將軍、一人、魚豢曰、四征、魏武帝置、秩二千石、黃初中、位次三公、漢舊諸征與偏・裨・雜號同、
 鎭東將軍、一人、後漢末、魏武帝居之、鎭南將軍、一人、後漢末、劉表居之、鎭西將軍、一人、後漢初平三年、韓遂居之、鎭北將軍、一人、
 中軍將軍、一人、漢武帝以公孫敖爲之、時爲雜號、鎭軍將軍、一人、魏以陳羣爲之、撫軍將軍、一人、魏以司馬宣王爲之、中・鎭・撫三號比四鎭、
 安東將軍、一人、後漢末、陶謙爲之、安南將軍、一人、安西將軍、一人、後漢末、段煨爲之、安北將軍、一人、魚豢曰、鎭北・四安、魏黃初・太和中置、
 平東將軍、一人、平南將軍、一人、平西將軍、一人、平北將軍、一人、四平、魏世置、
 左將軍・右將軍・前將軍・後將軍、左將軍以下、週末官、秦・漢竝因之、光武建武七年省、魏以來復置、
 征虜將軍、漢光武建武中、始以祭遵居之、冠軍將軍、楚懷王以宋義爲卿子冠軍、冠軍之名、自此始也、魏正始中、以文欽爲冠軍將軍・揚州刺史、輔國將軍、漢獻帝以伏完居之、宋太宗泰始四年、改爲輔師、後廢帝元徽二年、復故、龍驤將軍、晉武帝始以王濬居之、

 征東將軍は、一人。漢の獻帝の初平三年に、馬騰を之に居く。征南將軍は、一人。漢の光武の建武中に、岑彭を之に居く。征西將軍は、一人。漢の光武の建武中に、馮異を之に居く。征北將軍は、一人。魚豢曰く、「四征は、魏の武帝置き、秩は二千石なり。黃初中に、位は三公に次ぐ。漢の舊き諸征は偏・裨・雜號と同じ」と。
 鎭東將軍は、一人。後漢の末に、魏の武帝を之に居く。鎭南將軍は、一人。後漢の末に、劉表を之に居く。鎭西將軍は、一人。後漢の初平三年に、韓遂を之に居く。鎭北將軍は、一人。
 中軍將軍は、一人。漢の武帝は公孫敖を以て之と爲し、時に雜號と爲す。鎭軍將軍は、一人。魏に陳羣を以て之と爲す。撫軍將軍は、一人。魏に司馬宣王を以て之と爲す。中・鎭・撫の三號は四鎭に比べらる。
 安東將軍は、一人。後漢の末に、陶謙を之と爲す。安南將軍は、一人。安西將軍は、一人。後漢の末に、段煨を之と爲す。安北將軍は、一人。魚豢曰く、「鎭北・四安は、魏の黃初・太和中に置く」と。
 平東將軍は、一人。平南將軍は、一人。平西將軍は、一人。平北將軍は、一人。四平は、魏の世に置く。
 左將軍・右將軍・前將軍・後將軍。左將軍以下、末の官に週(いた)るまで、秦・漢は竝びに之に因り、光武の建武七年に省き、魏以來復た置く。
 征虜將軍は、漢の光武の建武中に、始めて祭遵を以て之に居く。冠軍將軍は、楚の懷王宋義を以て卿子冠軍と爲す。冠軍の名は、此自り始まるなり。魏の正始中には、文欽を以て冠軍將軍・揚州の刺史と爲す。輔國將軍は、漢の獻帝伏完を以て之に居く。宋の太宗の泰始四年には、改めて輔師と爲し、後廢帝の元徽二年に、復た故にす。龍驤將軍は、晉の武帝始めて王濬を以て之に居く。
 東中郞將、漢靈帝以董卓居之、南中郞將、漢獻帝建安中、以臨淄侯曹植居之、西中郞將、北中郞將、漢建安中、以𨻳陵侯曹彰居之、凡四中郞將、何承天云、竝後漢置、
 建威將軍、漢光武建武中、以耿弇爲建威大將軍、振威將軍、後漢初、宋登爲之、奮威將軍、前漢世、任千秋爲之、揚威將軍、魏置、廣威將軍、魏置、建武將軍、魏置、振武將軍、前漢末、王況爲之、奮武將軍、後漢末、呂布爲之、揚武將軍、光武建武中、以馬成爲之、廣武將軍、晉江左置、
 鷹揚將軍、漢建安中、魏武以曹洪居之、折衝將軍、漢建安中、魏武以樂進居之、輕車將軍、漢武帝以公孫賀爲之、揚烈將軍、建安中、以假公孫淵、寧遠將軍、晉江左置、材官將軍、漢武帝以李息爲之、伏波將軍、漢武帝征南越、始置此號、以路博德爲之、
 凌江將軍、魏置、自凌江以下、則有宣威・明威・驤威・厲威・威厲・威寇・威虜・威戎・威武・武烈・武毅・武奮・綏遠・綏邊・綏戎・討寇・討虜・討難・討夷・蕩寇・蕩虜・蕩難・蕩逆・殄寇・殄虜・殄難・掃夷・掃寇・掃虜・掃難・掃逆・厲武・厲鋒・虎威・虎牙・廣野・橫野・偏將軍・裨將軍、凡四十號、其威虜、漢光武以馮俊居之、虎牙、以蓋延居之、爲虎牙大將軍、橫野、以耿純居之、蕩寇、漢建安中、滿寵居之、虎威、于禁居之、其餘或是後漢及魏所置、今則或置或不、自左右前後將軍以下至此四十號、唯四中郞將各一人、餘皆無定員、自車騎以下爲刺史又都督及儀同三司者、置官如領兵、但云都督不儀同三司者、不置從事中郞、置功曹一人、主吏、在主簿上、漢末官也、漢東京司隸有功曹從事史、如諸州治中、因其名也、功曹參軍一人、主佐囗囗記室下、戶曹上、監以下不置諮議・記室、餘則同矣、宋太宗已來、皇子・皇弟雖非都督、亦置記室參軍、小號將軍爲大郡邊守置佐吏者、又置長史、餘則同也、

 東中郞將は、漢の靈帝董卓を以て之に居く。南中郞將は、漢の獻帝の建安中に、臨淄侯曹植を以て之に居く。西中郞將。北中郞將は、漢の建安中に、𨻳陵侯曹彰を以て之に居く。凡そ四中郞將は、何承天云ふならく、「竝びに後漢に置く」と。
 建威將軍は、漢の光武の建武中に、耿弇を以て建威大將軍と爲す。振威將軍は、後漢の初に、宋登を之と爲す。奮威將軍は、前漢の世に、任千秋を之と爲す。揚威將軍は、魏に置く。廣威將軍は、魏に置く。建武將軍は、魏に置く。振武將軍は、前漢の末に、王況を之と爲す。奮武將軍は、後漢の末に、呂布を之と爲す。揚武將軍は、光武の建武中に、馬成を以て之と爲す。廣武將軍は、晉の江左に置く。
 鷹揚將軍は、漢の建安中に、魏武曹洪を以て之に居く。折衝衝軍は、漢の建安中に、魏武樂進を以て之に居く。輕車將軍は、漢の武帝公孫賀を以て之と爲す。揚烈將軍は、建安中に、以て公孫淵に假す。寧遠將軍は、晉の江左に置く。材官將軍は、漢の武帝李息を以て之と爲す。伏波將軍は、漢の武帝の南越を征せしときに、始めて此の號を置き、路博德を以て之と爲す。
 凌江將軍は、魏に置く。凌江自り以下に、則ち宣威・明威・驤威・厲威・威厲・威寇・威虜・威戎・威武・武烈・武毅・武奮・綏遠・綏邊・綏戎・討寇・討虜・討難・討夷・蕩寇・蕩虜・蕩難・蕩逆・殄寇・殄虜・殄難・掃夷・掃寇・掃虜・掃難・掃逆・厲武・厲鋒・虎威・虎牙・廣野・橫野・偏將軍・裨將軍有り、凡そ四十號。其れ威虜は、漢の光武馮俊を以て之に居く。虎牙は、蓋延を以て之に居き、虎牙大將軍と爲す。橫野は、耿純を以て之に居く。蕩寇は、漢の建安中に、滿寵を之に居く。虎威は、于禁を之に居く。其の餘りは或いは是の後漢及び魏に置きし所にして、今は則ち或いは置き或いは不らず。右前後將軍自り以下此の四十號に至るまで、唯だ四中郞將は各一人なれども、餘りには皆な定員無し。車騎自り以下の刺史と爲り又た都督及び儀同三司たる者には、官を置くこと兵を領するが如くするも、但だ都督の儀同三司たらざる者には、從事中郞を置かず、功曹一人を置き、主吏は、主簿の上に在り、漢の末の官なりと云ふ。漢の東京には司隸に功曹從事の史有ること、諸州の治中の如くし、其の名に因るなり。功曹は參軍一人、主佐囗囗記室の下、戶曹の上。監以下に諮議・記室を置かず、餘りは則ち同じ。宋の太宗已來、皇子・皇弟には都督に非ざると雖も、亦た記室參軍を置く。小號將軍の大郡の邊守爲るには佐吏なる者を置き、又た長史を置き、餘りは則ち同じなり。
 太常、一人、舜攝帝位、命伯夷作秩宗、掌三禮、卽其任也、周時曰宗伯、是爲春官、掌邦禮、秦改曰奉常、漢因之、景帝中六年、更名曰太常、應劭曰、欲令國家盛大常存、故稱太常、前漢常以列侯忠孝敬愼者居之、後漢不必列侯也、
 博士、班固云、秦官、史臣案、六國時往往有博士、掌通古今、漢武建元五年、初置五經博士、宣・成之世、五經家法稍增、經置博士一人、至東京凡十四人、易、施・孟・梁丘・京氏、尙書、歐陽・大小夏侯、詩、齊・魯・韓、禮、大小戴、春秋、嚴・顏、各一博士、而聰明有威重者一人爲祭酒、魏及晉西朝置十九人、江左初減爲九人、皆不知掌何經、元帝末、增儀禮・春秋公羊博士各一人、合爲十一人、後又增爲十六人、不復分掌五經、而謂之太學博士也、秩六百石、
 國子祭酒一人、國子博士二人、國子助敎十人、周易・尙書・毛詩・禮記・周官・儀禮・春秋左氏傳・公羊・穀梁各爲一經、論語・孝經爲一經、合十經、助敎分掌、國子、周舊名、周有師氏之職、卽今國子祭酒也、晉初復置國子學、以敎生徒、而隸屬太學焉、晉初助敎十五人、江左以來、損其員、自宋世若不置學、則助敎唯置一人、而祭酒・博士常置也、
 太廟令、一人、丞一人、竝前漢置、西京曰長、東京曰令、領齋郞二十四人、
 明堂令、一人、丞一人、丞、漢東京初置、令、宋世祖大明中置、
 太祝令、一人、丞一人、掌祭祀讀祝迎送神、太祝、周舊官也、漢西京置太祝令・丞、武帝太初元年、更名曰廟祀、漢東京改曰太祝、
 太史令、一人、丞一人、掌三辰時日祥瑞妖災、歲終則奏新曆、太史、三代舊官、周世掌建邦之六典、正歲年、以序事頒朔于邦國、又有馮相氏、掌天文次序、保章氏、掌天文、今之太史、則幷周之太史・馮相・保章三職也、漢西京曰太史令、漢東京有二丞、其一在靈臺、
 太樂令、一人、丞一人、掌凡諸樂事、周時爲大司樂、漢西京曰太樂令、漢東京曰大予樂令、魏復爲太樂令、
 陵令、每陵各一人、漢舊官也、
 乘黃令、一人。掌乘輿車及安車諸馬、魏世置、自博士至乘黃令、竝屬太常、

 太常は、一人。舜は帝位を攝り、伯夷に命じて秩宗を作り、三禮を掌らしむるは、卽ち其の任なり。周の時に宗伯と曰ひ、是れを春官と爲し、邦禮を掌る。秦に改めて奉常と曰ひ、漢は之に因る。景帝の中六年に、名を更めて太常と曰ふ。應劭曰く、「國家を盛大にして常に存らしめんと欲すれば、故に太常と稱す」と。前漢には常に列侯の忠孝敬愼なる者を以て之に居くも、後漢には必ずしも列侯たらざるなり。
 博士は、班固云ふならく、「秦の官」と。史臣案ずるに、六國の時に往往に博士有り、古今に通ずるを掌る。漢武の建元五年に、初めて五經の博士を置く。宣・成の世に、五經の家の法は稍增し、經に博士一人を置く。東京に至りて凡そ十四人。易には、施・孟・梁丘・京氏を、尙書には、歐陽・大小の夏侯を、詩には、齊・魯・韓を、禮には、大小の戴を、春秋には、嚴・顏を、各一博士。而して聰明にして威の重き有る者一人をは祭酒と爲す。魏及び晉の西朝には十九人を置き、江左の初めには減して九人と爲すも、皆な何れの經を掌るかを知らず。元帝の末に、儀禮・春秋公羊の博士各一人を增し、合はせて十一人と爲す。後に又た增して十六人と爲すも、復た五經を分掌せしめず、而して之を太學博士と謂ふなり。秩は六百石なり。
 國子祭酒は一人、國子博士は二人、國子助敎は十人。周易・尙書・毛詩・禮記・周官・儀禮・春秋左氏傳・公羊・穀梁を各一經と爲し、論語・孝經を一經と爲し、合せて十經。助敎分掌す。國子は、周の舊き名にして、周に師氏の職有るは、卽ち今の國子祭酒なり。晉の初めには復た國子學を置き、以て生徒を敎へ、而して太學に隸屬せしむ。晉の初めには助敎は十五人なれども、江左以來、其の員を損ふ。宋自りの世には若し學を置かざれば、則ち助敎唯だ一人を置き、而して祭酒・博士は常に置くなり。
 太廟令は、一人。丞は一人。竝びに前漢に置く。西京には長と曰ひ、東京には令と曰ふ。齋郞二十四人を領す。
 明堂令は、一人。丞は一人。丞は、漢に東京の初めに置き、令は、宋の世祖の大明中に置く。
 太祝令は、一人。丞は一人。祭祀に祝を讀みて神を迎送するを掌る。太祝は、周の舊官なり。漢の西京には太祝令・丞を置き、武帝の太初元年に、名を更めて廟祀と曰ふ。漢の東京には改めて太祝と曰ふ。
 太史令は、一人。丞は一人。三辰の時日には祥瑞妖災を掌り、歲の終りには則ち奏して曆を新しむ。太史は、三代の舊官にして、周の世には建邦の六典を掌り、正歲の年に、以て事を序べて朔を邦國に頒く。又た馮相氏有り、天文の次序を掌り、保章氏は、天文を掌る。今の太史は、則ち周の太史・馮相・保章の三職を幷せしなり。漢の西京には太史令と曰ふ。漢の東京には二丞有り、其の一は靈臺に在り。
 太樂令は、一人。丞は一人。凡そ諸の樂事を掌る。周の時に大司樂と爲る。漢の西京には太樂令と曰ふ。漢の東京には大予樂令と曰ふ。魏には復た太樂令と爲す。
 陵令は、陵每に各一人。漢の舊官なり。
 乘黃令は、一人。乘輿車及び安車諸馬を掌る。魏の世に置く。博士自り乘黃令に至るまで、竝びに太常に屬す。
 光祿勳、一人、丞一人、光、明也、祿、爵也、勳、功也、秦曰郞中令、漢因之、漢武太初元年、更名光祿勳、掌三署郞、郞執戟衞宮展門戶、光祿勳居禁中如御史、有獄在殿門外、謂之光祿外部、光祿勳郊祀掌三獻、魏・晉以來、光祿勳不復居禁中、又無復三署郞、唯外宮朝會、則以名到焉、二臺奏劾、則符光祿加禁止、解禁止亦如之、禁止、身不得入殿省、光祿主殿門故也、宮殿門戶、至今猶屬、晉哀帝興寧二年、省光祿勳、幷司徒、孝武寧康元年、復置、漢東京三署郞有行應四科者、歲擧茂才二人、四行二人、及三署郞罷省、光祿勳猶依舊擧四行、衣冠子弟充之、三署者、五官署・左署・右署也、各置中郞將以司之、郡擧孝廉以補三署郞、年五十以上、屬五官、其次分在左右署、凡有中郞・議郞・侍郞・郞中四等、無員、多至萬人、
 左光祿大夫・右光祿大夫、二大夫、晉初置、光祿大夫、秦時爲中大夫、漢武太初元年、更名光祿大夫、晉初又置左右光祿大夫、而光祿大夫如故、光祿大夫銀章靑綬、其重者加金章紫綬、則謂之金紫光祿大夫、舊秩比二千石、
 中散大夫、王莽所置、後漢因之、前漢大夫皆無員、掌論議、後漢光祿大夫三人、中大夫二十人、中散大夫三十人、魏以來復無員、自左光祿大夫以下、養老疾、無職事、中散、六百石、

 光祿勳は、一人。丞は一人。光は、明なり。祿は、爵なり。勳は、功なり。秦に郞中令と曰ひ、漢は之に因る。漢武の太初元年には、名を光祿勳に更む。三署の郞を掌り、郞は戟衞宮展門戶を執る。光祿勳は禁中に居ること御史の如しなれども、獄に有りて殿門の外に在りしときには、之を光祿外部と謂ふ。光祿勳は郊祀に三獻を掌る。魏・晉以來、光祿勳は復た禁中に居らず、又復た三署の郞無く、唯だ外宮に朝會せしときに、則ち名を以て到る。二臺奏劾すれば、則ち符もて光祿に禁止を加へ、禁止を解くも亦た之の如くす。禁止は、身の殿省に入るを得ず、光祿の殿門を主る故なり。宮殿の門戶は、今に至るも猶ほ屬す。晉の哀帝の興寧二年には、光祿勳を省き、司徒に幷す。孝武の寧康元年に、復た置く。漢の東京には三署の郞に四科に應へて行ふ者有らば、歲に茂才二人、四行二人を擧げ、三署の郞罷めて省くに及ぶも、光祿勳は猶ほ舊に依りて四行を擧げ、衣冠子弟之を充たす。三署とは、五官署・左署・右署なり、各中郞將を置きて以て之を司る。郡は孝廉を擧げて以て三署の郞を補し、年五十以上は、五官に屬し、其れ次に左右の署に分在せしむ。凡そ中郞・議郞・侍郞・郞中の四等有り、員無く、多くは萬人に至る。
 左光祿大夫・右光祿大夫。二大夫は、晉の初めに置く。光祿大夫は、秦の時には中大夫と爲り、漢武の太初元年には、名を光祿大夫に更む。晉の初めには又た左右の光祿大夫を置き、而して光祿大夫は故の如くす。光祿大夫には銀章靑綬を、其の重き者には金章紫綬を加へ、則ち之を金紫光祿大夫と謂ふ。舊は秩は比二千石なり。
 中散大夫は、王莽の置きし所にして、後漢は之に因る。前漢には大夫は皆な員無く、論議を掌る。後漢には光祿大夫は三人、中大夫は二十人、中散大夫は三十人。魏以來復た員無し。左光祿大夫自り以下は、老疾を養はば、職の事無し。中散は、六百石なり。
 衞尉、一人、丞二人、掌宮門屯兵、秦官也、漢景初、改爲中大夫令、後元年、復爲衞尉、晉江右掌冶鑄、領冶令三十九、戶五千三百五十、冶皆在江北、而江南唯有梅根及冶塘二冶、皆屬揚州、不屬衞尉、衞尉、江左不置、宋世祖孝建元年復置、舊一丞、世祖增置一丞、
 衞尉は、一人。丞は二人。宮門の屯兵を掌り、秦の官なり。漢景の初めには、改めて中大夫令と爲す。後元年に、復た衞尉と爲す。晉の江右には冶鑄を掌り、冶令三十九、戶五千三百五十を領す。冶は皆な江北に在り、而して江南には唯だ梅根及び冶塘の二冶有り、皆な揚州に屬し、衞尉に屬さず。衞尉は、江左には置かず、宋の世祖の孝建元年には復た置く。舊は一丞なれども、世祖は增して一丞を置く。
 廷尉、一人、丞一人、掌刑辟、凡獄必質之朝廷、與衆共之之義、兵獄同制、故曰廷尉、舜攝帝位、咎繇作士、卽其任也、周時大司寇爲秋官、掌邦刑、秦爲廷尉、漢景帝中六年、更名大理、武帝建元四年、復爲廷尉、哀帝元壽二年、復爲大理、漢東京初、復爲廷尉、
 廷尉正、一人、廷尉監、一人、正・監竝秦官、本有左右監、漢光武省右、猶云左監、魏・晉以來、直云監、廷尉評、一人、漢宣帝地節三年、初置左右評、漢光武省右、猶云左評、魏・晉以來、直云評、正・監・評竝以下官禮敬廷尉卿、正・監秩千石、評六百石、廷尉律博士、一人、魏武初建魏國置、

 廷尉は、一人。丞は一人。刑辟を掌る。凡そ獄の必ず之を朝廷に質するは、衆と之を共にするの義なり。兵獄は同じ制なれば、故に廷尉と曰ふ。舜の帝位を攝り、咎繇を士と作すは、卽ち其の任なり。周の時に大司寇を秋官と爲し、邦刑を掌る。秦には廷尉と爲す。漢の景帝の中六年には、名を大理に更む。武帝の建元四年に、復た廷尉と爲す。哀帝の元壽二年に、復た大理と爲す。漢の東京の初めには、復た廷尉と爲す。
 廷尉正は、一人。廷尉監は、一人。正・監は竝びに秦の官。本と左右の監有り、漢の光武には右を省くも、猶ほ左監と云ふ。魏・晉以來、直に監と云ふ。廷尉評は、一人。漢の宣帝の地節三年に、初めて左右の評を置く。漢の光武には右を省くも、猶ほ左評と云ひ、魏・晉以來、直に評と云ふ。正・監・評竝びに以下の官は廷尉卿を禮敬す。正・監は秩は千石、評は六百石なり。廷尉の律博士は、一人。魏武は初めて魏國建つると置く。
 大司農、一人、丞一人、掌九穀六畜之供膳羞者、舜攝帝位、命棄爲后稷、卽其任也、周則爲太府、秦治粟內史、漢景帝後元年、更名大農令、武帝太初元年、更名曰大司農、晉哀帝末、省幷都水、孝武世復置、漢世丞二人、魏以來一人、
 太倉令、一人、丞一人、秦官也、晉江左以來、又有東倉・石頭倉丞各一人、
 䆃官令、一人、丞一人、掌舂御米、漢東京置、䆃、擇也、擇米令精也、司馬相如封禪書云、䆃一莖六穗於庖、
 籍田令、一人、丞一人、掌耕宗廟社稷之田、於周爲甸師、漢文帝初立籍田、置令・丞各一人、漢東京及魏竝不置、晉武泰始十年復置、江左省、宋太祖元嘉中又置、自太倉至籍田令、竝屬司農、

 大司農は、一人。丞は一人。九穀六畜の供の膳羞する者を掌る。舜の帝位を攝り、棄を命じて后稷と爲すは、卽ち其の任なり。周には則ち太府、秦には治粟內史と爲り、漢の景帝の後元年には、名を大農令に更め、武帝の太初元年に、名を更めて大司農と曰ふ。晉の哀帝の末には、省きて都水に幷すも、孝武の世に復た置く。漢の世には丞は二人、魏以來一人。
 太倉令は、一人。丞は一人。秦の官なり。晉の江左以來、又た東倉・石頭倉の丞各一人有り。
 䆃官令は、一人。丞は一人。御米を舂(うすづ)くを掌る。漢の東京に置く。䆃は、擇なり。擇米を精しむるなり。司馬相如の封禪書に云ふならく、「一莖六穗を庖に䆃(えら)ぶ」と。
 籍田令は、一人。丞は一人。宗廟社稷の田を耕すを掌り、周に於いて甸師と爲す。漢の文帝の初めには籍田を立て、令・丞各一人を置く。漢の東京及び魏には竝びに置かず。晉武の泰始十年には復た置く。江左には省く。宋の太祖の元嘉中には又た置く。太倉自り籍田令に至るまで、竝びに司農に屬す。
 少府、一人、丞一人、掌中服御之物、秦官也、漢因之、掌禁錢以給私養、故曰少府、晉哀帝末、省幷丹陽尹、孝武世復置、
 左尙方令・丞各一人、右尙方令・丞各一人、竝掌造軍器、秦官也、漢因之、於周則爲玉府、晉江右有中尙方・左尙方・右尙方、江左以來、唯一尙方、宋高祖踐阼、以相府作部配臺、謂之左尙方、而本署謂之右尙方焉、又以相府細作配臺、卽其名置令一人、丞二人、隸門下、世祖大明中、改曰御府、置令一人、丞一人、御府、二漢世典官婢作褻衣服補浣之事、魏・晉猶置其職、江左乃省焉、後廢帝初、省御府、置中署、隸右尙方、漢東京太僕屬官有考工令、主兵器弓弩刀鎧之屬、成則傳執金吾入武庫、及主織綬諸雜工、尙方令唯主作御刀綬劍諸玩好器物而已、然則考工令如今尙方、尙方令如今中署矣、
 東冶令、一人、丞一人、南冶令、一人、丞一人、漢有鐵官、晉置令、掌工徒鼓鑄、隸衞尉、江左以來、省衞尉、度隸少府、宋世雖置衞尉、冶隸少府如故、江南諸郡縣有鐵者或置冶令、或置丞、多是吳所置、
 平准令、一人、丞一人、掌染、秦官也、漢因之、漢隸司農、不知何世隸少府、宋順帝卽位、避帝諱、改曰染署、
 將作大匠、一人、丞一人、掌土木之役、秦世置將作少府、漢因之、景帝中六年、更名將作大匠、光武建武中元二年省、以謁者領之、章帝建初元年復置、晉氏以來、有事則置、無則省、

 少府は、一人。丞は一人。中服御の物を掌る。秦の官なり。漢は之に因る。禁錢を掌りて以て私養を給すれば、故に少府と曰ふ。晉の哀帝の末には、省きて丹陽の尹に幷せ、孝武の世に復た置く。
 左尙方令・丞は各一人。右尙方令・丞は各一人。竝びに軍器を造るを掌る。秦の官なり、漢は之に因る。周に於いて則ち玉府と爲す。晉の江右には中尙方・左尙方・右尙方、江左以來、唯だ一尙方有り。宋の高祖踐阼し、相府に部を作るを以て臺に配し(?)、之を左尙方と謂ひ、而して本の署は之を右尙方と謂ふ。又た相府に細作を以て臺に配し(?)、卽ち其の名に令一人、丞二人を置き、門下に隸はしむ。世祖の大明中に、改めて御府と曰ひ、令一人、丞一人を置く。御府は、二漢の世には官婢の褻衣服の補浣を作すの事を典り、魏・晉には猶ほ其の職置き、江左には乃ち省く。後廢帝の初めに、御府を省き、中署を置き、右尙方に隸はしむ。漢の東京には太僕の屬官には考工令有り、兵器弓弩刀鎧の屬を主り、成りて則ち執金吾に傳へて武庫に入り、及び織綬諸の雜工を主る。尙方令は唯だ御刀綬劍諸玩好器物を作るを主るのみ。然して則ち考工令は今の尙方の如し、尙方令は今の中署の如し。
 東冶令は、一人。丞は一人。南冶令は、一人。丞は一人。漢には鐵官有り、晉には令を置き、工徒鼓鑄を掌り、衞尉に隸はしむ。江左以來、衞尉を省き、度(わた)りて少府に隸はしむ。宋の世には衞尉を置くと雖も、冶の少府に隸はしむるは故の如くす。江南諸郡の縣に鐵者有らば或いは冶令を置き、或いは丞を置き、多くは是れ吳の置きし所なり。
 平准令は、一人。丞は一人。染を掌る。秦の官なり、漢は之に因る。漢には司農に隸ふも、何れの世に少府に隸ふかを知らず。宋の順帝卽位し、帝の諱を避け、改めて染署と曰ふ。
 將作大匠は、一人。丞は一人。土木の役を掌る。秦の世に將作少府を置き、漢は之に因る。景帝の中六年に、名を將作大匠に更む。光武の建武中元二年に省き、謁者を以て之を領せしむ。章帝の建初元年に復た置く。晉氏以來、事有らば則ち置き、無くば則ち省く。
 大鴻臚、掌贊導拜授諸王、秦世爲典客、漢景帝中六年、更名大行令、武帝太初元年、更名大鴻臚、鴻、大也、臚、陳也、晉江左初省、有事則權置、事畢卽省、
 大鴻臚は、諸王を贊導拜授するを掌る。秦の世に典客と爲し、漢の景帝の中六年には、名を大行令に更め、武帝の太初元年に、名を大鴻臚に更む。鴻は、大なり。臚は、陳なり。晉の江左の初めには省く。事有らば則ち權に置き、事畢らば卽ち省く。
 太后三卿、各一人、應氏漢官曰、衞尉・少府、秦官、太僕、漢成帝置、皆隨太后宮爲號、在正卿上、無太后乃闕、魏改漢制、在九卿下、晉復舊、在同號卿上、
 大長秋、皇后卿也、有后則置、無則省、秦時爲將行、漢景帝中六年、更名大長秋、韋曜曰、長秋者、以皇后陰官、秋者陰之始、取其終而長、欲其久也、自太常至長秋、皆置功曹・主簿・五官、漢東京諸郡有五官掾、因其名也、漢制卿尹秩皆中二千石、丞一千石、

 太后三卿は、各一人。應氏の漢官に曰く、「衞尉・少府は、秦の官にして、太僕は、漢の成帝置く。皆な太后の宮に隨ひて號と爲し、正卿の上に在り、太后無くば乃ち闕く」と。魏は漢の制を改め、九卿の下に在らしむ。晉は舊に復し、同號の卿の上に在らしむ。
 大長秋は、皇后の卿なり。后有らば則ち置き、無くば則ち省く。秦の時に將行と爲し、漢の景帝の中六年には、名を大長秋に更む。韋曜曰く、「長秋とは、皇后の陰官を以て、秋とは陰の始めなれば、其の終りを取りて而して長たらんとし、其の久しきを欲するなり」と。太常自り長秋に至るまで、皆な功曹・主簿・五官を置く。漢の東京に諸郡に五官の掾有るは、其の名に因るなり。漢の制には卿尹の秩は皆な中二千石、丞は一千石なり。
 尙書、古官也、舜攝帝位、命龍作納言、卽其任也、周官司會、鄭玄云、若今尙書矣、秦世少府遣吏四人在殿中主發書、故謂之尙書、尙猶主也、漢初有尙冠・尙衣・尙食・尙浴・尙席・尙書、謂之六尙、戰國時已有尙冠・尙衣之屬矣、秦時有尙書令・尙書僕射・尙書丞、至漢初竝隸少府、漢東京亦猶文屬焉、古者重武官、以善射者掌事、故曰僕射、僕射者、僕役於射事也、秦世有左右曹諸吏、官無職事、將軍大夫以下皆得加此官、漢武帝世、使左右曹諸吏分平尙書奏事、昭帝卽位、霍光領尙書事、成帝初、王鳳錄尙書事、漢東京每帝卽位、輒置太傅、錄尙書事、薨輒省、晉康帝世、何充讓錄表曰、咸康中、分置三錄、王導錄其一、荀崧・陸曄各錄六條事、然則似有二十四條、若止有十二條、則荀・陸各錄六條、導又何所司乎、若導總錄、荀・陸分掌、則不得復云導錄其一也、其後每置二錄、輒云各掌六條事、又是止有十二條也、十二條者、不知悉何條、晉江右有四錄、則四人參錄也、江右張華・江左庾亮竝經關尙書七條、則亦不知皆何事也、後何充解錄、又參關尙書、錄尙書職無不總、王肅注尙書納于大麓曰、堯納舜於尊顯之官、使大錄萬機之政也、凡重號將軍刺史、皆得命曹授用、唯不得施除及加節、宋世祖孝建中、不欲威權外假、省錄、大明末復置、此後或置或省、漢獻帝建安四年、以執金吾榮郃爲尙書左僕射、衞臻爲右僕射、二僕射分置、自此始也、漢成帝建始四年、初置尙書、員四人、增丞亦爲四人、曹尙書其一曰常侍曹、主公卿事、其二曰二千石曹、主郡國二千石事、其三曰民曹、主吏民上書事、其四曰客曹、主外國夷狄事、光武分二千石曹爲二、又分客曹爲南主客曹・北主客曹、改常侍曹爲吏曹、凡六尙書、減二丞、唯置左右二丞而已、應劭漢官云、尙書令・左丞、總領綱紀、無所不統、僕射・右丞、掌稟假錢穀、三公尙書二人、掌天下歲盡集課、吏曹掌選擧・齋祠、二千石曹掌水・火・盜賊・詞訟・罪法、客曹掌羌・胡朝會、法駕出、護駕、民曹掌繕治・功作・鹽池・苑囿、吏曹任要、多得超遷、則漢末曹名及職司又與光武時異也、魏世有吏部・左民・客曹・五兵・度支五曹尙書、晉初有吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支六曹尙書、武帝咸寧二年、省駕部尙書、四年又置、太康中、有吏部・殿中・五兵・田曹・度支・左民六尙書、惠帝世、又有右民尙書、尙書止於六曹、不知此時省何曹也、江左則有祠部・吏部・左民・度支・五兵、合爲五曹尙書、宋高祖初、又增都官尙書、若有右僕射、則不置祠部尙書、世祖大明二年、置二吏部尙書、而省五兵尙書、後還置一吏部尙書、順帝昇明元年、又置五兵尙書、
 尙書は、古の官なり。舜は帝位を攝り、龍に命じて納言と作すは、卽ち其の任なり。周官には司會にして、鄭玄云ふならく、「今の尙書の若し」と。秦の世には少府は吏四人を遣はして殿中に在りて書を發するを主れば、故に之を尙書と謂ふ。尙は猶ほ主のごとしなり。漢の初めには尙冠・尙衣・尙食・尙浴・尙席・尙書有り、之を六尙と謂ふ。戰國の時には已に尙冠・尙衣の屬有り。秦の時には尙書令・尙書僕射・尙書丞有り。漢の初めに至りて竝びに少府に隸ひ、漢の東京にも亦た猶ほ文屬のごとし。古へは武官を重んじ、善く射る者を以て事を掌らしむれば、故に僕射と曰ふ。僕射とは、射事に僕役もてなり(?)。秦の世には左右曹の諸吏有るも、官に職の事無く、將軍大夫以下は皆な此の官を加へらるを得。漢の武帝の世には、左右曹の諸吏をして尙書の奏事を分平せしむ。昭帝卽位し、霍光は尙書の事を領し、成帝の初めに、王鳳は尙書の事を錄す。漢の東京には帝の卽位する每に、輒ち太傅を置き、尙書の事を錄せしめ、薨ずれば輒ち省く。晉の康帝の世には、何充の錄を讓(せ)むる表に曰く、「咸康中に、三錄を分置し、王導は其の一を錄し、荀崧・陸曄は各六條の事を錄せり」と。然して則ち二十四條有るが似(ごと)く、十二條有るに止まるが若しならば、則ち荀・陸は各六條を錄し、導は又た何れの所を司るや。若し導の錄を總べ、荀・陸の分掌せば、則ち復た導の其の一を錄するを云ふを得ざるなり。其の後に二錄を置く每に、輒ち各六條の事を掌るを云ひ、又た是れ十二條有るに止まるなり。十二條とは、悉く何れの條なるかを知らず。晉の江右には四錄有り、則ち四人參錄するなり。江右の張華・江左の庾亮は竝びに尙書七條を經關するも、則ち亦た皆な何れの事なるかを知らざるなり。後に何充は錄を解き、又た尙書に參關す。錄尙書の職は總べざる無く、王肅は尙書の「大麓に納る」に注して曰く、「堯の舜を尊顯の官に納るるは、大いに萬機を錄せしむるの政なり」と。凡そ重き號の將軍刺史は、皆な曹に命じて用ふを授くるを得るも、唯だ施除及び加節を得ず。宋の世祖の孝建中には、威權の外に假るを欲さず、錄を省く。大明の末に復た置く。此より後には或いは置き或いは省く。漢の獻帝の建安四年には、執金吾榮郃を以て尙書左僕射と爲し、衞臻を右僕射と爲す。二僕射分置するは、此自り始まるなり。漢の成帝の建始四年に、初めて尙書を置き、員四人、丞を增して亦た四人と爲す。曹尙書は其の一を常侍曹と曰ひ、公卿の事を主り、其の二を二千石曹と曰ひ、郡國二千石の事を主り、其の三を民曹と曰ひ、吏民上書の事を主り、其の四を客曹と曰ひ、外國夷狄の事を主る。光武は二千石曹を分ちて二と爲し、又た客曹を分ちて南主客曹・北主客曹と爲し、常侍曹を改めて吏曹と爲し、凡そ六尙書とす。二丞を減らし、唯だ左右の二丞のみを置く。應劭の漢官に云ふならく、「尙書令・左丞は、綱紀を總領し、統べざる所無し。僕射・右丞は、稟錢穀を假すを掌る。三公尙書の二人は、天下の歲盡くに集課を掌り、吏曹は選擧・齋祠を掌り、二千石曹は水・火・盜賊・詞訟・罪法を掌り、客曹は羌・胡の朝會を掌り、法駕出づれば、駕を護り、民曹は繕治・功作・鹽池・苑囿を掌る。吏曹に要を任せば、多くは超遷を得たり」と。則ち漢の末の曹の名及び職司は又た光武の時と異にするなり。魏の世には吏部・左民・客曹・五兵・度支の五曹尙書有り。晉の初めには吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹尙書有り。武帝の咸寧二年に、駕部尙書を省き、四年に又た置く。太康中に、吏部・殿中・五兵・田曹・度支・左民の六尙書有り。惠帝の世に、又た右民尙書有るも、尙書は六曹に止まれば、此の時に何れの曹を省きしかを知らざるなり。江左には則ち祠部・吏部・左民・度支・五兵有り、合はせて五曹尙書と爲す。宋の高祖の初めには、又た都官尙書を增やす。若し右僕射有らば、則ち祠部尙書を置かず。世祖の大明二年に、二吏部尙書を置き、而して五兵尙書を省き、後に還た一吏部尙書を置く。順帝の昇明元年に、又た五兵尙書を置く。
 尙書令、任總機衡、僕射・尙書、分領諸曹、左僕射領殿中・主客二曹、吏部尙書領吏部・刪定・三公・比部四曹、祠部尙書領祠部・儀曹二曹、度支尙書領度支・金部・倉部・起部四曹、左民尙書領左民・駕部二曹、都官尙書領都官・水部・庫部・功論四曹、五兵尙書領中兵・外兵二曹、昔有騎兵・別兵・都兵、故謂之五兵也、五尙書・二僕射・一令、謂之八坐、若營宗廟宮室、則置起部尙書、事畢省、
 尙書令は、機衡を任總し、僕射・尙書は、諸曹を分領す。左僕射は殿中・主客の二曹を領し、吏部尙書は吏部・刪定・三公・比部の四曹を領し、祠部尙書は祠部・儀曹の二曹を領し、度支尙書は度支・金部・倉部・起部の四曹を領し、左民尙書は左民・駕部の二曹を領し、都官尙書は都官・水部・庫部・功論の四曹を領し、五兵尙書中兵・外兵の二曹を領す。昔に騎兵・別兵・都兵有れば、故に之を五兵と謂ふなり。五尙書・二僕射・一令、之を八坐と謂ふ。若し宗廟の宮室を營まば、則ち起部尙書を置き、畢らば省く。
 漢成帝之置四尙書也、無置郞之文、漢儀、尙書郞四人、一人主匈奴單于營部、一人主羌夷吏民、一人主戶口墾田、一人主財帛委輸、匈奴單于、宣帝之世、保塞內附、成帝世、單于還北庭矣、一郞主匈奴單于營部、則置郞疑是光武時、所主匈奴、是南單于也、漢官云、置郞三十六人、不知是何帝增員、然則一尙書則領六郞也、主作文書、起立事草、初爲郞中、滿歲則爲侍郞、尙書寺居建禮門內、尙書郞入直、官供靑縑白綾被、或以綿緤爲之、給帷帳・氈褥・通中枕、太官供食物、湯官供餠餌及五孰果實之屬、給尙書伯使一人、女侍二人、皆選端正妖麗、執香爐、護衣服、奏事明光殿、殿以胡粉塗壁、畫古賢烈士、以丹朱色地、謂之丹墀、尙書郞口含雞舌香、以其奏事答對、欲使氣息芬芳也、奏事則與黃門侍郞對揖、黃門侍郞稱已聞、乃出、天子所服五時衣以賜尙書令僕、而丞・郞月賜赤管大筆一雙、隃麋墨一丸、魏世有殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・別兵・都兵・考功・定科、凡二十三郞、靑龍二年有軍事、尙書令陳矯奏置都官・騎兵二曹郞、合爲二十五曹、晉西朝則直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左主客・右主客・駕部・車部・庫部・左中兵・右中兵・左外兵・右外兵・別兵・都兵・騎兵・左士・右士・北主客・南主客爲三十四曹郞、後又置運曹、凡三十五曹、晉江左初、無直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左士・右士・運曹十曹郞、而主客・中外兵各置一郞而已、所餘十七曹也、康・穆以來、又無虞曹・二千石二郞、猶有殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵十八曹郞、後又省主客・起部・水部、餘十五曹、宋高祖初、加置騎兵・主客・起部・水部四曹郞、合爲十九曹、太祖元嘉十年、又省儀曹・主客・比部・騎兵四曹郞、十一年、又竝置、十八年、增刪定曹郞、次在左民曹上、蓋魏世之定科郞也、三十年、又置功論郞、次都官之下、在刪定之上、太宗世、省騎兵、今凡二十曹郞、以三公・比部主法制、度支主算、支、派也、度、景也、都官主軍事刑獄、其餘曹所掌、各如其名、
 漢の成帝の四尙書を置くや、郞の文を置くこと無し。漢儀に、尙書郞は四人、一人は匈奴單于の營部を主り、一人は羌夷吏民を主り、一人は戶口墾田を主り、一人は財帛委輸を主る。匈奴單于は、宣帝の世に、保塞內附し、成帝の世に、單于は北庭に還る。一郞は匈奴單于の營部を主り、則ち郞を置くは疑ふらくは是れ光武の時ならん、匈奴を主る所は、是れ南單于なり。漢官に云ふならく、「郞三十六人を置くは、是れ何れの帝に增員せしかを知らず」と。然して則ち一尙書もて則ち六郞を領するなり。文書を作すを主り、事草を起立す。初めに郞中と爲り、歲滿ちて則ち侍郞と爲す。尙書寺は建禮門の內に居す。尙書郞入直し、官は靑縑白綾の被を供し、或いは綿緤を以て之と爲す。帷帳・氈褥・通中枕を給し、太官には食物を供し、湯官には餠餌及び五孰果實の屬を供し、尙書伯使一人を給し、女侍は二人、皆な端正妖麗なるを選び、香爐を執り、衣服を護り、明光殿に奏事す。殿するに胡粉を以て塗壁するは、古の賢烈士に畫(かぎ)る。丹朱色の地を以てし、之を丹墀と謂ふ。尙書郞は口に雞舌香を含むは、以て其の奏事に答對せしときに、氣息をして芬芳たらしめんと欲するなり。奏事は則ち黃門侍郞と對ひて揖(すす)む。黃門侍郞稱して已に聞けば、乃ち出づ。天子の服する所の五時衣をは以て尙書令僕に賜ひ、而して丞・郞には月に赤管大筆一雙、隃麋墨一丸を賜ふ。魏の世には殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・別兵・都兵・考功・定科有り、凡そ二十三郞。靑龍二年には軍事有り、尙書令陳矯奏して都官・騎兵二曹の郞を置き、合はせて二十五曹と爲す。晉の西朝には則ち直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左主客・右主客・駕部・車部・庫部・左中兵・右中兵・左外兵・右外兵・別兵・都兵・騎兵・左士・右士・北主客・南主客を三十四曹郞と爲し、後に又た運曹を置き、凡そ三十五曹。晉の江左の初めには、直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左士・右士・運曹十曹の郞無く、而して主客(左主客・右主客・北主客・南主客)・中外兵(左中兵・右中兵・左外兵・右外兵)は各一郞のみを置き、餘りし所は十七曹なり。康・穆以來、又た虞曹・二千石の二郞無く、猶ほ殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵十八曹の郞有り。後に又た主客・起部・水部を省き、餘りは十五曹たり。宋の高祖の初めには、騎兵・主客・起部・水部四曹の郞を加へて置き、合はせて十九曹と爲す。太祖の元嘉十年に、又た儀曹・主客・比部・騎兵四曹の郞を省く。十一年に、又た竝びに置く。十八年に、刪定曹郞を增し、次して左民曹の上に在り、蓋し魏の世の定科郞なり。三十年に、又た功論郞を置き、都官の下、刪定の上に在り。太宗の世には、騎兵を省く。今は凡そ二十曹郞。三公・比部を以て法制を主る。度支は算を主る。支は、派なり。度は、景なり。都官は軍事刑獄を主る。其の餘りの所掌は、各其の名の如くす。
 漢制、公卿・御史中丞以下、遇尙書令・僕・丞・郞、皆辟車豫相回避、臺官過、乃得去、今尙書官上朝及下、禁斷行人、猶其制也、漢又制、丞・郞見尙書、呼曰明時、郞見二丞、呼曰左君・右君、
 郞以下則有都令史・令史・書令史・書吏幹、漢東京尙書令史十八人、晉初正令史百二十人、書令史百三十人、自晉至今、或減或益、難以定言、漢儀有丞相令史、令史蓋前漢官也、晉西朝有尙書都令史朱誕、則都令史其來久矣、分曹所掌如尙書也、
 晉西朝八坐丞・郞、朝晡詣都坐朝、江左唯旦朝而已、八坐丞・郞初拜、竝集都坐、交禮、遷、又解交、漢舊制也、今唯八坐解交、丞・郞不復解交也、尙書令千石、僕射尙書六百石、丞・郞四百石、
 武庫令、一人、掌軍器、秦官、至二漢、屬執金吾、晉初罷執金吾、至今隸尙書庫部、
 車府令、一人、丞一人、秦官也、二漢・魏・晉竝隸太僕、太僕旣省、隸尙書駕部、
 上林令、一人、丞一人、漢西京上林中有八丞・十二尉・十池監、丞・尉屬水衡都尉、池監隸少府、漢東京曰上林苑令及丞各一人、隸少府、晉江左闕、宋世祖大明三年復置、隸尙書殿中曹及少府、
 材官將軍、一人、司馬一人、主工匠土木之事、漢左右校令、其任也、魏右校又置材官校尉、主天下材木事、晉江左改材官校尉曰材官將軍、又罷左校令、今材官隸尙書起部及領軍、

 漢の制には、公卿・御史中丞以下の、尙書令・僕・丞・郞に遇ひしときには、皆な辟車もて豫(あらかじ)め相い回避し、臺官過ぎ、乃ち去るを得たり。今の尙書の官の上朝及び下りしときに、行人を禁斷するは、猶ほ其の制のごとしなり。漢は又た制して、丞・郞の尙書に見えしときには、呼びて明時と曰ふ。郞の二丞に見えしときには、呼びて左君・右君と曰ふ。
 郞以下に則ち都令史・令史・書令史・書吏幹有り。漢の東京に尙書令史十八人、晉の初めには正令史百二十人、書令史百三十人。晉自り今に至るまで、或いは減らし或いは益やせば、以て定言し難し。漢儀に丞相令史有り。令史は蓋し前漢の官なり。晉の西朝には尙書都令史朱誕有り、則ち都令史は其れ來久し。曹を分ちて所掌は尙書の如しなり。
 晉の西朝に八坐の丞・郞は、朝晡に都に詣りて坐朝するも、江左には唯だ旦朝のみ。八坐の丞・郞初めて拜し、竝びに都に集ひて坐し、禮を交ふ。遷らば、又た交を解く。漢の舊制なり。今は唯だ八坐は交を解くも、丞・郞は復た交を解かざるなり。尙書令は千石、僕射尙書は六百石、丞・郞は四百石なり。
 武庫令は、一人。軍器を掌る。秦の官。二漢に至り、執金吾に屬す。晉の初めには執金吾を罷め、今に至りて尙書庫部に隸ふ。
 車府令は、一人。丞は一人。秦の官なり。二漢・魏・晉には竝びに太僕に隸ふ。太僕旣に省けば、尙書駕部に隸はしむ。
 上林令は、一人。丞は一人。漢の西京に上林の中に八丞・十二尉・十池監有り。丞・尉は水衡都尉に屬す。池監は少府に隸ふ。漢の東京には上林苑令及び丞各一人は、少府に隸ふと曰ふ。晉の江左には闕く。宋の世祖の大明三年には復た置き、尙書殿中の曹及び少府に隸はしむ。
 材官將軍は、一人。司馬は一人。工匠土木の事を主る。漢の左右の校令は、其の任なり。魏の右校には又た材官校尉を置き、天下の材木の事を主る。晉の江左には材官校尉を改めて材官將軍と曰ひ、又た左校令を罷む。今の材官は尙書起部及び領軍に隸ふ。
 侍中、四人、掌奏事、直侍左右、應對獻替、法駕出、則正直一人負璽陪乘、殿內門下衆事皆掌之、周公戒成王立政之篇所云常伯、卽其任也、侍中本秦丞相史也、使五人往來殿內東廂奏事、故謂之侍中、漢西京無員、多至數十人、入侍禁中、分掌乘輿服物、下至褻器虎子之屬、武帝世、孔安國爲侍中、以其儒者、特聽掌御唾壺、朝廷榮之、久次者爲僕射、漢東京又屬少府、猶無員、掌侍左右、贊導衆事、顧問應答、法駕出、則多識者一人負傳國璽、操斬白蛇劍、參乘、餘皆騎、在乘輿車後、光武世、改僕射爲祭酒焉、漢世、與中官俱止禁中、武帝時、侍中莽何羅挾刃謀逆、由是侍中出禁外、有事乃入、事畢卽出、王莽秉政、侍中復入、與中官共止、章帝元和中、侍中郭擧與後宮通、拔佩刀驚御、擧伏誅、侍中由是復出外、魏・晉以來、置四人、別加官不主數、秩比二千石、
 侍中は、四人。奏事を掌り、左右に直侍し、獻替に應對す。法駕出づれば、則ち正直の一人は璽を負ひて陪乘す。殿內の門下の衆事皆な之を掌る。周公の成王を戒むる立政の篇に常伯と云ひし所は、卽ち其の任なり。侍中は本と秦の丞相史なり、五人をして殿內の東廂に往來して事を奏すれば、故に之を侍中と謂ふ。漢の西京には員無く、多くは數十人に至り、入りて禁中に侍ひ、乘輿服物を分掌し、下は褻器の虎子の屬に至る。武帝の世に、孔安國を侍中と爲し、其の儒者なるを以て、特に御唾壺を掌るを聽せば、朝廷は之を榮とす。久次なる者を僕射を爲す(1)。漢の東京には又た少府に屬すも、猶ほ員無し。左右に侍るを掌り、衆事を贊導し、應答を顧問す。法駕出づれば、則ち多識なる者一人に傳國璽を負ひ、斬白蛇劍を操り、參乘せしめ、餘りは皆な騎とし、乘輿車の後に在らしむ。光武の世に、僕射を改めて祭酒と爲す。漢の世には、中官と俱に禁中に止めしむ。武帝の時に、侍中莽何羅の刃を挾みて謀逆すれば、是れに由りて侍中は禁外に出で、事有らば乃ち入り、事畢らば卽ち出づ。王莽秉政し、侍中は復た入り、中官と共に止む。章帝の元和中に、侍中郭擧は後宮と通じ、佩刀を拔きて御を驚かし、擧げられて誅に伏せば、侍中は是れに由りて復た外に出づ。魏・晉以來、四人を置き、別に加官せられしは主には數へず。秩は比二千石なり。

 (1)原文「久次者爲僕射」。『後漢書』列伝五十一「黄琬伝」章懐太子注に、「久次謂久居官次也」(久次は久しく官次に居るを謂ふなり)とある。


宋書巻四十

 志第三十

    百官下

 給事黃門侍郞、四人、與侍中俱掌門下衆事、郊廟臨軒、則一人執麾、漢百官表秦曰給事黃門、無員、掌侍從左右、漢因之、漢東京曰給事黃門侍郞、亦無員、掌侍從左右、關通中外、諸王朝見、則引王就坐、應劭曰、每日莫向靑瑣門拜、謂之夕郞、史臣按劉向與子歆書曰、黃門郞、顯處也、然則前漢世已爲黃門侍郞矣、董巴漢書曰、禁門曰黃闥、中人主之、故號曰黃門令、然則黃門郞給事黃闥之內、故曰黃門郞也、魏・晉以來員四人、秩六百石、
 公車令、一人、掌受章奏、秦有公車司馬令、屬衞尉、漢因之、掌宮南闕門、凡吏民上章、四方貢獻、及徵詣公車者、皆掌之、晉江左以來、直云公車令、
 太醫令、一人、丞一人、周官爲醫師、秦爲太醫令、至二漢屬少府、
 太官令、一人、丞一人、周官爲膳夫、秦爲太官令、至漢屬少府、
 驊騮廐丞、一人、漢西京爲龍馬長、漢東京爲未央廐令、魏爲驊騮令、自公車令至此、隸侍中、

 給事黃門侍郞は、四人。侍中と俱に門下の衆事を掌る。郊廟に臨軒すれば、則ち一人は麾を執る。漢百官表に「秦に給事黃門と曰ひ、員無く、左右に侍從するを掌り、漢は之に因る」と。漢の東京には給事黃門侍郞と曰ふも、亦た員無く、左右に侍從するを掌り、中外を關通し、諸王朝見せば、則ち王を引きて坐に就く。應劭曰く、「每に日莫に靑瑣門に向ひて拜せば、之を夕郞と謂ふ」と。史臣按ずるに劉向の子歆に與へし書に曰く、「黃門郞は、顯處なり」と。然して則ち前漢の世には已に黃門侍郞爲り。董巴の漢書に曰く、「禁門を黃闥と曰ひ、中人之を主れば、故に號して黃門令と曰ふ」と(1)。然して則ち黃門郞は黃闥の內に給事し、故に黃門郞と曰ふなり。魏・晉以來員四人、秩は六百石なり。
 公車令は、一人。章奏を受くを掌る。秦に公車司馬令有り、衞尉に屬す。漢は之に因り、宮の南闕門を掌らしむ。凡そ吏民の上章、四方の貢獻、及び公車に徵詣せられし者、皆な之を掌る。晉の江左以來、直に公車令と云ふ。
 太醫令は、一人。丞は一人。周官(『周禮』天官冢宰)に醫師と爲し、秦には太醫令と爲し、二漢に至りて少府に屬す。
 太官令は、一人。丞は一人。周官(『周禮』天官冢宰)に膳夫と爲し、秦には太官令と爲し、漢に至りて少府に屬す。
 驊騮廐丞は、一人。漢の西京に龍馬長と爲し、漢の東京には未央廐令と爲し、魏には驊騮令と爲す。公車令自り此に至るまで、侍中に隸ふ。

 訳文。

 (1)原文「董巴漢書曰、禁門曰黃闥、中人主之、故號曰黃門令」。
 『後漢書』列傳第六十八「宦者傳」に、「至元帝之世、史游爲黃門令、勤心納忠、有所補益」とあり、章懷太子注の當該箇所には、「前書曰、急就一篇、元帝黃門令史游作、董巴輿服志曰、禁門曰黃闥、中人主之、故曰黃門也」とある。
 『隋書』卷三十三志第二十八「經籍志二」史類の儀注の項に、「大漢輿服志一卷魏博士董巴撰」とあり、
 『舊唐書』卷四十六志第二十六「經籍志上」乙部史錄の儀注類の項に、「輿服志一卷董巴撰」とあり、
 『新唐書』卷五十八志第四十八「藝文志二」乙部史錄の儀注類の項に、「董巴大漢輿服志一卷」とある。

 散騎常侍、四人、掌侍左右、秦置散騎、又置中常侍、散騎竝乘輿車後、中常侍得入禁中、皆無員、竝爲加官、漢東京初省散騎、而中常侍因用宦者、魏文帝黃初初、置散騎、合於中常侍、謂之散騎常侍、始以孟達補之、久次者爲祭酒散騎常侍、秩比二千石、
 通直散騎常侍、四人、魏末散騎常侍又有在員外者、晉武帝使二人與散騎常侍通直、故謂之通直散騎常侍、晉江左置五人、
 員外散騎常侍、魏末置、無員、
 散騎侍郞、四人、魏初與散騎常侍同置、魏・晉散騎常侍・侍郞、與侍中・黃門侍郞共平尙書奏事、江左乃罷、
 通直散騎侍郞、四人、初晉武帝置員外散騎侍郞四人、元帝使二人與散騎侍郞通直、故謂之通直散騎侍郞、後增爲四人、
 員外散騎侍郞、晉武帝置、無員、
 給事中、無員、漢西京置、掌顧問應對、位次中常侍、漢東京省、魏世復置、
 奉朝請、無員、亦不爲官、漢東京罷省三公・外戚・宗室・諸侯、多奉朝請、奉朝請者、奉朝會請召而已、晉武帝亦以宗室外戚爲奉車・駙馬・騎都尉、而奉朝請焉、元帝爲晉王、以參軍爲奉車都尉、掾・屬爲駙馬都尉、行參軍・舍人爲騎都尉、皆奉朝請、後省奉車・騎都尉、唯留駙馬都尉、奉朝請、永初已來、以奉朝請選雜、其尙主者唯拜駙馬都尉、三都尉竝漢武帝置、孝建初、奉朝請省、駙馬都尉・三都尉秩比二千石、

 散騎常侍は、四人。左右に侍ふを掌る。秦に散騎を置き、又た中常侍を置き、散騎は乘輿車の後に竝ぶ。中常侍は禁中に入るを得。皆な員無く、竝びに加官と爲す。漢の東京の初めには散騎を省き、而して中常侍は因りて宦者を用ふ。魏の文帝の黃初の初めには、散騎を置き、中常侍に合はせ、之を散騎常侍と謂ひ、始めて孟達を以て之に補す。久次なる者をは祭酒散騎常侍と爲し、秩は比二千石なり。
 通直散騎常侍は、四人。魏の末に散騎常侍に又た員外に在る者有り、晉の武帝は二人をして散騎常侍と通直せしむれば、故に之を通直散騎常侍と謂ふ。晉の江左には五人を置く。
 員外散騎常侍は、魏の末に置き、員無し。
 散騎侍郞は、四人。魏の初めに散騎常侍と同じに置く。魏・晉には散騎常侍・侍郞は、侍中・黃門侍郞と共に尙書の奏事を平し、江左には乃ち罷む。
 通直散騎侍郞は、四人。初めに晉の武帝は員外散騎侍郞四人を置き、元帝は二人をして散騎侍郞と通直せしむれば、故に之を通直散騎侍郞と謂ひ、後に增して四人と爲す。
 員外散騎侍郞は、晉の武帝置き、員無し。
 給事中は、員無し。漢の西京に置く。顧問應對を掌り、位は中常侍に次ぐ。漢の東京には省き、魏の世には復た置く。
 奉朝請は、員無く、亦た官と爲さず。漢の東京に罷まれ省かれたる三公・外戚・宗室・諸侯は、多くは奉朝請たり。奉朝請とは、朝會に請召を奉るのみ。晉の武帝も亦た宗室外戚を以て奉車・駙馬・騎都尉と爲し、而して奉朝請たり。元帝の晉王爲りしときには、參軍を以て奉車都尉と爲し、掾・屬を駙馬都尉と爲し、行參軍・舍人を騎都尉と爲し、皆な奉朝請たり。後に奉車・騎都尉を省き、唯だ駙馬都尉を留め、奉朝請とす。永初已來、奉朝請を以て雜を選び、其の尙主なる者は唯だ駙馬都尉を拜す。三都尉は竝びに漢の武帝置く。孝建の初めには、奉朝請省く。駙馬都尉・三都尉は秩は比二千石なり。
 中書令、一人、中書監、一人、中書侍郞、四人、中書通事舍人、四人、漢武帝游宴後廷、始使宦者典尙書事、謂之中書謁者、置令・僕射、元帝時、令弘恭・僕射石顯、秉勢用事、權傾內外、成帝改中書謁者令曰中謁者令、罷僕射、漢東京省中謁者令、而有中官謁者令、非其職也、魏武帝爲王、置祕書令、典尙書奏事、又其任也、文帝黃初初、改爲中書令、又置監、及通事郞、次黃門郞、黃門郞已署事過、通事乃奉以入、爲帝省讀書可、晉改曰中書侍郞、員四人、晉江左初、改中書侍郞曰通事郞、尋復爲中書侍郞、晉初置舍人一人、通事一人、江左初、合舍人・通事謂之通事舍人、掌呈奏案章、後省通事、中書差侍郞一人直西省、又掌詔命、宋初又置通事舍人、而侍郞之任輕矣、舍人直閤內、隸中書、其下有主事、本用武官、宋改用文吏、
 中書令は、一人。中書監は、一人。中書侍郞は、四人。中書通事舍人は、四人。漢の武帝の後廷に游宴しときに、始めて宦者をして尙書の事を典らしめ、之を中書謁者と謂ひ、令・僕射を置く。元帝の時に、令弘恭・僕射石顯に、勢用の事を秉り、內外を權傾せしむ。成帝は中書謁者令を改めて中謁者令と曰ひ、僕射を罷む。漢の東京には中謁者令を省く。而して中官謁者令有るも、其の職に非ざるなり。魏の武帝の王爲りしときに、祕書令を置き、尙書の奏事を典らしむるは、又た其の任なり。文帝の黃初の初めに、改めて中書令と爲し、又た監を置き、通事郞に及び、黃門郞に次ぐ。黃門郞已に署して事過ぎて、通事乃ち奉じて以て入り、帝の爲に省讀して可を書す。晉には改めて中書侍郞と曰ひ、員四人。晉の江左の初めには、中書侍郞を改めて通事郞と曰ひ、尋いで復た中書侍郞と爲す。晉の初めに舍人一人、通事一人を置く。江左の初めには、舍人・通事を合せて之を通事舍人と謂ひ、奏案章を呈するを掌る。後に通事を省き、中書差侍郞一人に西省を直り、又た詔命を掌らしむ。宋の初めには又た通事舍人を置き、而して侍郞の任は輕し。舍人は閤內に直り、中書に隸ふ。其の下に主事有り、本と武官を用ふるも、宋には改めて文吏を用ふ。
 祕書監、一人、祕書丞、一人、祕書郞、四人、漢桓帝延熹二年、置祕書監、皇甫規與張奐書云從兄祕書它何動靜是也、應劭漢官曰、祕書監一人、六百石、後省、魏武帝爲魏王、置祕書令・祕書丞、祕書典尙書奏事、文帝黃初初、置中書令、典尙書奏事、而祕書改令爲監、後欲以何楨爲祕書丞、而祕書先自有丞、乃以楨爲祕書右丞、後省、掌蓺文圖籍、周官外史掌四方之志・三皇五帝之書、卽其任也、漢西京圖籍所藏、有天祿・石渠・蘭臺・石室・延閣・廣內之府是也、東京圖書在東觀、晉武帝以祕書幷中書、省監、謂丞爲中書祕書丞、惠帝復置著作郞一人、佐郞八人、掌國史、周世左史記事、右史記言、卽其任也、漢東京圖籍在東觀、故使名儒碩學、著作東觀、撰述國史、著作之名、自此始也、魏世隸中書、晉武世、繆徵爲中書著作郞、元康中、改隸祕書、後別自爲省、而猶隸祕書、著作郞謂之大著作、專掌史任、晉制、著作佐郞始到職、必撰名臣傳一人、宋氏初、國朝始建、未有合撰者、此制遂替矣、
 祕書監は、一人。祕書丞は、一人。祕書郞は、四人。漢の桓帝の延熹二年に、祕書監を置く。皇甫規の張奐に與へし書に「從兄祕書它何動靜(?)」と云ふは是れなり。應劭の漢官に曰く、「祕書監は一人、六百石」と。後に省く。魏の武帝の魏王爲りしときには、祕書令・祕書丞を置く。祕書は尙書の奏事を典る。文帝の黃初の初めに、中書令を置き、尙書の奏事を典らしめ、而して祕書は令を改めて監と爲す。後に何楨を以て祕書丞と爲さんと欲し、而して祕書は先に自ら丞有れば、乃ち楨を以て祕書右丞と爲す。後に省く。蓺文圖籍を掌る。周官に「外史は四方の志・三皇五帝の書を掌る」といふは、卽ち其の任なり。漢の西京に圖籍の藏す所に、天祿・石渠・蘭臺・石室・延閣・廣內の府有るは是れなり。東京には圖書は東觀に在り。晉の武帝は祕書を以て中書に幷せ、監を省き、丞を謂ひて中書祕書丞と爲す。惠帝は復た著作郞一人、佐郞八人を置き、國史を掌らしむ。周の世に左史は事を記し、右史は言を記すは、卽ち其の任なり。漢の東京には圖籍は東觀に在れば、故に名儒碩學をして、東觀に著作し、國史を撰述せしむ。著作の名は、此自り始まるなり。魏の世には中書に隸ふ。晉武の世には、繆徵を中書著作郞と爲す。元康中に、改めて祕書に隸ひ、後に別に自ら省と爲し、而して猶ほ祕書に隸ふ。著作郞は之を大著作と謂ひ、史任を專掌す。晉の制には、著作佐郞の始めて職に到りしときには、必ず名臣の傳一人を撰す。宋氏の初めには、國朝始めて建ち、未だ撰に合ふ者有らざれば、此の制は遂に替る。
 領軍將軍、一人、掌內軍、漢有南北軍、衞京師、武帝置中壘校尉、掌北軍營、光武省中壘校尉、置北軍中候、監五校營、魏武爲丞相、相府自置領軍、非漢官也、文帝卽魏王位、魏始置領軍、主五校・中壘・武衞三營、晉武帝初省、使中軍將軍羊祜統二衞・前・後・左・右・驍騎七軍營兵、卽領軍之任也、祜遷罷、復置北軍中候、北軍中候置丞一人、懷帝永嘉中、改曰中領軍、元帝永昌元年、復改曰北軍中候、尋復爲領軍、成帝世、復以爲中候、而陶回居之、尋復爲領軍、領軍今猶有南軍都督、
 護軍將軍、一人、掌外軍、秦時護軍都尉、漢因之、陳平爲護軍中尉、盡護諸將、然則復以都尉爲中尉矣、武帝元狩四年、以護軍都尉屬大司馬、于時復爲都尉矣、漢書李廣傳、廣爲驍騎將軍、屬護軍將軍、蓋護軍護諸將軍、哀帝元壽元年、更名護軍都尉曰司寇、平帝元始元年、更名護軍都尉、東京省、班固爲大將軍中護軍、隸將軍莫府、非漢朝列職、魏武爲相、以韓浩爲護軍、史奐爲領軍、非漢官也、建安十二年、改護軍爲中護軍、領軍爲中領軍、置長史・司馬、魏初因置護軍、主武官選、隸領軍、晉世則不隸也、晉元帝永昌元年、省護軍幷領軍、明帝太寧二年、復置、魏・晉江右領・護各領營兵、江左以來、領軍不復別置營、總統二衞・驍騎・材官諸營、護軍猶別有營也、領・護資重者爲領軍・護軍將軍、資輕者爲中領軍・中護軍、官屬有長史・司馬・功曹・主簿・五官、受命出征、則置參軍、

 領軍將軍は、一人。內軍を掌る。漢に南北軍有り、京師を衞る。武帝は中壘校尉を置き、北軍の營を掌らしむ。光武は中壘校尉を省き、北軍中候を置き、五校の營を監せしむ。魏武の丞相爲りしときには、相府に自ら領軍を置くも、漢の官に非らざるなり。文帝は魏王の位に卽し、魏に始めて領軍を置き、五校・中壘・武衞の三營を主らしむ。晉の武帝は初めて省き、中軍將軍羊祜をして二衞・前・後・左・右・驍騎の七軍の營兵を統べしむるは、卽ち領軍の任なり。祜遷りて罷め、復た北軍中候を置く。北軍中候に丞一人を置く。懷帝の永嘉中に、改めて中領軍と曰ふ。元帝の永昌元年に、復た改めて北軍中候と曰ふ。尋いで復た領軍と爲す。成帝の世に、復た以て中候と爲し、而して陶回を之に居く。尋いで復た領軍と爲す。領軍は今に猶ほ南軍都督有るがごとし。
 護軍將軍は、一人。外軍を掌る。秦の時に護軍都尉たり、漢は之に因る。陳平を護軍中尉と爲し、盡く諸將を護らしむ。然して則ち復た都尉を以て中尉と爲す。武帝の元狩四年に、護軍都尉を以て大司馬に屬せしめ、時に于いて復た都尉と爲す。漢書李廣傳に、「廣は驍騎將軍と爲り、護軍將軍に屬す」と。蓋し護軍は諸の將軍を護る。哀帝の元壽元年に、名を更めて護軍都尉を司寇と曰ふ。平帝の元始元年に、名を護軍都尉に更む。東京には省き、班固は大將軍中護軍と爲り、將軍の莫府に隸ふも、漢朝の列職に非ず。魏武の相爲りしときには、韓浩を以て護軍と爲し、史奐を領軍と爲すも、漢の官に非ざるなり。建安十二年に、護軍を改めて中護軍と爲し、領軍を中領軍と爲し、長史・司馬を置く。魏の初めには因りて護軍を置き、武官の選を主り、領軍に隸はしむるも、晉の世には則ち隸はしめざるなり。晉の元帝の永昌元年には、護軍を省きて領軍に幷す。明帝の太寧二年に、復た置く。魏・晉の江右には領・護は各營兵を領し、江左以來、領軍は復た別に營を置かず、二衞・驍騎・材官の諸營を總統するも、護軍は猶ほ別に營を有するなり。領・護の資の重き者をは領軍・護軍將軍と爲し、資の輕き者は中領軍・中護軍と爲す。官屬には長史・司馬・功曹・主簿・五官有り。受命して出征せしときには、則ち參軍を置く。
 左衞將軍、一人、右衞將軍、一人、二衞將軍掌宿衞營兵、二漢・魏不置、晉文帝爲相國、相國府置中衞將軍、武帝初、分中衞置左右衞將軍、以羊琇爲左衞、趙序爲右衞、二衞江右有長史・司馬・功曹・主簿、江左無長史、
 驍騎將軍、漢武帝元光六年、李廣爲驍騎將軍、魏世置爲內軍、有營兵、高功者主之、先有司馬・功曹・主簿、後省、
 游擊將軍、漢武時、韓說爲游擊、是爲六軍、
 左軍將軍・右軍將軍・前軍將軍・後軍將軍、魏明帝時、有左軍將軍、然則左軍魏官也、晉武帝初、置前軍・右軍、泰始八年、又置後軍、是爲四軍、
 左中郞將・右中郞將、秦官、漢因之、與五官中郞將領三署郞、魏無三署郞、猶置其職、晉武帝省、宋世祖大明中、又置、
 屯騎校尉・步兵校尉・越騎校尉・長水校尉・射聲校尉、五校竝漢武帝置、屯騎・步兵掌上林苑門屯兵、越騎掌越人來降、因以爲騎也、一說取其材力超越也、長水掌長水宣曲胡騎、長水、胡部落名也、胡騎屯宣曲觀下、韋曜曰、長水校尉、典胡騎、廐近長水、故以爲名、長水、蓋關中小水名也、射聲掌射聲士、聞聲則射之、故以爲名、漢光武初改屯騎爲驍騎、越騎爲靑巾、建武十五年、復舊、漢東京五校、典宿衞士、自游擊至五校、魏・晉逮于江左、初猶領營兵、竝置司馬・功曹・主簿、後省、二中郞將本不領營也、五營校尉、秩二千石、

 左衞將軍は、一人。右衞將軍は、一人。二衞將軍は宿衞の營兵を掌る。二漢・魏には置かず。晉の文帝の相國爲りしときには、相國府に中衞將軍を置く。武帝の初めに、中衞を分ちて左右の衞將軍を置く。羊琇を以て左衞と爲し、趙序を右衞と爲す。二衞は江右には長史・司馬・功曹・主簿有り、江左には長史無し。
 驍騎將軍は、漢の武帝の元光六年に、李廣を驍騎將軍と爲す。魏の世には置きて內軍と爲し、營兵を有し、高功なる者に之を主らしむ。先に司馬・功曹・主簿有るも、後に省く。
 游擊將軍は、漢武の時に、韓說を游擊と爲す。是れを六軍と爲す。
 左軍將軍・右軍將軍・前軍將軍・後軍將軍は、魏の明帝の時に、左軍將軍有れば、然して則ち左軍は魏の官なり。晉の武帝の初めには、前軍・右軍を置き、泰始八年に、又た後軍を置く。是れを四軍と爲す。
 左中郞將・右中郞將は、秦の官なり、漢は之に因る。五官中郞將と三署の郞を領し、魏には三署の郞無く、猶ほ其の職を置く。晉の武帝省く。宋の世祖の大明中には又た置く。
 屯騎校尉・步兵校尉・越騎校尉・長水校尉・射聲校尉。五校は竝びに漢の武帝置く。屯騎・步兵は上林苑門の屯兵を掌り、越騎は越人の來降を掌り、因りて以て騎と爲すなり、一說に其の材力を取りて超越するなりと。長水は長水宣曲の胡騎を掌る。長水は、胡の部落の名なり。胡騎は宣曲觀の下に屯し、韋曜曰く、「長水校尉は、胡騎を典り、長水に廐近すれば、故に以て名と爲す。長水は、蓋し關中の小水の名なり」と。射聲は射聲の士を掌り、聲を聞きて則ち之を射れば、故に以て名を爲す。漢の光武の初めには屯騎を改めて驍騎と爲し、越騎を靑巾と爲す。建武十五年に、舊に復す。漢の東京には五校は、宿衞の士を典る。游擊自り五校に至るまで、魏・晉の江左に逮り、初めて猶ほ營兵を領し、竝びに司馬・功曹・主簿を置くも、後に省く。二中郞將は本と營を領せざるなり。五營校尉は、秩は二千石なり。
 虎賁中郞將、周官有虎賁氏、漢武帝建元三年、始微行出遊、選材力之士執兵從送、期之諸門、故名期門、無員、多至千人、平帝元始元年、更名曰虎賁郞、置中郞將領之、虎賁舊作虎奔、言如虎之奔走也、王莽輔政、以古有勇士孟賁、故以奔爲賁、比二千石、
 冗從僕射、漢東京有中黃門冗從僕射、非其職也、魏世因其名而置冗從僕射、
 羽林監、漢武帝太初元年、初置建章營騎、亦掌從送次期門、後更名羽林騎、置令・丞、宣帝令中郞將・騎都尉監羽林、謂之羽林中郞將、漢東京又置羽林左監・羽林右監、至魏世不改、晉罷羽林中郞將、又省一監、置一監而已、自虎賁至羽林、是爲三將、哀帝省、宋高祖永初初、復置、江右領營兵、江左無復營兵、羽林監六百石、
 積射將軍・强弩將軍、漢武帝以路博德爲强弩校尉、李沮爲强弩將軍、宣帝以許延壽爲强弩將軍、强弩將軍至東漢爲雜號、前漢至魏無積射、晉太康十年、立射營・弩營、置積射・强弩將軍主之、自驍騎至强弩將軍、先竝各置一人、宋太宗泰始以來、多以軍功得此官、今竝無復員、
 殿中將軍・殿中司馬督、晉武帝時、殿內宿衞、號曰三部司馬、置此二官、分隸左右二衞、江右初、員十人、朝會宴饗、則將軍戎服、直侍左右、夜開城諸門、則執白虎幡監之、晉孝武太元中、改選、以門閥居之、宋高祖永初初、增爲二十人、其後過員者、謂之殿中員外將軍・員外司馬督、其後竝無復員、
 武衞將軍、無員、初魏王始置武衞中郞將、文帝踐阼、改爲衞將軍、主禁旅、如今二衞、非其任也、晉氏不常置、宋世祖大明中、復置、代殿中將軍之任、比員外散騎侍郞、
 武騎常侍、無員、漢西京官、車駕游獵、常從射猛獸、後漢・魏・晉不置、宋世祖大明中、復置、比奉朝請、

 虎賁中郞將は、周官に虎賁氏有り。漢の武帝の建元三年に、始めて微行して出遊せしときに、材力の士を選びて兵を執りて從ひて送らしめ、之を諸門に期すれば、故に期門と名づく。員無く、多くは千人に至る。平帝の元始元年に、名を更めて虎賁郞と曰ひ、中郞將を置きて之を領せしむ。虎賁は舊は虎奔に作るは、虎の奔走を言ふが如しなり。王莽輔政し、古に勇士孟賁有るを以てせば、故に奔を以て賁と爲す。比二千石なり。
 冗從僕射は、漢の東京に中黃門冗從僕射有るも、其の職に非らざるなり。魏の世には其の名に因りて而して冗從僕射を置く。
 羽林監は、漢の武帝の太初元年に、初めて建章に營騎を置き、亦た從ひて送りて期門に次するを掌る。後に名を羽林騎に更め、令・丞を置く。宣帝は中郞將・騎都尉をして羽林を監せしめ、之を羽林中郞將と謂ふ。漢の東京には又た羽林左監・羽林右監を置き、魏の世に至りて改めず。晉には羽林中郞將を罷め、又た一監を省き、一監のみを置く。虎賁自り羽林に至るまで、是れを三將と爲す。哀帝省く。宋の高祖の永初の初めには、復た置く。江右には營兵を領すも、江左には復た營兵無し。羽林監は六百石なり。
 積射將軍・强弩將軍は、漢の武帝は路博德を以て强弩校尉と爲し、李沮を强弩將軍と爲す。宣帝は許延壽を以て强弩將軍と爲す。强弩將軍は東漢に至りて雜號と爲る。前漢より魏に至りて積射無し。晉の太康十年には、射營・弩營を立てて、積射・强弩將軍を置きて之を主らしむ。驍騎自り强弩將軍に至るまで、先は竝びに各一人を置く。宋の太宗の泰始以來、多くは軍功を以て此の官を得るも、今は竝びに復た員無し。
 殿中將軍・殿中司馬督は、晉の武帝の時に、殿內に宿衞し、號して三部司馬と曰ひ、此の二官を置き、分ちて左右の二衞に隸はしむ。江右の初めには、員十人。朝に宴饗に會しときには、則ち將軍は戎服し、左右に直侍し、夜に城の諸門を開きしときには、則ち白虎幡を執りて之を監す。晉の孝武の太元中には、改選し、門閥を以て之に居く。宋の高祖の永初の初めには、增して二十人と爲す。其の後に過員なる者をは、之を殿中員外將軍・員外司馬督と謂ふ。其の後には竝びに復た員無し。
 武衞將軍は、員無し。初めに魏王始めて武衞中郞將を置き、文帝踐阼し、改めて衞將軍と爲し、禁旅を主らしめ、今の二衞の如くするも、其の任の非ざるなり。晉氏は常には置かず。宋の世祖の大明中には、復た置き、殿中將軍の任に代へ、員外散騎侍郞に比べらる。
 武騎常侍は、員無し。漢の西京の官。車駕游獵すれば、常に從ひて猛獸を射る。後漢・魏・晉には置かず。宋の世祖の大明中に、復た置く。奉朝請に比べらる。
 御史中丞、一人、掌奏劾不法、秦時御史大夫有二丞、其一曰御史丞、其二曰御史中丞、殿中蘭臺祕書圖籍在焉、而中丞居之、外督部刺史、內領侍御史、受公卿奏事、擧劾按章、時中丞亦受奏事、然則分有所掌也、成帝綏和元年、更名御史大夫爲大司空、置長史、而中丞官職如故、哀帝建平二年、復爲御史大夫、元壽二年、復爲大司空、而中丞出外爲御史臺主、名御史長史、光武還曰中丞、又屬少府、獻帝時、更置御史大夫、自置長史一人、不復領中丞也、漢東京御史中丞遇尙書丞・郞、則中丞止車執版揖、而丞・郞坐車擧手禮之而已、不知此制何時省、中丞每月二十五日、繞行宮垣白壁、史臣按漢志執金吾每月三繞行宮城、疑是省金吾、以此事倂中丞、中丞秩千石、
 治書侍御史、掌擧劾官品第六已上、漢宣帝齋居決事、令御史二人治書、因謂之治書御史、漢東京使明法律者爲之、天下讞疑事、則以法律當其是非、魏・晉以來、則分掌侍御史所掌諸曹、若尙書二丞也、
 侍御史、於周爲柱下史、周官有御史、掌治令、亦其任也、秦置侍御史、漢因之、二漢員竝十五人、掌察擧非法、受公卿奏事、有違失者擧劾之、凡有五曹、一曰令曹、掌律令、二曰印曹、掌刻印、三曰供曹、掌齋祠、四曰尉馬曹、掌官廐馬、五曰乘曹、掌護駕、魏置御史八人、有治書曹、掌度支運、課第曹、掌考課、不知其餘曹也、晉西朝凡有吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中壘曹・營軍曹・算曹・法曹、凡十三曹、而置御史九人、晉江左初、省課第曹、置庫曹、掌廐牧牛馬市租、後復分庫曹、置外左庫・內左庫二曹、宋太祖元嘉中、省外左庫、而內左庫直云左庫、世祖大明中、復置、廢帝景和元年又省、順帝初、省營軍倂水曹、省算曹倂法曹、吏曹不置御史、凡十御史焉、魏又有殿中侍御史二人、蓋是蘭臺遣二御史居殿內察非法也、晉西朝四人、江左二人、秦・漢有符節令、隸少府、領符璽郞・符節令史、蓋周禮典瑞・掌節之任也、漢至魏別爲一臺、位次御史中丞、掌授節・銅虎符・竹使符、晉武帝泰始九年、省幷蘭臺、置符節御史掌其事焉、

 御史中丞は、一人。不法を奏劾するを掌る。秦の時に御史大夫に二丞有り、其の一を御史丞と曰ひ、其の二を御史中丞と曰ふ。殿中の蘭臺に祕書圖籍在れば、而して中丞を之に居く。外には部刺史を督し、內には侍御史を領し、公卿の奏事を受け、劾を擧げて章を按す。時に中丞も亦た奏事を受かば、然して則ち分ちて掌りし所を有らしむるなり。成帝の綏和元年に、名を更めて御史大夫を大司空と爲し、長史を置き、而して中丞の官職は故の如くす。哀帝の建平二年に、復た御史大夫と爲す。元壽二年に、復た大司空と爲す。而して中丞は外に出でて御史臺の主と爲り、御史長史と名づく。光武は還た中丞と曰ひ、又た少府に屬せしむ。獻帝の時に、更に御史大夫を置き、自ら長史一人を置くも、復た中丞に領せしめざるなり。漢の東京に御史中丞の尙書丞・郞に遇ひしときには、則ち中丞は車を止めて版を執りて揖(えしゃく)し、而して丞・郞は車に坐して手を擧へて之に禮するのみ。此の制は何れの時に省かれしかを知らず。中丞は每月二十五日に、宮垣白壁に繞行す。史臣按ずるに漢志に「執金吾は每月三たび宮城に繞行す」と。疑ふらくは是れ金吾を省き、此の事を以て中丞に倂せしか。中丞は秩千石なり。
 治書侍御史は、官品第六已上を擧劾するを掌る。漢の宣帝の齋居して事を決めしときに、御史二人をして書を治めしむれば、因りて之を治書御史と謂ふ。漢の東京には法律に明るき者をして之と爲し、天下の疑事を讞(さば)き、則ち法律を以て其の是非に當たらしむ。魏・晉以來、侍御史の掌りし所の諸曹を分掌せしむるは、尙書二丞の若しなり。
 侍御史は、周に於いて柱下史と爲る。周官には御史有り、令を治むるを掌るも、亦た其の任なり。秦に侍御史を置き、漢は之に因る。二漢には員は竝びに十五人。非法の察擧を掌り、公卿の奏事を受け、違失する者有らば之を擧劾す。凡そ五曹有り、一を令曹と曰ひ、律令を掌り、二を印曹と曰ひ、刻印を掌り、三を供曹と曰ひ、齋祠を掌り、四を尉馬曹と曰ひ、掌官廐馬、五を乘曹と曰ひ、護駕を掌る。魏に御史八人を置く。治書曹有り、度支の運を掌り、課第曹は、考課を掌るも、其の餘りの曹を知らざるなり。晉の西朝に凡そ吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中壘曹・營軍曹・算曹・法曹有り、凡そ十三曹にして、而して御史九人を置く。晉の江左初めには、課第曹を省きて、庫曹を置き、廐牧牛馬市租を掌らしむ。後に復た庫曹を分ち、外左庫・內左庫の二曹を置く。宋の太祖の元嘉中には、外左庫を省き、而して內左庫を直に左庫と云ふ。世祖の大明中に、復た置く。廢帝の景和元年に又た省く。順帝の初めに、營軍を省きて水曹に倂せ、算曹を省きて法曹に倂せ、吏曹に御史を置かず、凡そ十御史。魏に又た殿中侍御史二人有り、蓋し是れ蘭臺に二御史を遣はして殿內に居きて非法を察せしむるなり。晉の西朝には四人、江左には二人。秦・漢には符節令有り、少府に隸ひ、符璽郞・符節令史を領し、蓋し周禮の典瑞・掌節の任なり。漢より魏に至りて別に一臺と爲り、位は御史中丞に次ぎ、授節・銅虎符・竹使符を掌る。晉の武帝の泰始九年には、省きて蘭臺に幷せ、符節御史を置きて其事を掌らしむ。
 謁者僕射、一人、掌大拜授及百官班次、領謁者十人、謁者掌小拜授及報章、蓋秦官也、謁、請也、應氏漢官曰、堯以試舜、賓于四門、是其職也、秦世謁者七十人、漢因之、後漢百官志、謁者僕射掌奉引、和帝世、陳郡何煕爲謁者僕射、贊拜殿中、音動左右、然則又掌唱贊、有常侍謁者五人、謁者則置三十五人、半減西京也、二漢竝隸光祿勳、魏世置謁者十人、晉武帝省僕射、以謁者隸蘭臺、江左復置僕射、後又省、宋世祖大明中、復置、秩比千石、
 都水使者、一人、掌舟航及運部、秦・漢有都水長・丞、主陂池灌漑、保守河渠、屬太常、漢東京省都水、置河隄謁者、魏因之、漢世水衡都尉主上林苑、魏世主天下水軍舟船器械、晉武帝省水衡、置都水使者、而河隄爲都水官屬、有參軍二人、謁者一人、令史減置無常員、晉西朝有參軍而無謁者、謁者則江左置也、懷帝永嘉六年、胡入洛陽、都水使者爰濬先出督運得免、然則武帝置職、便掌運矣、江左省河隄、

 謁者僕射は、一人。大拜授及び百官の班次を掌る。謁者十人を領す。謁者は小拜授及び報章を掌る。蓋し秦の官なり。謁は、請なり。應氏の漢官に曰く、「堯は以て舜を試しときに、四門に賓せしは、是れ其の職なり」と。秦の世に謁者七十人なり、漢は之に因る。後漢の百官志に、「謁者僕射は奉引を掌る」と。和帝の世に、陳郡の何煕は謁者僕射と爲り、殿中に贊拜し、音は左右に動(ひび)く。然して則ち又た唱贊を掌る。常侍に謁者五人有り、謁者は則ち三十五人を置き、西京に半減せしむるなり。二漢には竝びに光祿勳に隸ふ。魏の世には謁者十人を置く。晉の武帝は僕射を省き、謁者を以て蘭臺に隸はしむるも、江左には復た僕射を置き、後に又た省く。宋の世祖の大明中には、復た置く。秩は比千石なり。
 都水使者は、一人。舟航及び運部を掌る。秦・漢には都水長・丞有り、陂池の灌漑を主り、河渠を保守し、太常に屬す。漢の東京には都水を省き、河隄謁者を置き、魏は之に因る。漢の世には水衡都尉は上林苑を主り、魏の世には天下の水軍の舟船器械を主る。晉の武帝は水衡を省き、都水使者を置き、而して河隄は都水の官屬と爲る。參軍二人有り、謁者は一人、令史は減らして置きて常員無し。晉の西朝には參軍有りて而して謁者無く、謁者は則ち江左に置くなり。懷帝の永嘉六年に、胡の洛陽に入りしときに、都水使者爰濬は先づ出でて運を督せば免るるを得たり。然して則ち武帝の置きし職なれば、便ち運を掌る。江左には河隄を省く。
 太子太傅、一人、丞一人、太子少傅、一人、丞一人、傅、古官也、文王世子曰、凡三王敎世子、太傅在前、少傅在後、竝以輔導爲職、漢高帝九年、以叔孫通爲太子太傅、位次太常、二漢竝無丞、魏世無東宮、然則晉氏置丞也、晉武帝泰始五年、詔太子拜太傅・少傅、如弟子事師之禮、二傅不得上疏曲敬、二傅竝有功曹・主簿・五官、太傅中二千石、少傅二千石、
 太子詹事、一人、丞一人、職比臺尙書令・領軍將軍、詹、省也、漢西京則太子門大夫・庶子・洗馬・舍人屬二傅、率更令・家令・僕・衞率屬詹事、皆秦官也、後漢省詹事、太子官屬悉屬少傅、而太傅不復領官屬、晉初太子官屬通屬二傅、咸寧元年、復置詹事、二傅不復領官屬、詹事二千石、
 家令、一人、丞一人、晉世置、漢世太子食湯沐邑十縣、家令主之、又主刑獄飮食、職比廷尉・司農・少府、漢東京主食官令、食官令、晉世自爲官、不復屬家令、
 率更令、一人、主宮殿門戶及賞罰事、職如光祿勳・衞尉、漢東京掌庶子・舍人、晉世則不也、自漢至晉、家令在率更下、宋則居上、
 僕、一人、漢世太子五日一朝、非入朝日、遣僕及中允旦入請問起居、主車馬・親族、職如太僕・宗正、自家令至僕、爲太子三卿、三卿秩千石、
 門大夫、二人、漢東京置、職如中郞將、分掌遠近表牋、秩六百石、
 中庶子、四人、職如侍中、漢東京員五人、晉減爲四人、秩六百石、
 中舍人、四人、漢東京太子官屬有中允之職、在中庶子下、洗馬上、疑若今中書舍人矣、中舍人、晉初置、職如黃門侍郞、
 食官令、一人、職如太官令、漢東京官也、今屬中庶子、
 庶子四人、職比散騎常侍・中書監令、晉制也、漢西京員五人、漢東京無員、職如三署中郞、古者諸侯世祿、卿大夫之子卽爲副倅、謂之國子、天子諸侯子、有庶子之官、以掌敎之秦因其名也、秩四百石、
 舍人、十六人、職如散騎・中書侍郞、晉制也、二漢無員、掌宿衞如三署中郞、
 洗馬、八人、職如謁者・祕書郞也、二漢員十六人、太子出、則當直者前驅導威儀、秩比六百石、
 太子左衞率、七人、太子右衞率、二人、二率職如二衞、秦時直云衞率、漢因之、主門衞、晉初曰中衞率、泰始分爲左右、各領一軍、惠帝時、愍懷太子在東宮、加置前後二率、成都王穎爲太弟、又置中衞、是爲五率、江左初、省前後二率、孝武太元中又置、皆有丞、晉初置、宋世止置左右二率、秩舊四百石、
 太子屯騎校尉・太子步兵校尉・太子翊軍校尉、三校尉各七人、竝宋初置、屯騎・步兵、因臺校尉、翊軍、晉武帝太康初置、始爲臺校尉、而以唐彬居之、江左省、
 太子冗從僕射、七人、宋初置、
 太子旅賁中郞將、十人、職如虎賁中郞將、宋初置、周官有旅賁氏、漢制、天子有虎賁、王侯有旅賁、旅、衆也、
 太子左積弩將軍、十人、太子右積弩將軍、二人、漢東京積弩將軍、雜號也、無左右之積弩、魏世至晉江左、左右積弩爲台職、領營兵、宋世度東宮、無復營矣、
 殿中將軍、十人、殿中員外將軍、二十人、宋初置、

 太子太傅は、一人。丞は一人。太子少傅は、一人。丞は一人。傅は、古の官なり。文王世子に曰く、「凡そ三王は世子を敎ふるに、太傅を前に在り、少傅を後に在らしめ、竝びに輔導するを以て職と爲す」と。漢の高帝九年には、叔孫通を以て太子太傅と爲し、位は太常に次がしむ。二漢には竝びに丞無し。魏の世には東宮無く、然して則ち晉氏は丞を置くなり。晉の武帝の泰始五年には、詔して太子をして太傅・少傅を拜せしめ、弟子の師の禮に事ふるが如くす。二傅は上疏曲敬を得ず。二傅には竝びに功曹・主簿・五官有り。太傅は中二千石、少傅は二千石なり。
 太子詹事は、一人。丞は一人。職は臺の尙書令・領軍將軍に比べらる。詹は、省なり。漢の西京に則ち太子の門大夫・庶子・洗馬・舍人は二傅に屬し、率更令・家令・僕・衞率は詹事に屬す。皆な秦の官なり。後漢には詹事を省き、太子の官屬は悉く少傅に屬し、而して太傅は復た官屬を領せず。晉の初めには太子の官屬は通じて二傅に屬す。咸寧元年に、復た詹事を置き、二傅は復た官屬を領せず。詹事は二千石なり。
 家令は、一人。丞は一人。晉の世に置く。漢の世には太子は湯沐の邑十縣を食み、家令は之を主る。又た刑獄飮食を主り、職は廷尉・司農・少府に比べらる。漢の東京には食官令を主る。食官令は、晉の世には自ら官と爲り、復た家令に屬せず。
 率更令は、一人。宮殿の門戶及び賞罰の事を主り、職は光祿勳・衞尉の如し。漢の東京に庶子・舍人を掌るも、晉の世には則ち不らざるなり。漢自り晉に至るまで、家令は率更の下に在るも、宋には則ち上に居す。
 僕は、一人。漢の世に太子は五日ごとに一朝し、入朝に非ざる日には、僕及び中允を遣はして旦に請問起居に入らしめ、車馬・親族を主り、職は太僕・宗正の如くす。家令自り僕に至るまで、太子三卿と爲す。三卿の秩は千石なり。
 門大夫は、二人。漢の東京に置き、職は中郞將の如くし、遠近の表牋を分掌す。秩は六百石なり。
 中庶子は、四人。職は如中の如し。漢の東京に員五人なれども、晉には減して四人と爲す。秩は六百石なり。
 中舍人は、四人。漢の東京には太子の官屬には中允の職有り、中庶子の下、洗馬の上に在り、疑ふらくは今の中書舍人の若しか。中舍人は、晉の初めに置き、職は黃門侍郞の如し。
 食官令は、一人。職は太官令の如し。漢の東京の官なり。今は中庶子に屬す。
 庶子は四人、職は散騎常侍・中書監令に比せらる。晉の制なり。漢の西京に員五人なれども、漢の東京には員無く、職は三署中郞の如し。古は諸侯は世祿なれば、卿大夫の子は卽ち副倅と爲り、之を國子と謂ひ、天子諸侯の子に、庶子の官有らば、以て之を敎ふるを掌る。秦は其名に因るなり。秩は四百石なり。
 舍人は、十六人。職は散騎・中書侍郞の如し。晉の制なり。二漢には員無く、宿衞を掌ること三署中郞の如し。
 洗馬は、八人。職は謁者・祕書郞の如しなり。二漢には員十六人。太子出づれば、則ち當に直者前驅して威儀を導かんとす。秩は比六百石なり。
 太子左衞率は、七人。太子右衞率は、二人。二率の職は二衞の如し。秦の時に直に衞率と云ひ、漢は之に因り、門衞を主る。晉の初めには中衞率と曰ひ、泰始に分ちて左右と爲し、各一軍を領せしむ。惠帝の時に、愍懷太子の東宮に在りしときには、前後の二率を加へて置き、成都王穎の太弟爲りしときには、又た中衞を置き、是れを五率と爲す。江左の初めには、前後の二率を省く。孝武の太元中に又た置く。皆な丞有り、晉の初めに置く。宋の世には止めて左右の二率を置く。秩は舊は四百石なり。
 太子屯騎校尉・太子步兵校尉・太子翊軍校尉。三校尉は各七人、竝びに宋の初めに置く。屯騎・步兵は、臺校尉に因り、翊軍は、晉の武帝の太康の初めに置き、始めて臺校尉と爲し、而して唐彬を以て之に居く。江左には省く。
 太子冗從僕射は、七人。宋の初めに置く。
 太子旅賁中郞將は、十人。職は虎賁中郞將の如し。宋の初めに置く。周官に旅賁氏有り。漢の制には、天子には虎賁有り、王侯には旅賁有り。旅は、衆なり。
 太子左積弩將軍は、十人。太子右積弩將軍は、二人。漢の東京に積弩將軍は、雜號なり、左右の積弩無く、魏の世より晉の江左に至るまで、左右の積弩は臺職と爲り、營兵を領す。宋の世には東宮を度るに、復た營無し。
 殿中將軍は、十人。殿中員外將軍は、二十人。宋の初めに置く。
 平越中郞將、晉武帝置、治廣州、主護南越、
 南蠻校尉、晉武帝置、治襄陽、江左初省、尋又置、治江陵、宋世祖孝建中省、
 西戎校尉、晉初置、治長安、安帝義煕中又置、治漢中、
 寧蠻校尉、晉安帝置、治襄陽、以授魯宗之、
 南夷校尉、晉武帝置、治寧州、江左改曰鎭蠻校尉、四夷中郞校尉、皆有長史・司馬・參軍、魏・晉有雜號護軍、如將軍、今猶有鎭蠻・安遠等護軍、鎭蠻以加廬江・晉煕・西陽太守、安遠以加武陵內史、

 平越中郞將は、晉の武帝置き、廣州を治め、南越を護るを主らしむ。
 南蠻校尉は、晉の武帝置き、襄陽を治めしむ。江左の初めに省く。尋いで又た置き、江陵を治む。宋の世祖の孝建中に省く。
 西戎校尉は、晉の初めに置き、長安を治めしむ。安帝の義煕中に又た置き、漢中を治めしむ。
 寧蠻校尉は、晉の安帝置き、襄陽を治めしめ、以て魯宗之に授く。
 南夷校尉は、晉の武帝置き、寧州を治めしむ。江左には改めて鎭蠻校尉と曰ふ。四夷中郞校尉は、皆な長史・司馬・參軍を有す。魏・晉には雜號護軍有り、將軍の如くし、今には猶ほ鎭蠻・安遠等の護軍有り。鎭蠻をは以て廬江・晉煕・西陽太守に加ふ。安遠は以て武陵內史に加ふ。
 刺史、每州各一人、黃帝立四監以治萬國、唐・虞世十二牧、是其職也、周改曰典、秦曰監御史、而更遣丞相史分刺諸州、謂之刺史、刺之爲言猶參覘也、寫書亦謂之刺、漢制不得刺尙書事是也、刺史班行六條詔書、其一條曰、强宗豪右、田宅踰制、以强陵弱、以衆暴寡、其二條曰、二千石不奉詔書、遵承典制、背公向私、旁詔守利、侵漁百姓、聚斂爲姦、其三條曰、二千石不恤疑獄、風厲殺人、怒則加罰、喜則任賞、煩擾苛暴、剥戮黎元、爲百姓所疾、山崩石裂、妖祥譌言、其四條曰、二千石選署不平、苟阿所愛、蔽賢寵頑、其五條曰、二千石子弟恃怙榮勢、請託所監、其六條曰、二千石違公下比、阿附豪强、通行貨賂、割損正令、歲終則乘傳詣京師奏事、成帝綏和元年、改爲牧、哀帝建平二年、復爲刺史、前漢世、刺史乘傳周行郡國、無適所治、後漢世、所治始有定處、止八月行部、不復奏事京師、晉江左猶行郡縣詔、棗據追遠詩曰、先君爲鉅鹿太守、迄今三紀、忝私爲冀州刺史、班詔次于郡傳是也、靈帝世、天下漸亂、豪桀各據有州郡、而劉焉・劉虞竝自九卿出爲益州・幽州牧、其任漸重矣、官屬有別駕從事史一人、從刺史行部、治中從事史一人、主財穀簿書、兵曹從事史一人、主兵事、部從事史每郡各一人、主察非法、主簿一人、錄閤下衆事、省署文書、門亭長一人、主州正門、功曹書佐一人、主選用、孝經師一人、主試經、月令師一人、主時節祠祀、律令師一人、平律、簿曹書佐一人、主簿書、典郡書佐每郡各一人、主一郡文書、漢制也、今有別駕從事史・治中從事史・主簿・西曹書佐・祭酒從事史・議曹從事史・部郡從事史、自主簿以下、置人多少、各隨州、舊無定制也、晉成帝咸康中、江州又有別駕祭酒、居僚職之上、而別駕從事史如故、今則無也、別駕・西曹主吏及選擧事、治中主衆曹文書事、西曹、卽漢之功曹書佐也、祭酒分掌諸曹兵・賊・倉・戶・水・鎧之屬、揚州無祭酒、而主簿治事、荊州有從事史、在議曹從事史下、大較應是魏・晉以來置也、今廣州・徐州有月令從事、若諸州之曹史、漢舊名也、漢武元封四年、令諸州歲各擧秀才一人、後漢避光武諱、改茂才、魏復曰秀才、晉江左揚州歲擧二人、諸州擧一人、或三歲一人、隨州大小、竝對策問、晉東海王越爲豫州牧、牧置長史・參軍、庾敳爲長史、謝鯤爲參軍、此爲牧者則無也、牧二千石、刺史六百石、
 刺史は、州每に各一人。黃帝は四監を立てて以て萬國を治め、唐・虞の世には十二牧なるは、是れの其の職なり。周には改めて典と曰ひ、秦には監御史と曰ひ、而して更に丞相の史を遣はして諸州を分刺せしむれば、之を刺史と謂ふ。刺の言爲るは猶ほ參覘するがごとしなり。書を寫するも亦た之を刺と謂ふ。漢の制に尙書の事を刺(あつ)むるを得ざるは是れなり。刺史は六條の詔書を班行(班行は頒布すること。吉川忠夫『後漢書』第三册 p348參照)し、其の一條に曰く、强宗豪右は、田宅を踰制し、强を以て弱を陵(しの)ぎ、衆を以て寡を暴く、其の二條に曰く、二千石は詔書を奉ぜず、典制を承るを遵し、公に背して私に向ひ、詔を旁にして利を守り、百姓を侵漁し、斂を聚りて姦を爲す、其の三條に曰く、二千石は疑獄を恤へず、殺人を風厲し、怒れば則ち罰を加へ、喜べば則ち賞を任せ、苛暴を煩擾し、黎元を剥戮し、百姓の疾する所と爲り、山崩れて石裂き、妖祥譌言す、其の四條に曰く、二千石は選署不平、苟阿所愛、賢を蔽して頑を寵す、其の五條に曰く、二千石の子弟は榮勢を恃怙し、監する所を請託す、其の六條に曰く、二千石は公の下に比ぶるを違へ、豪强に阿附し、貨賂を通行し、正令を割損す。歲終りて則ち乘傳して京師に詣りて奏事す。成帝の綏和元年に、改めて牧と爲す。哀帝の建平二年に、復た刺史と爲す。前漢の世には、刺史は乘傳して郡國を周行し、治むる所に適かざる無し。後漢の世には、治むる所に始めて定處有り、八月に行部を止め、復た京師に奏事せず。晉の江左には猶ほ郡縣に行きて詔す。棗據の追遠詩に、「先君の鉅鹿の太守と爲り、今に迄りて三紀、忝(かたじけな)くも私の冀州の刺史と爲り、班詔は郡に次して傳ふ」と曰ふは是れなり。靈帝の世には、天下は漸に亂れ、豪桀は各州郡を據有し、而して劉焉・劉虞は竝びに九卿自り出でて益州・幽州の牧と爲り、其の任漸に重し。官屬には別駕從事の史一人有り、刺史の行部に從ひ、治中從事の史は一人、財穀簿書を主り、兵曹從事の史は一人、兵の事を主り、部從事史は郡每に各一人、非法を察するを主り、主簿は一人、閤下の衆事、省署の文書を錄し、門亭長は一人、州の正門を主り、功曹の書佐は一人、選用を主り、孝經の師は一人、經を試するを主り、月令の師は一人、時節祠祀を主り、律令師は一人、律を平げ、簿曹の書佐は一人、簿書を主り、典郡の書佐は郡每に各一人、一郡の文書を主り、漢の制なり。今は別駕從事史・治中從事の史・主簿・西曹の書佐・祭酒從事の史・議曹從事の史・部郡從事の史有り、主簿自り以下は、人を置くこと多少なれば、各州に隨ひ、舊は定制と無さざるなり。晉の成帝の咸康中には、江州には又た別駕祭酒有り、僚職の上に居り、而して別駕從事の史は故の如くし、今は則ち無きなり。別駕・西曹は吏及び選擧の事を主り、治中は衆曹の文書の事を主る。西曹は、卽ち漢の功曹の書佐なり。祭酒は諸曹の兵・賊・倉・戶・水・鎧の屬を分掌す。揚州には祭酒無く、而して主簿事を治む。荊州には從事史有り、議曹從事の史の下に在り、大較應(まさ)に是れ魏・晉以來に置くなり。今は廣州・徐州には月令從事有り、諸州の曹史の若くし、漢の舊の名なり。漢武の元封四年には、諸州をして歲ごとに各秀才一人を擧げしむ。後漢には光武の諱を避け、茂才と改む。魏には復た秀才と曰ふ。晉の江左には揚州は歲ごとに二人を擧げ、諸州は一人を擧げ、或いは三歲ごとに一人、州の大小に隨ひ、竝び對して策問す。晉の東海王越の豫州の牧爲りしときに、牧に長史・參軍を置き、庾敳を長史と爲し、謝鯤を參軍と爲すも、此れは牧と爲りし者には則ち無きなり。牧は二千石、刺史は六百石なり。
 郡守、秦官、秦滅諸侯、隨以其地爲郡、置守・丞・尉各一人、守治民、丞佐之、郡當邊戍者、丞爲長史、晉江左皆謂之丞、尉典兵、備盜賊、漢景帝中二年、更名守曰太守、尉爲都尉、光武省都尉、後又往往置東部・西部都尉、有蠻夷者、又有屬國都尉、漢末及三國、多以諸部都尉爲郡、晉成帝咸康七年、又省諸郡丞、宋太祖元嘉四年、復置、郡官屬略如公府、無東西曹、有功曹史、主選擧、五官掾、主諸曹事、部縣有都郵・門亭長、又有主記史、催督期會、漢制也、今略如之、諸郡各有舊俗、諸曹名號、往往不同、漢武帝納董仲舒之言、元光元年、始令郡國擧孝廉、制郡口二十萬以上、歲察一人、四十萬以上、二人、六十萬、三人、八十萬、四人、百萬、五人、百二十萬、六人、不滿二十萬、二歲一人、不滿十萬、三歲一人、限以四科、一曰德行高妙、志節淸白、二曰學通行修、經中博士、三曰明習法令、足以決疑、能案章覆問、文中御史、四曰剛毅多略、遭事不惑、明足決斷、材任三輔縣令、魏初、更制口十萬以上、歲一人、有秀異、不拘戶口、江左以丹陽・吳・會稽・吳興竝大郡、歲各擧二人、漢制歲遣上計掾史各一人、條上郡內衆事、謂之階簿、至今行之、太守二千石、丞六百石、
 郡守は、秦の官。秦は諸侯を滅らし、隨ひて其の地を以て郡と爲し、守・丞・尉各一人を置く。守は民を治め、丞は之を佐く。郡の邊戍に當たる者は、丞を長史と爲す。晉の江左には皆な之を丞と謂ふ。尉は兵を典り、盜賊に備ふ。漢の景帝の中二年には、名を更めて守を太守と曰ひ、尉を都尉と爲す。光武は都尉を省くも、後には又た往往にして東部・西部都尉を置く。蠻夷を有する者には、又た屬國都尉を有し、漢の末及び三國には、多くは諸の部都尉を以て郡と爲す。晉の成帝の咸康七年には、又た諸郡の丞を省く。宋の太祖の元嘉四年には、復た置く。郡の官屬は略公府の如くするも、東西の曹無く、功曹の史有り、選擧を主り、五官の掾は、諸曹の事を主り、部縣には都郵・門亭の長有り、又た主記の史有り、期會を催督するは、漢の制なり、今は略ぼ之の如し。諸郡に各舊俗有れば、諸曹の名號は、往往にして同じからず。漢の武帝は董仲舒の言を納れ、元光元年に、始めて郡國をして孝廉を擧げしめ、制して郡の口二十萬以上には、歲ごとに一人を察せしめ、四十萬以上には、二人を、六十萬には、三人を、八十萬には、四人を、百萬には、五人を、百二十萬には、六人を、二十萬に滿たざれば、二歲ごとに一人を、十萬に滿たざれば、三歲ごとに一人。限るに四科を以てし、一に曰く德行高妙にして、志節淸白、二に曰く學に通じて行い修まり、經は博士に中(かな)ふ、三に曰く法令に明習し、以て疑ひを決するに足り、能く案章覆問し、文は御史に中ふ、四に曰く剛毅多略、事に遭ひて惑はず、明は決斷するに足り、材は三輔縣令に任(た)ふ。魏の初めには、更に制して口十萬以上には、歲ごとに一人を、秀の異なる有らば、戶口に拘わらず。江左には丹陽・吳・會稽・吳興竝びに大郡を以て、歲ごとに各二人を擧ぐ。漢の制には歲ごとに上計の掾史各一人を遣はし、上郡內衆の事を條せば、之を階簿と謂ひ、今に至るも之を行ふ。太守は二千石、丞は六百石なり。
 縣令・長、秦官也、大者爲令、小者爲長、侯國爲相、漢制、置丞一人、尉大縣二人、小縣一人、五家爲伍、伍長主之、二五爲什、什長主之、十什爲裏、裏魁主之、十裏爲亭、亭長主之、十亭爲鄕、鄕有鄕佐・三老・有秩・嗇夫・遊徼各一人、鄕佐・有秩主賦稅、三老主敎化、嗇夫主爭訟、遊徼主奸非、其餘諸曹、略同郡職、以五官爲廷掾、後則無復丞、唯建康有獄丞、其餘衆職、或此縣有而彼縣無、各有舊俗、無定制也、晉江右洛陽縣置六部都尉、餘大縣置二人、次縣・小縣各一人、宋太祖元嘉十五年、縣小者又省之、
 縣令・長は、秦の官なり。大なる者をは令と爲し、小なる者は長と爲し、侯國は相と爲す。漢の制には、丞一人を置き、尉は大縣には二人、小縣には一人。五家を伍と爲し、伍長之を主り、二五を什と爲し、什長之を主り、十什を里と爲し、里魁之を主り、十里を亭と爲し、亭長之を主り、十亭を鄕と爲し、鄕には鄕佐・三老・有秩・嗇夫・游徼各一人有り。鄕佐・有秩は賦稅を主り、三老は敎化を主り、嗇夫は爭訟を主り、游徼は姦非を主る。其の餘りの諸曹は、略ぼ郡職に同じにし、五官を以て廷掾と爲し、後に則ち復た丞無く、唯だ建康には獄丞有り、其の餘りの衆職は、或いは此の縣には有りて而して彼の縣には無しといふは、各に舊俗有らば、定制と無さざるなり。晉の江右には洛陽縣には六部都尉を置き、餘りの大縣には二人を置き、次縣・小縣には各一人。宋の太祖の元嘉十五年には、縣の小なる者は又た之を省く。
 諸官府至郡、各置五百者、舊說古君行師從、卿行旅從、旅、五百人也、今縣令以上、古之諸侯、故立四五百以象師從旅從、依古義也。韋曜曰、五百字本爲伍伯、伍、當也、伯、道也。使之導引當道伯中以驅除也、周制五百爲旅、帥皆大夫、不得卑之如此說也、又周禮秋官有條狼氏、掌執鞭以趨辟、王出入則八人夾道、公則六人、侯伯則四人、子男則二人、近之矣、名之異爾。又漢官中有伯使、主爲諸官驅使辟路於道伯中、故言伯使、此其比也。縣令千石至六百石、長五百石、
 諸の官府は郡に至り、各五百者を置き、舊說には「古は君行かば師從ひ、卿行かば旅從ふ」と。旅は、五百人なり。今の縣令以上は、古の諸侯なれば、故に四五百を立てて以て師從旅從に象るは、古義に依るなり。韋曜曰く、「五百の字は本と伍伯と爲す」と。伍は、當なり。伯は、道なり。之をして當道の伯中を導引して以て驅除せしむるなり。周の制には五百を旅と爲し、帥は皆な大夫にして、卑きを得ざるの此の說の如きなり。又た周禮秋官には條狼氏有り、執鞭を掌りて以て趨辟し、王出入すれば則ち八人道を夾み、公は則ち六人、侯伯は則ち四人、子男は則ち二人、之に近しが、之に名づくるに爾に異にす。又た漢官の中には伯使有り、主に諸官の爲に驅けて道伯の中に於いて路を辟かしむれば、故に伯使と言ひ、此れは其れに比ぶるなり。縣令は千石より六百石に至るまで、長は五百石なり。
 漢初王國置太傅、掌輔導、內史主治民、丞相統衆官、中尉掌武職、分官置職、略同京師、至景帝懲七國之亂、更制諸王不得治國、漢爲置吏、改丞相曰相、省御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士官、其大夫・謁者・諸官長丞、皆損其員數、後改漢內史爲京兆尹、中尉爲執金吾、郞中令爲光祿勳、而王國如故、又太僕爲僕、司農爲大農、成帝更令相治民如郡太守、省內史、其中尉如郡尉、太傅但曰傅、漢東京亦置傅一人、王師事之、相一人、主治民、中尉一人、主盜賊、郞中令一人、掌郞中宿衞、僕一人、治書一人、治書本曰尙書、後更名治書、中大夫、無員、掌奉使京師及諸國、謁者及禮樂・衞士・醫工・永巷・祀禮長各一人、郞中、無員、魏氏謁者官屬、史闕不知次第、晉武帝初置師・友・文學各一人、師卽傅也、景帝諱師、改爲傅、宋世復改曰師、其文學、前漢已置也、友者因文王・仲尼四友之名也、改太守爲內史、省相及僕、有郞中令・中尉・大農爲三卿、大國置左右常侍各三人、省郞中、置侍郞二人、大國又置上軍・中軍・下軍三將軍、次國上軍將軍・下軍將軍各一人、小國上軍而已、典書・典祠・典衞・學官令・典書令丞各一人、治書四人、中尉・司馬・世子庶子陵廟・牧長各一人、謁者四人、中大夫六人、舍人十人、典醫丞・典府丞各一人、宋氏以來、一用晉制、雖大小國、皆有三軍、晉制、典書令在常侍下、侍郞上、江左則侍郞次常侍、而典書令居三軍下矣、江左以來、公國則無中尉・常侍・三軍、侯國又無大農・侍郞、伯子男唯典書以下、又無學官令矣、吏職皆以次損省焉、晉江右公侯以下置官屬、隨國小大、無定制也、晉江左諸國、竝三分食一、元帝太興元年、始制九分食一、
 漢の初めに王國に太傅を置き、輔導を掌り、內史は民を治むるを主り、丞相は衆官を統べ、中尉は武職を掌る。官を分ちて職を置き、略ぼ京師に同じくし、景帝の七國の亂を懲しむるに至り、更に制して諸王は國を治むるを得ず、漢は爲に吏を置き、丞相を改めて相と曰ひ、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士の官を省き、其の大夫・謁者・諸官の長丞は、皆な其の員數を損ふ。後に漢の內史を改めて京兆尹と爲し、中尉を執金吾と爲し、郞中令を光祿勳と爲し、而して王國は故の如くし、又た太僕を僕と爲し、司農を大農と爲す。成帝は更に相をして民を治むること郡の太守の如くせしめ、內史を省く。其の中尉は郡尉の如くし、太傅は但だ傅と曰ふ。漢の東京にも亦た傅一人を置き、王は之に師事し、相は一人、民を治むるを主り、中尉は一人、盜賊を主り、郞中令は一人、郞中の宿衞を掌り、僕一人、治書は一人、治書は本と尙書と曰ひ、後に名を治書に更め、中大夫は、無員、使を京師及諸國に奉ぜしむるを掌り、謁者及び禮樂・衞士・醫工・永巷・祀禮長は各一人、郞中は、員無し。魏氏の謁者の官屬に、史闕きて次第を知らず。晉の武帝の初めには師・友・文學各一人を置く。師は卽ち傅なり、景帝の諱師なれば、改めて傅と爲す。宋の世には復た改めて師と曰ふ。其の文學は、前漢には已に置くなり。友とは文王・仲尼の四友の名に因るなり。太守を改めて內史と爲し、相及び僕を省く。郞中令・中尉・大農有りて三卿と爲す。大國には左右の常侍各三人を置き、郞中を省き、侍郞二人を置く。大國には又た上軍・中軍・下軍の三將軍を、次國には上軍將軍・下軍將軍各一人を、小國には上軍のみを置く。典書・典祠・典衞・學官令・典書令の丞は各一人、治書は四人、中尉・司馬・世子庶子陵の廟・牧長は各一人、謁者は四人、中大夫は六人、舍人は十人、典醫丞・典府丞は各一人。宋氏以來、一は晉の制を用ひ、大小の國と雖も、皆な三軍を有す。晉の制には、典書は常侍の下、侍郞の上に在らしむるも、江左には則ち侍郞は常侍に次ぎ、而して典書は三軍の下に居らしむ。江左以來、公國には則ち中尉・常侍・三軍無く、侯國には又た大農・侍郞無く、伯子男は唯だ典書以下、又た學官令無し。吏職は皆な次を以て損して省く。晉の江右には公侯以下は官屬を置き、國の小大に隨ひ、定制と無さざるなり。晉の江左には諸國は、竝びに三に分ちて一を食む。元帝の太興元年には、始めて制して九に分ちて一を食ましむ。
太傅、太保、太宰、
太尉、司徒、司空、
大司馬、大將軍、
諸位從公、

太傅。太保。太宰。
太尉。司徒。司空。
大司馬。大將軍。
の位の公に從ふもの。
右第一品、
右第一品。
特進、
驃騎、車騎、衞將軍、
諸大將軍、
諸持節都督、

特進。
驃騎、車騎、衞將軍。
の大將軍。
の持節都督。
右第二品、
右第二品。
侍中、散騎常侍、
尙書令、僕射、尙書、
中書監、令、祕書監、
諸征・鎭至龍驤將軍、
光祿大夫、
諸卿、尹、
太子二傅、
大長秋、
太子詹事、
領・護軍、
縣侯、

侍中、散騎常侍。
尙書令、僕射、尙書。
中書監、令。祕書監。
の征・鎭より龍驤將軍に至るまで。
光祿大夫。
諸卿、尹。
太子の二傅。
大長秋。
太子詹事。
領・護軍。
縣侯。
右第三品、
右第三品。
二衞至五校尉、
寧朔至五威・五武將軍、
四中郞將、
刺史領兵者、
戎蠻校尉、
御史中丞、都水使者、
鄕侯、

二衞より五校尉に至るまで。
寧朔より五威・五武將軍に至るまで。
四中郞將。
刺史の兵を領する者。
戎蠻校尉。
御史中丞。都水使者。
鄕侯。
右第四品、
右第四品。
給事中、黃門・散騎・中書侍郞、
謁者僕射、
三將、積射・强弩將軍、
太子中庶子、庶子、三卿、率、
鷹揚至陵江將軍、
刺史不領兵者、
郡國太守、內史、相、
亭侯、

給事中。黃門・散騎・中書侍郞。
謁者僕射。
三將、積射・强弩將軍。
太子中庶子、庶子、三卿、率。
鷹揚より陵江將軍に至るまで。
刺史の兵を領せざる者。
郡國の太守、內史、相。
亭侯。
右第五品、
右第五品。
尙書丞、郞、
治書侍御史、侍御史、
三都尉、
博士、
撫軍以上及持節都督領護長史・司馬、
公府從事中郞將、
廷尉正、監、評、
祕書著作丞、郞、
王國公三卿、師、友、文學、
諸縣署令千石者、
太子門大夫、
殿中將軍、司馬督、
雜號護軍、
闕內侯、

尙書丞、郞。
治書侍御史、侍御史。
三都尉。
博士。
撫軍以上及び持節都督の領護する長史・司馬。
公府の從事中郞將。
廷尉正、監、評。
祕書著作丞、郞。
王國の公三卿、師、友、文學。
諸縣の署令の千石なる者。
太子門大夫。
殿中將軍、司馬督。
雜號護軍。
闕內侯。
右第六品、
右第六品。
謁者、
殿中監、
諸卿尹丞、
太子傅詹事率丞、
諸軍長史・司馬六百石者、
諸府參軍、
戎蠻府長史、司馬、
公府掾、屬、
太子洗馬、舍人、食官令、
諸縣令六百石者、

謁者。
殿中監。
の卿尹の丞。
太子の傅詹事率の丞。
の軍長史・司馬の六百石なる者。
諸府の參軍。
戎蠻府の長史、司馬。
公府の掾、屬。
太子洗馬、舍人、食官令。
の縣令の六百石なる者。
右第七品、
右第七品。
內臺正令史、
郡丞、
諸縣署長、
雜號宣威將軍以下、

內臺の正令史。
郡丞。
諸縣の署長。
雜號の宣威將軍以下。
右第八品、
右第八品。
內臺書令史、
外臺正令史、
諸縣署丞、尉、

內臺の書令史。
外臺の正令史。
諸縣の署丞、尉。
右第九品、凡新置不見此諸條者、隨秩位所視、蓋晉□□所定也、
右第九品。凡そ新たに置きて此の諸條に見えざる者は、秩位に隨ひて視る所にして、蓋し晉の□□に定めし所なり。

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2008.07.07 一部暫定公開開始