晋書巻二十四

 志第十四

    職官

 書曰、唐虞稽古、建官惟百、所以獎導民萌、裁成庶政、易曰、天垂象、聖人則之、執法在南宮之右、上相處端門之外而鳥龍居位、雲火垂名、前史詳之、其以尙矣、黃帝置三公之秩、以親黎元、少昊配九扈之名、以爲農正、命重黎於天地、詔融冥於水火、則可得而言焉、伊尹曰、三公調陰陽、九卿通寒暑、大夫知人事、列士去其私、而成湯居亳、初置二相、以伊尹・仲虺爲之、凡厥樞會、仰承君命、總及周武下車、成康垂則、六卿分職、二公弘化、咸樹司存、各題標準、苟非其道、人弗虛榮、貽厥孫謀、其固本也如此、及秦變周官、漢遵嬴舊、或隨時適用、或因務遷革、霸王之典、義在於斯、旣獲厥安、所謂得其時制者也、四征興於漢代、四安起於魏初、四鎭通於柔遠、四平止於喪亂、其渡遼・淩江、輕車・强弩、式揚遐外、用表攻伐、興而復毀、厥號彌繁、及當塗得志、克平諸夏、初有軍師祭酒、參掌戎律、建安十三年、罷漢台司、更置丞相而以曹公居之、用兼端揆、孫吳・劉蜀、多依漢制、雖復臨時命氏、而無忝舊章、世祖武皇帝卽位之初、以安平王孚爲太宰、鄭沖爲太傅、王祥爲太保、司馬望爲太尉、何曾爲司徒、荀顗爲司空、石苞爲大司馬、陳騫爲大將軍、世所謂八公同辰、攀雲附翼者也、若乃成乎棟宇、非一枝之勢、處乎經綸、稱萬夫之敵、或牽羊以叶於夢、或垂釣以申其道、或空桑以獻其術、或操版以啓其心、臥龍飛鴻、方金擬璧、秦奚・鄭產、楚材晉用、斯亦曩時之良具、其又昭彰者焉、宣王旣誅曹爽、政由己出、網羅英俊、以備天官、及蘭卿受羈、貴公顯戮、雖復策名魏氏、而乃心皇晉、及文王纂業、初啓晉臺、始置二衞、有前驅・養由之弩、及設三部、有熊渠・佽飛之衆、是以武帝龍飛、乘茲奮翼、猶武王以周之十亂而理殷民者也、是以泰始盡於太康、喬柯茂葉、來居斯位、自太興訖于建元、南金北銑、用處茲秩、雖未擬乎夔拊龍言、天工人代、亦庶幾乎任官惟賢、蒞事惟能者也、
 書(周官)に曰く、「唐虞は古へを稽へ、官を建つること惟れ百」と。民萌を獎導し、庶政を裁成する所以なり。易(繫辭上)に曰く、「天は象を垂れ、聖人之に則る」と。執法は南宮の右に在り、上相は端門の外に處りて鳥龍は位に居り、雲火は名を垂るるに、前史の之を詳かにせしは、其れ以に尙し。黃帝は三公の秩を置き、以て黎元を親し、少昊は九扈の名を配し、以て農正と爲し、重黎を天地に命じ、融冥を水火に詔し、則ち得て言ふ可し。伊尹曰く、「三公は陰陽を調べ、九卿は寒暑を通じ、大夫は人事を知り、列士は其の私を去つ」と。而して成湯は亳に居り、初めて二相を置き、伊尹・仲虺を以て之と爲し、凡そ厥て樞に會し、仰ぎて君命を承く。總べて周武の下車に及び、成康則を垂れ、六卿の職を分かち、二公化を弘め、咸な司存を樹て、各標準を題するに、苟くも其の道に非ずば、人虛榮せず。厥の孫に謀を貽す(『詩經』大雅・文王之什)は、其の本を固むるや此の如し。秦は周官を變へ、漢は嬴舊に遵ふに及び、或いは隨時適用し、或いは務に因りて遷革せしは、霸王の典、義の斯に在り、旣に厥の安を獲り、所謂其の時の制を得し者なり。四征は漢代に興り、四安は魏の初めに起り、四鎭は柔遠に通じ、四平は喪亂を止め、其の渡遼・淩江、輕車・强弩は、式りて遐外に揚げ、用ひて攻伐を表し、興して復た毀り、厥れ號彌繁し。當塗の志を得るに及び、克ちて諸夏を平ぐに、初めて軍師祭酒有り、戎律に參掌せしむ。建安十三年に、漢の台司を罷め、更に丞相を置きて曹公を以て之に居き、用ひて端揆を兼ねしむ。孫吳・劉蜀は、多くは漢の制に依り、復た時に臨みて氏を命ずと雖も、舊章を忝くすること無し。世祖武皇帝の卽位の初めに、安平王孚を以て太宰と爲し、鄭沖を太傅と爲し、王祥を太保と爲し、司馬望を太尉と爲し、何曾を司徒と爲し、荀顗を司空と爲し、石苞を大司馬と爲し、陳騫を大將軍と爲し、世に謂ふ所の八公の辰を同じくするは、雲を攀じて翼を附すといふ者なり。若し乃ち棟宇を成さんとすれば、一枝の勢に非ず、經綸に處り、萬夫の敵と稱すべし。或いは牽羊以て夢を叶へ、或いは釣を垂れて以て其の道を申し、或いは空桑以て其の術を獻し、或いは操版以て其の心を啓す。臥龍飛鴻すれば、金に方べて璧に擬へ、秦の奚・鄭の產は、楚の材をば晉用ひ、斯し亦た曩時の良具、其れ又た昭彰なる者なり。宣王は旣に曹爽を誅し、政をは己由り出だし、英俊を網羅し、以て天官を備へ、蘭卿の羈を受け、貴公顯戮せらるに及び、復た名を魏氏に策すると雖も、乃ち皇晉に心あり。文王纂業し、初めて晉臺に啓するに及び、始めて二衞を置き、前驅・養由の弩有り、三部を設くるに及び、熊渠・佽飛の衆有り。是れ以て武帝の龍飛、茲に乘りて翼を奮ふは、猶ほ武王の周の十亂を以て殷の民を理むるがごとき者なり。是れ以て泰始より太康に盡き、喬柯の茂葉は、來りて斯の位に居り、太興自り建元に訖り、南金北銑、用ひて茲の秩に處らしむ。未だ夔拊ちて龍言ふに乎いて、天工を人代に擬せざると雖も、亦た任官には惟だ賢なるをし、事に蒞みては惟だ能をするを庶幾する者なり。

 訳文(略。いづれ訳す…かも)

 (1-x)原文「及當塗得志」。
 『三国志』魏書第二「文帝紀」延康元年(220)冬十月の条の注に引く「献帝伝」に、「當塗高者、魏也、象魏者、兩觀闕是也、當道而高大者魏」とある。

 (1-x)原文「義陽王望爲太尉、何曾爲司徒」。
 斠注の当該箇所に、「讀史擧正曰、案本紀及望曾傳、其時曾爲太尉、望爲司徒」とある。
 ここでは、「何曾爲太尉、義陽王望爲司徒」として訳す。

 (1-x)原文「或牽羊以叶於夢」。
 『史記』巻三十八「宋微子世家第八」に、「周武王伐紂克殷、微子乃持其祭器造於軍門、肉袒面縛、左牽羊、右把茅、膝行而前以吿」とある。

 (1-x)原文「有熊渠・佽飛之衆」。
 「熊渠」と「佽飛」は、ともに周代の勇士の名。

 (1-x)原文「雖未擬乎夔拊龍言」。
 『尚書』舜典に、「夔曰、於、予擊石拊石、(略)龍、朕堲讒說殄行、震驚朕師、命汝作納言」とある。

 丞相・相國、竝秦官也、晉受魏禪、竝不置、自惠帝之後、省置無恆、爲之者、趙王倫・梁王肜・成都王穎・南陽王保・王敦・王導之徒、皆非復尋常人臣之職、
 太宰・太傅・太保、周之三公官也、魏初唯置太傅、以鍾繇爲之、末年又置太保、以鄭沖爲之、晉初以景帝諱故、又採周官官名、置太宰以代太師之任、秩增三司、與太傅・太保皆爲上公、論道經邦、燮理陰陽、無其人則闕、以安平獻王孚居之、自渡江以後、其名不替、而居之者甚寡、
 太尉・司徒・司空、竝古官也、自漢歷魏、置以爲三公、及晉受命、迄江左、其官相承不替、
 大司馬、古官也、漢制以冠大將軍・驃騎・車騎之上、以代太尉之職、故恆與太尉迭置、不竝列、及魏有太尉、而大司馬・大將軍各自爲官、位在三司上、晉受魏禪、因其制、以安平王孚爲太宰、鄭沖爲太傅、王祥爲太保、義陽王望爲太尉、何曾爲司徒、荀顗爲司空、石苞爲大司馬、陳騫爲大將軍、凡八公同時竝置、唯無丞相焉、自義陽王望爲大司馬之後、定令如舊、在三司上、
 大將軍、古官也、漢武帝置、冠以大司馬名、爲崇重之職、及漢東京、大將軍不常置、爲之者皆擅朝權、至景帝爲大將軍、亦受非常之任、後以叔父孚爲太尉、奏改大將軍在太尉下、及晉受命、猶依其制、位次三司下、後復舊、在三司上、太康元年、琅邪王伷遷大將軍、復制在三司下、伷薨後如舊、
 開府儀同三司、漢官也、殤帝延平元年、鄧騭爲車騎將軍・儀同三司、儀同之名、始自此也、及魏黃權以車騎將軍・開府儀同三司、開府之名、起於此也、
 驃騎・車騎・衞將軍・伏波・撫軍・都護・鎭軍・中軍・四征・四鎭・龍驤・典軍・上軍・輔國等大將軍、左右光祿・光祿三大夫、開府者皆爲位從公、
 太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光祿大夫・光祿大夫、開府位從公者爲文官公、冠進賢三梁、黑介幘、
 大司馬・大將軍・太尉・驃騎・車騎・衞將軍・諸大將軍、開府位從公者爲武官公、皆著武冠、平上黑幘、
 文武官公、皆假金章紫綬、著五時服、其相國・丞相、皆衮冕、綠盭綬、所以殊於常公也、

 丞相・相國は、竝びに秦の官なり。晉は魏の禪を受け、竝びに置かず、惠帝自りの後には、省置に恆無し。之と爲りし者は、趙王倫・梁王肜・成都王穎・南陽王保・王敦・王導の徒にして、皆な復た尋常たる人臣の職に非ず。
 太宰・太傅・太保は、周の三公の官なり。魏の初めには唯だ太傅を置き、鍾繇を以て之と爲し、末年には又た太保を置き、鄭沖を以て之と爲す。晉の初めには景帝の諱を以て故に、又た周官の官名を採り、太宰を置きて以て太師の任に代へ、三司に秩增し、太傅・太保と與に皆な上公と爲す。道を論じて邦を經め、陰陽を燮理し、其の人無くば則ち闕く。安平獻王孚を以て之に居く。渡江自り以後も、其の名は替(すた)れず、之に居りし者は甚だ寡し。
 太尉・司徒・司空は、竝びに古の官なり。漢自り魏を歷て、置きて以て三公と爲す。晉の受命するに及び、江左に迄びても、其の官は相い承ぎて替れず。
 大司馬は、古の官なり。漢の制には以て大將軍・驃騎・車騎の上に冠し、以て太尉の職に代へれば、故に恆に太尉と迭置し、竝列せず。魏に及びて太尉有れば、大司馬・大將軍は各自づから官と爲り、位は三司の上に在り。晉は魏の禪を受け、其の制に因り、安平王孚を以て太宰と爲し、鄭沖を太傅と爲し、王祥を太保と爲し、義陽王望を太尉と爲し、何曾を司徒と爲し、荀顗を司空と爲し、石苞を大司馬と爲し、陳騫を大將軍と爲し、凡て八公を同時に竝びに置き、唯だ丞相無し。義陽王望の大司馬と爲りし自りの後は、令を定めて舊の如くし、三司の上に在らしむ。
 大將軍は、古の官なり。漢の武帝置き、冠しむるに大司馬の名を以てし、崇重の職と爲す。漢の東京に及び、大將軍は常には置かず、之と爲りし者は皆な朝權を擅らにす。景帝の大將軍と爲るに至りしときにも、亦た非常の任を受く。後に叔父の孚を以て太尉と爲せば、奏して大將軍を改めて太尉の下に在らしむ。晉の受命するに及び、猶ほ其の制に依り、位は三司の下に次ぎ、後に舊に復し、三司の上に在らしむ。太康元年に、琅邪王伷の大將軍に遷るや、復た制して三司の下に在らしめ、伷薨ずるの後には舊の如くす。
 開府儀同三司は、漢の官なり。殤帝の延平元年に、鄧騭を車騎將軍・儀同三司と爲せば、儀同の名は、此れ自り始まるなり。魏に及びて黃權は車騎將軍・開府儀同三司たるを以て、開府の名は、此こに起つるなり。
 驃騎・車騎・衞將軍・伏波・撫軍・都護・鎭軍・中軍・四征・四鎭・龍驤・典軍・上軍・輔國等の大將軍、左右の光祿・光祿の三大夫の、開府せし者は皆な位を公に從ふと爲す。
 太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右の光祿大夫・光祿大夫の、開府して位の公に從ふ者は文官の公と爲し、進賢の三梁を冠し、黑介幘をす。
 大司馬・大將軍・太尉・驃騎・車騎・衞將軍・諸の大將軍の、開府して位の公に從ふ者は武官の公と爲し、皆な武冠を著け、平上黑幘をす。
 文武官の公には、皆な金章紫綬を假し、五時の服を著き、其の相國・丞相は、皆な衮冕、綠盭の綬たり。常なる公に殊にする所以なり。

 丞相・相国は、ともに秦の官である(2-1)。晋は魏の禅譲を受けると、ともに置かなかったが、恵帝より後には、省かれたり置かれたりと変遷を続けた。これらとなった者は、趙王司馬倫・梁王司馬肜・成都王司馬穎・南陽王司馬保・王敦・王導といった面々であり、彼らはもう通常の人臣の職位ではなかった。
 太宰・太傅・太保は、周の三公の官である。魏の初年にはただ太傅を置き、鍾繇をこれとなし、末年にはまた太保を置き、鄭沖をこれとした。晋の初年には景帝の諱を理由に、また『尚書』周官の官名を採用し、太宰を置いて太師の任務に代え、三司に加増し、太傅・太保とともにみな上公とした。道を論究して国家を経営し、陰陽を調和し、徳を有する者がいなければ欠員とした(2-2)。安平献王司馬孚をこれに据えた。東晋より以後も、その名称は廃止されず、これらに就任した者は非常に少なかった。
 太尉・司徒・司空は、みな古き時代の官である。漢より魏をへて、置いて三公とした。晋が受命するに及び、東晋に至っても、それらの官は順次に継承されて廃止されなかった。
 大司馬は、古き時代の官である。漢の制度では大将軍・驃騎・車騎の上に冠し、太尉の職に代えたので、そこで常に太尉とかわるがわる置き、並列しなかった。魏に及んで太尉があったので、大司馬と大将軍は各々別に官となり、位は三司の上にあった。晋が魏の禅譲を受けると、その制度を踏襲し、安平王司馬孚を太宰となし、鄭沖を太傅となし、王祥を太保となし、何曾を太尉となし、義陽王司馬望を司徒となし(2-3)、荀顗を司空となし、石苞を大司馬となし、陳騫を大将軍となし、すべて八公を同時にみな置き、ただ丞相がなかった。義陽王司馬望が大司馬となってから後は、令を定めて以前と同じくし、三司の上に据えた。
 大将軍は、古き時代の官である。漢の武帝が置き、大司馬の名を冠し、崇重の職とした。東漢に及び、大将軍は常置されず、これとなった者はみな朝権を一手に握った。景帝が大将軍となったときにも、また非常の任務を受けた。後に叔父の司馬孚が太尉となったので(2-4)、奏上して大将軍を改めて太尉の下に据えた。晋が受命するに及び、なおその制度に従い、位は三司の下に次ぐものとしたが、後に旧制に戻し、三司の上に据えた。太康三年(282)に、琅邪王司馬伷が大将軍に昇進すると(2-5)、再び制して三司の下に据え、司馬伷が薨去した後には以前と同じくした。
 開府儀同三司は、漢の官である。殤帝の延平元年(106)に、鄧騭を車騎将軍・儀同三司としたので、儀同の名は、この時より始まったのである。魏に及んで黄権は車騎将軍・開府儀同三司となったので、開府の名は、この時を起源とするのである(2-6)
 驃騎・車騎・衛将軍・伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国等の大将軍、左右の光禄・光禄の三大夫の、開府した者はみな位を公に従うものとした。
 太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右の光禄大夫・光禄大夫の、開府して位が公に従う者は文官の公となし、進賢三梁の冠をかぶり、黒い頭巾をつける。
 大司馬・大将軍・太尉・驃騎・車騎・衛将軍・諸大将軍の、開府して位が公に従う者は武官の公となし、みな武冠をかぶり、頂を平坦にした黒い頭巾をつける。
 文武官の公には、みな金の印章と紫の組紐を貸し与え、五時服を着用させるが、そのなかで相国と丞相は、ともに衮衣と冕冠(2-7)、緑の組紐とした。常なる公と異にするためである。

 (2-1)原文「丞相・相國、竝秦官也」。
 『史記』巻四十三「趙世家第十三」武霊王二十七年(299BC)五月戊申の条に、「大朝於東宮、傳國、立王子何以爲王、王廟見禮畢、出臨朝、大夫悉爲臣、肥義爲相國、幷傅王」とあり、
 『資治通鑑』巻第三「周紀三」赧王上十六年(299BC)五月戊申の条に、「大朝東宮、傳國於何、王廟見禮畢、出臨朝、大夫悉爲臣、肥義爲相國、幷傅王」とあり、胡三省注の当該箇所には、「相國之官始此、秦漢因之、漢魏以降、其位望尊於丞相」とある。
 相国は、周の時代には既に置かれていたらしいことがわかる。又、次項の「太宰・太傅・太保」からは上位の官より記述されているので、「相國・丞相」の順に記すのが自然ではなかろうか。

 (2-2)原文「無其人則闕」。
 『漢書』巻十九上「百官公卿表第七上」に、「記曰三公無官、言有其人然後充之」とあり、顔師古注の当該箇所には、「不必備員、有德者乃處之」とある。
 所謂「則闕の官」である。ここでは、「其人」を「有德者」として訳す。

 (2-3)原文「義陽王望爲太尉、何曾爲司徒」。
 序文の項の注参照。

 (2-4)原文「至景帝爲大將軍、亦受非常之任、後以叔父孚爲太尉」。
 『三国志』魏書第四「斉王紀」嘉平三年(251)秋七月辛未の条に、「以司空司馬孚爲太尉」とあり、嘉平四年(252)春正月癸卯の条に、「以撫軍大將軍司馬景王爲大將軍」とあり、司馬師の大将軍就任より、司馬孚の太尉就任が先である。

 (2-5)原文「太康元年、琅邪王伷遷大將軍」。
 斠注の当該箇所に、「周家祿校勘記曰、案伷遷大將軍、在太康三年」とある。
 ここでは、「太康元年」を「太康年」として訳す。

 (2-6)原文「及魏黃權以車騎將軍・開府儀同三司、開府之名、起於此也」。
 『三国志』魏書第四「斉王紀」景初三年(239)冬十月の条に、「鎭南將軍黃權爲車騎將軍」とあり、
 蜀書十三「黄権伝」に、「景初三年、蜀延煕二年、權遷車騎將軍・儀同三司」とあり、ともに開府の記述は見られない。

 (2-7)原文「衮冕」。
 「衮衣」は、天子の礼服の一種。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%9E%E8%A1%A3
 「冕冠」は、天子の礼冠の一種。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0

 諸公及開府位從公者、品秩第一、食奉日五斛、太康二年、又給絹、春百匹、秋絹二百匹、緜二百斤、元康元年、給菜田十頃、田騶十人、立夏後不及田者、食奉一年、置長史一人、秩一千石、西東閤祭酒、西東曹掾、戶倉賊曹令史・屬各一人、御屬、閤下令史、西東曹倉戶賊曹令史、門令史、記室省事令史、閤下記室書令史、西東曹學事各一人、給武賁二十人、持班劍、給朝車駕駟・安車黑耳駕三各一乘、祭酒掾屬白蓋小車七乘、軺車施耳後戶・皁輪犢車各一乘、自祭酒已下、令史已上、皆皁零辟朝服、太尉雖不加兵者、吏屬皆絳服、司徒加置左右長史各一人、秩千石、主簿、左西曹掾屬各一人、西曹稱右西曹、其左西曹令史已下人數如舊令、司空加置導橋掾一人、
 諸公及開府位從公加兵者、增置司馬一人、秩千石、從事中郞二人、秩比千石、主簿、記室督各一人、舍人四人、兵鎧士曹、營軍・刺姦・帳下都督、外都督、令史各一人、主簿已下、令史已上、皆絳服、司馬給吏卒如長史、從事中郞給侍二人、主簿、記室督各給侍一人、其餘臨時增崇者、則襃加各因其時爲節文、不爲定制、
 諸公及開府位從公爲持節都督、增參軍爲六人、長史・司馬・從事中郞・主簿、記室督、祭酒・掾屬・舍人如常加兵公制、
 特進、漢官也、二漢及魏晉以加官從本官車服、無吏卒、太僕羊琇遜位、拜特進、加散騎常侍、無餘官故給吏卒・車服、其餘加特進者、唯食其祿賜、位其班位而已、不別給特進吏卒・車服、後定令、特進品秩第二、位次諸公、在開府驃騎上、冠進賢兩梁、黑介幘、五時朝服、佩水蒼玉、無章綬、食奉日四斛、太康二年、始賜春服絹五十匹、秋絹百五十匹、綿一百五十斤、元康元年、給菜田八頃、田騶八人、立夏後不及田者、食奉一年、置主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人、給安車黑耳駕御一人、軺車施耳後戶一乘、

 諸公及び開府して位の公に從ふ者は、品秩は第一、食奉は日ごとに五斛たり。太康二年には、又た絹を、春には百匹、秋には絹二百匹、緜二百斤を給す。元康元年には、菜田十頃、田騶十人、立夏の後に田するに及ばざる者には、食奉一年を給す。長史一人を置き、秩は一千石たり。西東閤の祭酒、西東曹の掾、戶倉賊曹の令史・屬をは各一人、御屬、閤下の令史、西東曹倉戶賊曹の令史、門の令史、記室の省事令史、閤下記室の書令史、西東曹の學事をは各一人なり。武賁二十人を給し、班劍を持たしむ。朝車の駟に駕るをと、安車の黑き耳の三に駕るを各一乘、祭酒の掾屬には白蓋の小車を七乘、軺車の耳を施して戶を後にするをと、皁き輪の犢車各一乘を給す。祭酒自り已下、令史已上は、皆な皁き零もて朝服を辟る。太尉は兵を加へざる者と雖も、吏屬は皆な絳服す。司徒には左右の長史各一人を加へて置き、秩は千石たり。主簿、左西曹の掾屬をは各一人たるも、西曹を右西曹と稱し、其の左西曹の令史已下の人數は舊令の如くす。司空には導橋の掾一人を加へて置く。
 諸公及び開府して位の公に從ひて兵を加ふる者には、司馬一人を增置し、秩は千石たり。從事中郞は二人、秩は比千石たり。主簿、記室の督をは各一人、舍人は四人、兵鎧士曹、營軍・刺姦・帳下の都督、外都督、令史は各一人なり。主簿より已下、令史より已上は、皆な絳服す。司馬に吏卒を給することは長史の如くし、從事中郞には侍二人を給し、主簿、記室の督には各侍一人を給す。其の餘の時に臨みて增崇する者は、則ち襃加すること各其の時に因りて節文を爲し、定制と爲さず。
 諸公及び開府して位の公に從ひて持節都督爲るには、參軍を增やして六人と爲し、長史・司馬・從事中郞・主簿、記室の督、祭酒・掾屬・舍人は常に兵を加ふる公の制の如くす。
 特進は、漢の官なり。二漢及び魏晉には加官を以て本官の車服に從ひ、吏卒無し。太僕の羊琇は遜位し、特進を拜し、散騎常侍を加へ、餘りの官無き故に吏卒・車服を給せらる。其の餘りの特進を加へられし者は、唯だ其の祿賜を食み、其の班位に位するのみにして、別に特進の吏卒・車服を給せず。後に令を定め、特進は品秩は第二たり、位は諸公に次ぎ、開府驃騎の上に在らしめ、進賢の兩梁を冠し、黑介幘をし、五時の朝服をし、水蒼の玉を佩び、章綬無く、食奉は日ごとに四斛たり。太康二年には、始めて春には服絹五十匹を、秋には絹百五十匹、綿一百五十斤を賜ふ。元康元年には、菜田八頃、田騶八人、立夏の後に田するに及ばざる者には、食奉一年を給す。主簿、功曹の史、門の亭長、門下の書佐各一人を置き、安車黑耳の駕御一人、軺車の耳を施して戶を後にする一乘を給す。

 諸公及び開府して位が公に従う者は、品秩は第一、食奉は日ごとに五斛であった。太康二年(281)には、また絹を、春には百匹、秋には絹二百匹、綿二百斤を支給した。元康元年(291)には、菜田十頃、田騶十人、立夏の後に狩りをしない者には、食奉一年を支給した。長史一人を置き、秩禄は一千石であった。西東閤の祭酒、西東曹の掾、戸倉賊曹(戸曹・倉曹・賊曹)の令史・属は各々一人、御属、閤下の令史、西東曹倉戸賊曹(西曹・東曹・倉曹・戸曹・賊曹)の令史、門の令史、記室の省事令史、閤下記室の書令史、西東曹の学事は各々一人であった。虎賁二十人を支給し(3-1)、班剣を持たせた。朝廷から支給される四頭だての車と、黒いステップ付きの三頭だての安車を各々一乗(3-2)、祭酒の掾属には白い車蓋の小車を七乗、ステップ付きで乗車口が後方にある軽車と、黒い車輪の小さな牛車各々一乗を支給した。祭酒より以下、令史以上は、みな黒い小さな布で朝服を縁取った。太尉は兵を加えない者であっても、吏属はみな朱色の服を着用した。司徒には左右の長史各々一人を加えて置き(3-3)、秩禄は千石であった。主簿、左西曹の掾属は各々一人であったが、西曹を右西曹と称し、そのなかで左西曹の令史以下の人数は旧令と同じくした。司空には導橋の掾一人を加えて置いた。
 諸公及び開府して位が公に従って兵を加える者には、司馬一人を増やして置き、秩禄は千石であった。従事中郎は二人、秩禄は比千石であった。主簿、記室の督は各々一人、舎人は四人、兵鎧士曹(兵曹・鎧曹・士曹)〔の掾〕、営軍・刺姦・帳下の都督、外都督、令史は各々一人であった。主簿より以下、令史より以上は、みな朱色の服を着用した。司馬に吏卒(小役人)を支給することは長史と同じくし、従事中郎には侍二人を支給し、主簿と記室の督には各々侍一人を支給した。そのほかの時々の事情に応じて加増する者は、過去の善行に従って加えることとして各々その時に従って礼儀を定め、定制としなかった。
 諸公及び開府して位が公に従って持節都督である者には、参軍を増やして六人となし、長史・司馬・従事中郎・主簿、記室の督、祭酒・掾属・舎人は常に兵を加える公の制度と同じくした。
 特進は、漢の官である。二漢(西漢と東漢)及び魏晋では加官を以て本官の車服に従い、吏卒(小役人)はなかった。太僕の羊琇は遜位すると、特進を拝命し、散騎常侍を加えられ、ほかの官がないことを理由に吏卒と車服を支給された(3-4)。そのほかで特進を加えられた者は、ただその禄賜(秩禄と褒美)を受け、その班位(列位)に列するのみであり(3-5)、別に特進の吏卒と車服を支給しなかった。後に令を定め、特進は品秩は第二であり、位は諸公に次ぐものとし、開府驃騎の上に据え、進賢両梁の冠をかぶり、黒い頭巾をつけ、五時朝服を着用し、水模様の青玉を装着し、印章と組紐はなく、食奉は日ごとに四斛であった。太康二年(281)には、初めて春には服絹五十匹を、秋には絹百五十匹、綿一百五十斤を下賜した。元康元年(291)には、菜田八頃、田騶八人、立夏の後に狩りをしない者には、食奉一年を支給した。主簿、功曹の史、門の亭長、門下の書佐各々一人を置き、黒いステップ付きの安車の馭者一人、ステップ付きで乗車口が後方にある軽車一乗を支給した。

 (3-1)原文「給武賁二十人」。
 唐の太祖李虎の諱を避けて、「虎」を「武」に置き換えている。
 ここでは、以下の「武賁」や「銅武符」の「武」は、「」に直して訳す。

 (3-2)原文「安車黑耳駕三各一乘」。
 「安車」は、「老人や女性用に座って乗るようにつくられた、屋根つきの小さい馬車。一般の車は、四頭立てで、立って乗った。(略)「安車」は、屋根が卑(ひく)く、座って乗るもので、今の吏が乗る小車である」(『全訳漢辞海』p.388)

 (3-3)原文「司徒加置左右長史各一人」。
 斠注の当該箇所に、「御覽二百九干寶司徒儀曰、左長史職掌檢其法憲、明其分職、通典二十曰、司徒加置左長史、掌差次九品、銓衡人倫、冠綬與丞相長史同」とある。
 おそらく、左右の長史を加えて三人としたのではなく、長史を左右に分割したと思われる。

 (3-4)原文「無餘官故給吏卒・車服」。
 ここでいう「餘官」は、加官ではない本来の官職を指すのだろう。羊琇は特進と散騎常侍を加官されたが、太僕を遜位していったん無官となっているので、本来の官職が無かった。

 (3-5)原文「唯食其祿賜、位其班位而已」。
 斠注の当該箇所に、「案賜位之位、當從通典三十四作賜列」とある。
 ここでは、「位其班位」を「其班位」として訳す。

 左右光祿大夫、假金章紫綬、光祿大夫加金章紫綬者、品秩第二、祿賜・班位・冠幘・車服・佩玉、置吏卒・羽林及卒、諸所賜給皆與特進同、其以爲加官者、唯假章綬・祿賜・班位而已、不別給車服・吏卒也、又卒贈此位、本已有卿官者、不復重給吏卒、其餘皆給、
 光祿大夫假銀章靑綬者、品秩第三、位在金紫將軍下、諸卿上、漢時所置無定員、多以爲拜假賵贈之使、及監護喪事、魏氏已來、轉復優重、不復以爲使命之官、其諸公吿老者、皆家拜此位、及在朝顯職、復用加之、及晉受命、仍舊不改、復以爲優崇之制、而諸公遜位、不復加之、或更拜上公、或以本封食公祿、其諸卿・尹・中朝大官年老致仕者、及內外之職加此者、前後甚衆、由是或因得開府、或進加金章紫綬、又復以爲禮贈之位、泰始中、唯太子詹事楊珧加給事中・光祿大夫、加兵之制、諸所供給依三品將軍、其餘自如舊制、終武・惠・孝懷三世、
 光祿大夫與卿同秩中二千石、著進賢兩梁冠、黑介幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉日三斛、太康二年、始給春賜絹五十匹、秋絹百匹、緜百斤、惠帝元康元年、始給菜田六頃、田騶六人、置主簿、功曹史、門亭長、門下書佐各一人、

 左右の光祿大夫には、金章紫綬を假す。光祿大夫の金章紫綬を加へられし者は、品秩は第二たり、祿賜・班位・冠幘・車服・佩玉、吏卒・羽林及び卒を置き、諸の賜給せらる所は皆な特進と同じくす。其の以て加官と爲する者には、唯だ章綬・祿賜・班位を假すのみにして、別に車服・吏卒を給せざるなり。又た卒して此の位を贈らるも、本より已に卿官を有する者には、復た重ねて吏卒を給せざるも、其の餘りは皆な給す。
 光祿大夫の銀章靑綬を假せられし者は、品秩は第三たり、位は金紫將軍の下、諸卿の上に在り。漢の時に置きし所には定員無く、多くは以て賵贈を拜假するの使と爲し、及び喪事を監護せしむ。魏氏已來、轉た復た優重なれば、復た以て使命の官と爲さず。其の諸公の吿老する者は、皆な家にて此の位を拜し、及び在朝の顯職にも、復た用ひて之を加ふ。晉の受命するに及びても、舊に仍りて改めず、復た以て優崇の制と爲すも、諸公遜位するも、復た之を加へず、或いは更に上公に拜し、或いは本封を以て公祿を食ましむ。其の諸卿・尹・中朝の大官の年老いて致仕せし者、及び內外の職に此れを加へられし者は、前後甚だ衆し。是れに由りて或いは因りて開府することを得、或いは進みて金章紫綬を加へられ、又た復た以て禮贈の位と爲す。泰始中には、唯だ太子の詹事楊珧に給事中・光祿大夫を加ふ。兵を加えるの制の、諸の供給せらる所は三品の將軍に依る。其の餘りは自づから舊制の如くし、武・惠・孝懷の三世を終ふ。
 光祿大夫は卿と同じく秩は中二千石たり、進賢兩梁の冠を著け、黑介幘をし、五時の朝服をし、水蒼の玉を佩び、食奉は日ごとに三斛たり。太康二年には、始めて春には賜絹五十匹を、秋には絹百匹、緜百斤を給す。惠帝の元康元年には、始めて菜田六頃、田騶六人を給し、主簿、功曹の史、門の亭長、門下の書佐各一人を置く。

 左右の光禄大夫には、金の印章と紫の組紐を貸し与えた。光禄大夫で金の印章と紫の組紐を加えられた者は、品秩は第二であり、禄賜(秩禄と褒美)・班位(列位)・冠幘・車服・佩玉〔を与え〕、吏卒(小役人)・羽林及び卒(下僕)を置き、諸々の下賜される物はみな特進と同じくした。そのなかで加官とした者には、ただ印章と組紐・禄賜・班位を貸し与えるのみであり、別に車服と吏卒は支給しなかったのである。また卒去してこの位を贈官されても、元から既に卿官を有している者には、もう重ねて吏卒を支給しなかったが、そのほかはみな支給した。
 光禄大夫で銀の印章と青の組紐を貸し与えられた者は、品秩は第三であり、位は金の印章と紫の組紐を貸し与えられた将軍の下、諸卿の上にあった。漢の時代に置いたときには定員はなく、多くは葬儀のある家に贈る車馬等の葬送の品物を代理で授ける使者となし、及び葬儀を監護させた。魏氏以来、いよいよ優重となったので、もう使命の官としなかった(4-1)。そのなかで諸公で老年を理由に辞任した者は、みな家にてこの位を拝命し、及び在朝の高官にも、また用いてこれを加えた。晋が受命するに及んでも、旧制に従って改めず、また優崇の制度としたが、諸公が遜位しても、もうこれを加えず、さらに上公に拝任したり、元からの封禄に加えて公禄を受けさせたりした。その諸卿・尹・朝廷の大官で年老いて辞任した者、及び内外の職にこれを加えられた者は、前後非常に多かった。これによって開府することができたり、昇進して金の印章と紫の組紐を加えられたりし、また再び礼を尽くして贈呈する位とした。泰始年間(265-274)には、ただ太子詹事楊珧に給事中・光禄大夫を加えた。兵を加える制度の、諸々の供給された物は三品の将軍に従った。そのほかは自づから旧制と同じくし、武帝・恵帝・孝懐帝の三世を終えた。
 光禄大夫は卿と同じく秩禄は中二千石であり、進賢両梁の冠をかぶり、黒い頭巾をつけ、五時朝服を着用し、水模様の青玉を装着し、食奉は日ごとに三斛であった。太康二年(281)には、初めて春には恩賜の絹五十匹を、秋には絹百匹、綿百斤を支給した。恵帝の元康元年(291)には、初めて菜田六頃、田騶六人を支給し、主簿、功曹の史、門の亭長、門下の書佐各々一人を置いた。

 (4-1)原文「不復以爲使命之官」。
 「使命之官」は、役職のある官。魏以来、光禄大夫は名誉職的な官となり、担当する職務を持たなかった。

 驃騎已下及諸大將軍不開府非持節都督者、品秩第二、其祿與特進同、置長史・司馬各一人、秩千石、主簿、功曹史、門下督、錄事、兵鎧士賊曹、營軍・刺姦・帳下都督、功曹書佐門吏、門下書吏各一人、其假節爲都督者、所置與四征鎭加大將軍不開府爲都督者同、
 四征鎭安平加大將軍不開府持節都督者、品秩第二、置參佐吏卒・幕府兵騎如常都督制、唯朝會・祿賜從二品將軍之例、然則持節・都督無定員、前漢遣使始有持節、光武建武初、征伐四方、始權時置督軍御史、事竟罷、建安中、魏武爲相、始遣大將軍督之、二十一年、征孫權還、夏侯惇督二十六軍是也、魏文帝黃初三年、始置都督諸州軍事、或領刺史、又上軍大將軍曹眞都督中外諸軍事、假黃鉞、則總統內外諸軍矣、魏明帝太和四年秋、宣帝征蜀、加號大都督、高貴鄕公正元二年、文帝都督中外諸軍、尋加大都督、及晉受禪、都督諸軍爲上、監諸軍次之、督諸軍爲下、使持節爲上、持節次之、假節爲下、使持節得殺二千石以下、持節殺無官位人、若軍事、得與使持節同、假節唯軍事得殺犯軍令者、江左以來、都督中外尤重、唯王導等權重者乃居之、
 三品將軍秩中二千石者、著武冠、平上黑幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉、春秋賜緜絹・菜田・田騶如光祿大夫・諸卿制、置長史・司馬各一人、秩千石、主簿・功曹・門下都督・錄事・兵鎧士賊曹、營軍・刺姦吏・帳下都督、功曹書佐門吏・門下書吏各一人、

 驃騎より已下及び諸の大將軍の開府せず持節都督に非ざる者は、品秩は第二たり、其の祿は特進と同じくす。長史・司馬各一人を置き、秩は千石たり。主簿、功曹の史、門下の督、錄事、兵鎧士賊の曹、營軍・刺姦・帳下の都督、功曹書佐の門吏、門下の書吏をは各一人なり。其の假節もて都督と爲りし者の、置く所は四征鎭の大將軍の開府して都督爲らざる者と同じくす。
 四征鎭安平の大將軍の開府せず持節都督たる者は、品秩は第二たり、參佐吏卒・幕府兵騎を置くことは常なる都督の制の如くするも、唯だ朝會・祿賜は二品の將軍の例に從ふ。然して則ち持節・都督は定員無く、前漢に使を遣はすに始めて節を持たしむる有り。光武の建武の初めに、四方を征伐せしとき、始めて權時に督軍御史を置き、事竟りて罷む。建安中に、魏武は相と爲り、始めて大將軍を遣して之を督せしむ。二十一年に、孫權を征して還りしとき、夏侯惇をして二十六軍を督せしむるは是れなり。魏の文帝の黃初三年には、始めて都督諸州軍事を置き、或いは刺史を領せしむ。又た上軍大將軍曹眞を都督中外諸軍事とし、黃鉞を假し、則ち內外の諸軍を總統せしむ。魏の明帝の太和四年の秋に、宣帝の蜀を征せしときには、號を加へられて大都督たり。高貴鄕公の正元二年には、文帝は都督中外諸軍たり、尋いで大都督を加へらる。晉の禪を受くるに及び、都督諸軍を上と爲し、監諸軍を之に次ぎ、督諸軍を下と爲し、使持節を上と爲し、持節を之に次ぎ、假節を下と爲す。使持節は二千石以下を殺すことを得、持節は官位無き人を殺し、若し軍事ならば、使持節と同じかるを得、假節は唯だ軍事に軍令を犯す者を殺すことを得。江左以來、都督中外は尤も重く、唯だ王導等の權重き者を乃ち之に居く。
 三品の將軍の秩の中二千石なる者は、武冠を著け、平上黑幘をし、五時の朝服をし、水蒼の玉を佩び、食奉と、春秋に緜絹・菜田・田騶を賜ふるは光祿大夫・諸卿の制の如くす。長史・司馬各一人を置き、秩は千石たり。主簿・功曹・門下の都督・錄事・兵鎧士賊の曹、營軍・刺姦の吏・帳下の都督、功曹書佐の門吏・門下の書吏をは各一人なり。

 驃騎より以下及び諸大将軍で開府せず持節都督ではない者は、品秩は第二であり、その秩禄は特進と同じくした。長史と司馬各々一人を置き、秩禄は千石であった。主簿、功曹の史、門下の督、録事、兵鎧士賊の曹(兵曹・鎧曹・士曹・賊曹)〔の掾〕、営軍・刺姦・帳下の都督、功曹書佐の門吏、門下の書吏は各々一人であった。そのなかで仮節として都督となった者の置いた人員は、四征鎮の大将軍の開府して都督ではない者と同じくした。
 四征鎮安平の大将軍で開府せず持節都督である者は、品秩は第二であり、僚属の吏卒(小役人)と軍営の兵騎を置くことは常なる都督の制度と同じくしたが、ただ朝見の儀と禄賜(秩禄と褒美)は二品の将軍の例に従った。持節・都督は定員なく、前漢で使者を派遣するときに初めて節を持たせた〔のが持節の始まりである〕。光武帝の建武(25-56)の初年に、四方を征伐したとき、初めて暫時に督軍御史を置き、事が終わると廃止した。建安年間(196-220)に、魏の武帝が宰相となると、初めて大将軍を派遣してこれ(軍)を督させた(5-1)。二十一年(216)に、孫権を征伐して帰還したとき、夏侯惇に二十六軍を督させたのはこれ(督軍)である。魏の文帝の黄初三年(222)には、初めて都督諸州軍事を置き、刺史を兼任させたりした。また上軍大将軍曹真を都督中外諸軍事とし、黄鉞を貸し与え、内外の諸軍を全て統率させた。魏の明帝の太和四年(230)の秋に、宣帝が蜀を征伐したときには、号を加えられて大都督となった。高貴郷公の正元二年(255)には、文帝は都督中外諸軍となり、まもなくして大都督を加えられた。晋が禅譲を受けるに及び、都督諸軍を上となし、監諸軍をこれに次ぎ、督諸軍を下となし、使持節を上となし、持節をこれに次ぎ、仮節を下とした。使持節は二千石以下を殺すことができ、持節は官位なき人を殺せ、もし軍事であれば、使持節と同じことができ、仮節はただ軍事の際に軍令を犯す者を殺すことができた。東晋以来、都督中外は最も重く、ただ王導等の権力の重い者をこれに据えた。
 三品の将軍で秩禄が中二千石である者は、武冠をかぶり、頂を平坦にした黒い頭巾をつけ、五時朝服を着用し、水模様の青玉を装着し、食奉と、春秋に綿絹・菜田・田騶を下賜するのは光禄大夫と諸卿の制度と同じくした。長史と司馬各々一人を置き、秩禄は千石であった。主簿・功曹・門下の都督・録事・兵鎧士賊の曹、営軍・刺姦の吏・帳下の都督、功曹書佐の門吏・門下の書吏は各々一人であった。

 (5-1)原文「魏武爲相、始遣大將軍督之」。
 魏の武帝が丞相であった時に大将軍はいないので、ここでは上位将軍を指す。

 錄尙書、案漢武時、左右曹諸吏分平尙書奏事、知樞要者始領尙書事、張安世以車騎將軍、霍光以大將軍、王鳳以大司馬、師丹以左將軍竝領尙書事、後漢章帝以太傅趙憙・太尉牟融竝錄尙書事、尙書有錄名、蓋自憙・融始、亦西京領尙書之任、猶唐虞大麓之職也、和帝時、太尉鄧彪爲太傅・錄尙書事、位上公、在三公上、漢制遂以爲常、每少帝立則置太傅・錄尙書事、猶古冢宰總己之義、薨輒罷之、自魏晉以後、亦公卿權重者爲之、
 尙書令、秩千石、假銅印墨綬、冠進賢兩梁冠、納言幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉月五十斛、受拜則策命之、以在端右故也、太康二年、始給賜絹、春三十匹、秋七十匹、緜七十斤、元康元年、始給菜田六頃、田騶六人、立夏後不及田者、食奉一年、始賈充爲尙書令、以目疾表置省事吏四人、省事蓋自此始、
 僕射、服秩・印綬與令同、案漢本置一人、至漢獻帝建安四年、以執金吾榮郃爲尙書左僕射、僕射分置左右、蓋自此始、經魏至晉、迄於江左、省置無恆、置二、則爲左右僕射、或不兩置、但曰尙書僕射、令闕、則左爲省主、若左右竝闕、則置尙書僕射以主左事、

 錄尙書は、案ずるに漢武の時に、左右曹の諸吏に分れて尙書の奏事を平じ、樞要を知る者をして始めて尙書の事を領せしむ。張安世は車騎將軍を以て、霍光は大將軍を以て、王鳳は大司馬を以て、師丹は左將軍を以て竝びに尙書の事を領す。後漢の章帝は太傅趙憙・太尉牟融を以て竝びに錄尙書事とす。尙書に錄の名有るは、蓋し憙・融自り始まるも、亦た西京の尙書を領するの任は、猶ほ唐虞の大麓の職のごとしなり。和帝の時には、太尉鄧彪を太傅・錄尙書事と爲し、上公に位し、三公の上に在らしむ。漢の制には遂に以て常と爲し、少帝立つる每に則ち太傅・錄尙書事を置き、猶ほ古の冢宰の己を總ぶるの義のごとくするも、薨ずれば輒ち之を罷む。魏自り晉以後も、亦た公卿の權重き者を之と爲す。
 尙書令は、秩は千石たり、銅印墨綬を假し、進賢兩梁の冠を冠し、納言幘をし、五時の朝服をし、水蒼の玉を佩び、食奉は月ごとに五十斛たり。受拜には則ち策もて之を命ずるは、以て端右に在らしむる故なり。太康二年には、始めて絹を、春には三十匹、秋には七十匹、緜七十斤を給賜す。元康元年には、始めて菜田六頃、田騶六人、立夏の後に田するに及ばざる者には、食奉一年を給す。始めに賈充の尙書令爲りしとき、目の疾を以て表して省事の吏四人を置けば、省事は蓋し此れ自り始まる。
 僕射は、服秩・印綬は令と同じくす。案ずるに漢に本と一人を置くも、漢の獻帝の建安四年に至り、執金吾榮郃を以て尙書左僕射と爲せば、僕射の左右に分置せるは、蓋し此れ自り始まる。魏を經て晉に至り、江左に迄びても、省置に恆無く、二を置かば、則ち左右の僕射と爲し、或いは兩置せずば、但だ尙書僕射と曰ふ。令闕かば、則ち左を省の主と爲し、若し左右竝びに闕かば、則ち尙書僕射を置きて以て左の事を主らしむ。

 録尚書は、思うに漢の武帝の時代に、左右曹の諸吏に分担して尚書の奏事を統理させ、政治の中枢を知る者に初めて尚書の職務を兼任させたのであろう。張安世は車騎将軍として、霍光は大将軍として、王鳳は大司馬として、師丹は左将軍としてみな尚書の職務を兼任した。後漢の章帝は太傅趙憙と太尉牟融をともに録尚書事とした。尚書に録の名があるのは、おそらく趙憙と牟融より始まったのであろうが、また西漢の尚書を兼任する任務は、ちょうど唐虞(堯舜)の大麓の職のようであった。和帝の時代には、太尉鄧彪を太傅・録尚書事となし、上公に位し、三公の上に据えた。漢の制度ではとうとう常職となし、年少の皇帝が即位するたびに太傅・録尚書事を置き、ちょうど古代の宰相が〔百官〕各々の職務を総領する義のようにしたが(『論語』憲問編)、薨去すればこれを廃止した。魏より晋以後も、同じく公卿で権力の重い者をこれとした。
 尚書令は、秩禄は千石であり、銅の印章と黒の組紐を貸し与え、進賢兩梁の冠をかぶり、納言の頭巾をつけ、五時朝服を着用し、水模様の青玉を装着し、食奉は月ごとに五十斛であった。受拝には策書(天子直々の任命書)でこれを任命したのは、端右(上位)に据えた理由である。太康二年(281)には、初めて絹を、春には三十匹、秋には七十匹、綿七十斤を下賜した。元康元年(291)には、初めて菜田六頃、田騶六人、立夏の後に狩りをしない者には、食奉一年を支給した。当初、賈充が尚書令であったとき、目の疾病を理由に上表して省事の吏四人を置いたので、省事はおそらくこの時より始まったのであろう。
 僕射は、服装の品級と印綬は令と同じくした。思うに漢はもともと一人を置いたが、漢の献帝の建安四年(199)に至り、栄郃を尚書左僕射としたので(6-1)、僕射を左右に分置したのは、おそらくこの時より始まったのであろう。魏をへて晋に至り、東晋に及んでも、省かれたり置かれたりと変遷を続け、二つ置けば、左右の僕射となし、両方とも置かなければ、ただ尚書僕射といった。令が欠員であれば、左を省の主となし、もし左右ともに欠員であれば、尚書僕射を置いて左の職務を主管させた。

 (6-1)原文「以執金吾榮郃爲尙書左僕射」。
 斠注の当該箇所に、「廿二史考異二十曰、按宋書百官志、以榮郃爲尙書左僕射、衞臻爲右僕射、此志脫一句、案廣韻十四淸曰、營又姓、風俗通云、周成王卿士營伯之後、漢有京兆尹營郃、陸法言、在隋時必有所據、是榮爲營之誤也、又案續漢志三注引獻帝起居注曰、邵卒官、贈金吾、是邵以左僕射、贈執金吾、不得云以執金吾榮邵爲左僕射也」とある。
 ここでは、「執金吾」の三字を省いて訳す。

 列曹尙書、案尙書本漢承秦置、及武帝遊宴後庭、始用宦者主中書、以司馬遷爲之、中閒遂罷其官、以爲中書之職、至成帝建始四年、罷中書宦者、又置尙書五人、一人爲僕射、而四人分爲四曹、通掌圖書・祕記・章奏之事、各有其任、其一曰常侍曹、主丞相・御史・公卿事、其二曰二千石曹、主刺史・郡國事、其三曰民曹、主吏民・上書事、其四曰主客曹、主外國夷狄事、後成帝又置三公曹、主斷獄、是爲五曹、後漢光武以三公曹主歲盡考課諸州郡事、改常侍曹爲吏部曹、主選擧・祠祀事、民曹主繕修・功作・鹽池・園苑事、客曹主護駕・羌胡・朝賀事、二千石曹主辭訟事、中都官曹主水火・盜賊事、合爲六曹、幷令僕二人、謂之八座、尙書雖有曹名、不以爲號、靈帝以侍中梁鵠爲選部尙書、於此始見曹名、及魏、改選部爲吏部、主選部事、又有左民・客曹・五兵・度支、凡五曹尙書・二僕射・一令爲八座、及晉、置吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支六曹、而無五兵、咸寧二年、省駕部尙書、四年、省一僕射、又置駕部尙書、太康中、有吏部・殿中及五兵・田曹・度支・左民爲六曹尙書、又無駕部・三公・客曹、惠帝世又有右民尙書、止於六曹、不知此時省何曹也、及渡江、有吏部・祠部・五兵・左民・度支五尙書、祠部尙書常與右僕射通職、不恆置、以右僕射攝之、若右僕射闕、則以祠部尙書攝知右事、
 左右丞、自漢武帝建始四年置尙書、而便置丞四人、及光武始減其二、唯置左右丞、左右丞蓋自此始也、自此至晉不改、晉左丞主臺內禁令、宗廟祠祀、朝儀禮制、選用署吏、急假、右丞掌臺內庫藏・廬舍、凡諸器用之物、及廩振人・租布、刑獄・兵器、督錄遠道文書・章表・奏事、八座郞初拜、皆沿漢舊制、竝集都座交禮、遷職又解交焉、

 列曹の尙書は、案ずるに尙書は本と漢の秦を承ぎて置き、武帝の後庭に遊宴せしときに及び、始めて宦者を用ひて中書を主らしめ、司馬遷を以て之と爲すも、中閒には遂に其の官を罷め、以て中書の職と爲す。成帝の建始四年に至り、中書の宦者を罷め、又た尙書五人を置く。一人を僕射と爲し、四人は分れて四曹と爲り、通じて圖書・祕記・章奏の事を掌り、各其の任有り。其の一を常侍曹と曰ひ、丞相・御史・公卿の事を主り、其の二を二千石曹と曰ひ、刺史・郡國の事を主り、其の三を民曹と曰ひ、吏民・上書の事を主り、其の四を主客曹と曰ひ、外國夷狄の事を主る。後に成帝は又た三公曹を置き、斷獄を主らしめ、是れを五曹と爲す。後漢の光武は三公曹を以て歲盡くに諸の州郡の事を考課するを主らしめ、常侍曹を改めて吏部曹と爲し、選擧・祠祀の事を主らしめ、民曹には繕修・功作・鹽池・園苑の事を主らしめ、客曹には護駕・羌胡・朝賀の事を主らしめ、二千石曹には辭訟の事を主らしめ、中都官曹には水火・盜賊の事を主らしめ、合はせて六曹と爲す。令僕二人を幷せ、之を八座と謂ふ。尙書は曹名を有すると雖も、以て號と爲さず。靈帝は侍中梁鵠を以て選部尙書と爲せば、此こに於いて始めて曹名見ゆ。魏に及び、選部を改めて吏部と爲し、選部の事を主らしめ、又た左民・客曹・五兵・度支有り、凡せて五曹尙書・二僕射・一令を八座と爲す。晉に及び、吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹を置き、五兵無し。咸寧二年には、駕部尙書を省く。四年には、一僕射を省き、又た駕部尙書を置く。太康中には、吏部・殿中及び五兵・田曹・度支・左民有りて六曹尙書と爲し、又た駕部・三公・客曹無し。惠帝の世には又た右民尙書有るも、六曹に止まれば、此の時に何れの曹を省きしかを知らざるなり。渡江に及び、吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尙書有り。祠部尙書は常に右僕射と職を通ずれば、恆には置かず、右僕射を以て之を攝ねしめ、若し右僕射闕かば、則ち祠部尙書を以て右の事を攝知せしむ。
 左右の丞は、漢の武帝の建始四年に、尙書を置きて自り、便ち丞四人を置く。光武に及びて始めて其の二を減らし、唯だ左右の丞を置けば、左右の丞は蓋し此れ自り始まるなり。此れ自り晉に至りても改めず。晉には左丞は臺內の禁令、宗廟の祠祀、朝儀の禮制、選用して吏を署すること、急假を主り、右丞は臺內の庫藏・廬舍、凡せて諸の器用の物、及び廩振人・租布、刑獄・兵器、遠道の文書・章表・奏事を督錄するを掌る。八座の郞の初めて拜せしときには、皆な漢の舊制に沿ひ、竝びに都の座に集ひて禮を交へ、職を遷りて又た交はりを解く。

 列曹の尚書は、思うに尚書はもともと漢が秦を継承して置き、武帝が後宮で宴会したときに及び、初めて宦官を任用して中書を主管させ、司馬遷をこれ(中書令)としたが、次の世ではやがてその官(尚書)を廃止し、中書の職としたのであろう。成帝の建始四年(前29)に至り、中書の宦官を廃止し、また尚書五人を置いた。一人を僕射となし、四人は分担して四曹となり、あまねく図書・宮中の文書・上奏文の事を担当し、各々その任務があった。その一を常侍曹といい、丞相・御史・公卿の事を主管し、その二を二千石曹といい、刺史と郡国の事を主管し、その三を民曹といい、吏民と上書の事を主管し、その四を主客曹といい、外国の夷狄の事を主管した。後に成帝はまた三公曹を置き、裁判を主管させ、これを五曹とした。後漢の光武帝は三公曹に、年末に諸州郡の治績考課を担当させ、常侍曹を改めて吏部曹となし、選挙と祠祀の事を主管させ、民曹には修繕・功作・塩池・園苑の事を主管させ、客曹には天子の馬車の護衛・羌胡・朝賀(臣下が宮中に行って天子にお祝いを述べること)の事を主管させ、二千石曹には訴訟の事を主管させ、中都官曹には水火と盗賊〔対策〕の事を主管させ、合わせて六曹とした。令僕(尚書令と尚書僕射)二人を併せ、これを八座といった。尚書は曹名を有したが、号としなかった。霊帝は侍中梁鵠を選部尚書としたので、ここに初めて曹名が見える。魏に及び、選部を改めて吏部となし、選部の職務を主管させ、また左民・客曹・五兵・度支があり、合わせて五曹尚書・二僕射・一令を八座とした。晋に及び、吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹を置き、五兵がなかった。咸寧二年(276)には、駕部尚書を省いた。四年(278)には、一僕射を省き、また駕部尚書を置いた。太康年間(280-289)には、吏部・殿中及び五兵・田曹・度支・左民があって六曹尚書となし、また駕部・三公・客曹がなかった。恵帝の世(290-306)にはまた右民尚書があったが、尚書は六曹にとどまったので、この時にいづれの曹を省いたのかは判らないのである(7-1)。東晋に及び、吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尚書があった。祠部尚書は常に右僕射と職を通じたので、常には置かず、右僕射にこれを兼任させ、もし右僕射が欠員であれば、祠部尚書に右の職務を代行させた。
 左右の丞は、漢の成帝の建始四年(前29)に尚書を置いてより(7-2)、丞四人を置いた。光武帝に及んで初めてその二人を減らし、ただ左右の丞を置いたので、左右の丞はおそらくこの時より始まったのである。これより晋に至っても改めなかった。晋では左丞は台内の禁令、宗廟の祠祀、朝廷で行われる儀式の礼制、選用して官吏を部署づけにすること、休暇の支給を主管し、右丞は台内の庫蔵と仮小屋、合わせて諸々の農具等の物、及び廩振(官府を開いて人を救済すること)と租布、刑罰牢獄と兵器、遠道の文書・上奏文・奏事の管理記録を担当した。八座の郎が初めて拝命したときには、みな漢の旧制に従い、みな都の会合の場に集まって礼を取り交わし、職を移っても取り交わした礼を解くことはなかった(7-3)

 (7-1)原文「惠帝世又有右民尙書、止於六曹、不知此時省何曹也」。
 斠注の当該箇所に、「晉書校文二曰、當從宋志、重尙書字」とある。
 ここでは、「止於六曹」を「尙書止於六曹」として訳す。

 (7-2)原文「自漢武帝建始四年置尙書」。
 「建始」(32BC-29BC)は、武帝(在位141BC-87BC)ではなく、成帝(在位33BC-7BC)の元号である。
 ここでは、「武帝」を「帝」として訳す。

 (7-3)原文「遷職又解交焉」。
 『宋書』巻三十九「百官志上」に、「八坐丞郞初拜、竝集都坐、交禮、遷、又解交、漢舊制也、今唯八坐解交、丞郞不復解交也」とあり、
 『通典』巻第二十二「職官四」尚書省幷総論尚書の項に、「八座丞郞初拜、竝集都省交禮、遷職又解交、本漢制也、至於晉・宋、唯八座解交、丞郞不復解交也」とある。
 ここでは、「遷職不復解交焉」として訳す。

 尙書郞、西漢舊置四人、以分掌尙書、其一人主匈奴單于營部、一人主羌夷・吏民、一人主戶口・墾田、一人主財帛・委輸、及光武分尙書爲六曹之後、合置三十四人、秩四百石、幷左右丞爲三十六人、郞主作文書起草、更直五日於建禮門內、尙書郞初從三署詣臺試守尙書郞中、歲滿稱尙書郞、三年稱侍郞、選有吏能者爲之、至魏、尙書郞有殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・都兵・別兵・考功・定課、凡二十三郞、靑龍二年、尙書陳矯奏置都官・騎兵、合凡二十五郞、每一郞缺、白試諸孝廉能結文案者五人、謹封奏其姓名以補之、及晉受命、武帝罷農部・定課、置直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左右主客・駕部・車部・庫部・左右中兵・左右外兵・別兵・都兵・騎兵・左右士・北主客・南主客、爲三十四曹郞、後又置運曹、凡三十五曹、置郞二十三人、更相統攝、及江左、無直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左右士・運曹十曹郞、康穆以後、又無虞曹・二千石二郞、但有殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵十八曹郞、後又省主客・起部・水部、餘十五曹云、
 尙書郞は、西漢は舊は四人を置き、以て分れて尙書を掌らしむ。其の一人は匈奴單于の營部を主り、一人は羌夷・吏民を主り、一人は戶口・墾田を主り、一人は財帛・委輸を主る。光武の尙書を分かちて六曹と爲すの後に及び、合はせて三十四人を置き、秩は四百石たり、左右の丞を幷せて三十六人と爲す。郞は文書を作りて起草するを主り、更直すること建禮門の內に五日たり。尙書郞は初めに三署從り臺に詣るや試られて尙書郞中を守し、歲滿ちて尙書郞と稱し、三年にして侍郞と稱し、吏の能有る者を選びて之と爲す。魏に至り、尙書郞に殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・都兵・別兵・考功・定課有り、凡せて二十三郞なり。靑龍二年には、尙書陳矯奏して都官・騎兵を置き、合はせて凡て二十五郞なり。一郞缺く每に、白して諸の孝廉の能く文案を結する者五人を試み、謹封して其の姓名を奏して以て之に補す。晉の受命するに及び、武帝は農部・定課を罷め、直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左右の主客・駕部・車部・庫部・左右の中兵・左右の外兵・別兵・都兵・騎兵・左右の士・北主客・南主客を置き、三十四曹郞と爲す。後に又た運曹を置き、凡せて三十五曹、郞二十三人を置き、更ごも相い統攝せしむ。江左に及び、直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左右の士・運曹の十曹郞無し。康穆以後、又た虞曹・二千石の二郞無く、但だ殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵の十八曹郞有り。後に又た主客・起部・水部を省き、十五曹を餘すと云ふ。

 尚書郎は、西漢では以前は四人を置き、分担して尚書を担当させた。その一人は匈奴単于の営部を主管し、一人は羌夷と吏民を主管し、一人は戸口と墾田を主管し、一人は貨財布帛と車による物資の輸送を主管した。光武帝が尚書を分割して六曹とした後に及び、合わせて三十四人を置き、秩禄は四百石であり、左右の丞を併せて三十六人とした。郎は文書の起草を主管し、交代で宿直すること建礼門の内に五日であった。尚書郎は初めに三署(五官署と左右の署)より台(尚書台)にやって来ると試用されて尚書郎中を代行し(8-1)、一年経つと尚書郎と称し、三年にして侍郎と称し、吏で有能な者を選出してこれとした。魏に至り、尚書郎に殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・都兵・別兵・考功・定課があり、合わせて二十三郎であった。青龍二年(234)には、尚書令陳矯が奏上して都官と騎兵を置き(8-2)、合わせてすべて二十五郎であった。一郎が欠員となるたびに、〔帝に〕言上して孝廉に挙げられた諸々の者のなかで草案の作成に長けている者五人を試用したのち、謹んで封緘してその姓名を奏上してこれに補任した。晋が受命するに及び、武帝は農部と定課を廃止し、直事・殿中・祠部・儀曹・吏部・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・二千石・左民・右民・虞曹・屯田・起部・水部・左右の主客・駕部・車部・庫部・左右の中兵・左右の外兵・別兵・都兵・騎兵・左右の士・北主客・南主客を置き、三十四曹郎とした。後にまた運曹を置き、合わせて三十五曹、郎二十三人を置き、かわるがわる統轄させた。東晋に及び、直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左右の士・運曹の十曹郎がなかった。康穆(康帝と穆帝)以後、また虞曹と二千石の二郎がなく、ただ殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵の十八曹郎があった。後にまた主客・起部・水部を省き、十五曹を残したという。

 (8-1)原文「尙書郞初從三署詣臺試守尙書郞中」。
 『後漢書』帝紀第四「和帝紀」に、「三署謂五官署也、左右署也、各置中郞將以司之、郡國擧孝廉以補三署郞」とある。

 (8-2)原文「尙書陳矯奏置都官・騎兵」。
 斠注の当該箇所に、「案尙書下脫令字、通典二十二卽作尙書令」とある。
 ここでは、「尙書」を「尙書」として訳す。

 侍中、案黃帝時風后爲侍中、於周爲常伯之任、秦取古名置侍中、漢因之、秦漢俱無定員、以功高者一人爲僕射、魏晉以來置四人、別加官者則非數、掌儐贊威儀、大駕出則次直侍中護駕、正直侍中負璽陪乘、不帶劍、餘皆騎從、御登殿、與散騎常侍對扶、侍中居左、常侍居右、備切問近對、拾遺補闕、及江左哀帝興寧四年、桓溫奏省二人、後復舊、
 給事黃門侍郞、秦官也、漢已後竝因之、與侍中俱管門下衆事、無員、及晉置員四人、
 散騎常侍、本秦官也、秦置散騎、又置中常侍、散騎騎從乘輿車後、中常侍得入禁中、皆無員、亦以爲加官、漢東京初、省散騎、而中常侍用宦者、魏文帝黃初初、置散騎、合之於中常侍、同掌規諫、不典事、貂璫插右、騎而散從、至晉不改、及元康中、惠帝始以宦者董猛爲中常侍、後遂止、常爲顯職、
 給事中、秦官也、所加或大夫・博士・議郞、掌顧問應對、位次中常侍、漢因之、及漢東京省、魏世復置、至晉不改、在散騎常侍下、給事黃門侍郞上、無員、
 通直散騎常侍、案魏末散騎常侍又有在員外者、泰始十年、武帝使二人與散騎常侍通員直、故謂之通直散騎常侍、江左置四人、
 員外散騎常侍、魏末置、無員、
 散騎侍郞四人、魏初與散騎常侍同置、自魏至晉、散騎常侍・侍郞與侍中・黃門侍郞共平尙書奏事、江左乃罷、
 通直散騎侍郞四人、初、武帝置員外散騎侍郞、及太興元年、元帝使二人與散騎侍郞通員直、故謂之通直散騎侍郞、後增爲四人、
 員外散騎侍郞、武帝置、無員、
 奉朝請、本不爲官、無員、漢東京罷三公・外戚・宗室・諸侯多奉朝請、奉朝請者、奉朝會請召而已、武帝亦以宗室・外戚爲奉車・駙馬・騎三都尉而奉朝請焉、元帝爲晉王、以參軍爲奉車都尉、掾屬爲駙馬都尉、行參軍・舍人爲騎都尉、皆奉朝請、後罷奉車・騎二都尉、唯留駙馬都尉奉朝請、諸尙公主者劉惔・桓溫皆爲之、

 侍中は、案ずるに黃帝の時に風后を侍中と爲し、周に於いては常伯の任と爲り、秦には古の名を取りて侍中を置き、漢は之に因る。秦漢には俱に定員無く、功高き者一人を以て僕射と爲す。魏晉以來四人を置き、別に加官とする者は則ち數に非ず。威儀を儐贊するを掌り、大駕出づれば則ち次に直る侍中は護駕し、正に直る侍中は璽を負ひて陪乘し、劍を帶びず、餘りは皆な騎從す。御登殿には、散騎常侍と與に對ひて扶けしめ、侍中を左に居き、常侍を右に居く。切問近對に備へ、拾遺補闕す。江左に及びて哀帝の興寧四年には、桓溫は奏して二人を省くも、後に舊に復す。
 給事黃門侍郞は、秦の官なり。漢已後も竝びに之に因り、侍中と俱に門下の衆事を管り、員無し。晉に及びて員四人を置く。
 散騎常侍は、本と秦の官なり。秦は散騎を置き、又た中常侍を置く。散騎は乘輿車の後に騎從し、中常侍は禁中に入るを得、皆な員無く、亦た以て加官と爲す。漢の東京には初めて、散騎を省き、中常侍に宦者を用ふ。魏の文帝の黃初の初めには、散騎を置き、之を中常侍に合せ、同じく規諫を掌るも、事を典らず、貂璫を右に插し、騎して散從せしめ、晉に至りても改めず。元康中に及び、惠帝は始めて宦者の董猛を以て中常侍と爲すも、後に遂に止む。常に顯職爲り。
 給事中は、秦の官なり。加ふる所は或いは大夫・博士・議郞にし、顧問應對を掌り、位は中常侍に次がしむ。漢は之に因り、漢の東京に及びて省く。魏の世には復た置き、晉に至りても改めず。散騎常侍の下、給事黃門侍郞の上に在り、員無し。
 通直散騎常侍は、案ずるに魏の末に散騎常侍には又た員外に在る者有り。泰始十年に、武帝は二人をして散騎常侍と員を通ひて直らしむれば、故に之を通直散騎常侍と謂ふ。江左には四人を置く。
 員外散騎常侍は、魏の末に置き、員無し。
 散騎侍郞は四人。魏の初めに散騎常侍と同に置く。魏自り晉に至るまで、散騎常侍・侍郞は侍中・黃門侍郞と共に尙書の奏事を平す。江左には乃ち罷む。
 通直散騎侍郞は四人。初めに、武帝は員外散騎侍郞を置く。太興元年に及び、元帝は二人をして散騎侍郞と員を通ひて直らしむれば、故に之を通直散騎侍郞と謂ひ、後に增やして四人と爲す。
 員外散騎侍郞は、武帝置き、員無し。
 奉朝請は、本と官と爲さず、員無し。漢の東京に罷まれたる三公・外戚・宗室・諸侯は奉朝請たり。奉朝請とは、朝會に請召を奉るのみ。武帝も亦た宗室・外戚を以て奉車・駙馬・騎の三都尉と爲して奉朝請たり。元帝の晉王爲りしときには、參軍を以て奉車都尉と爲し、掾屬を駙馬都尉と爲し、行參軍・舍人を騎都尉と爲し、皆な奉朝請たり。後に奉車・騎の二都尉を罷め、唯だ駙馬都尉を留めて奉朝請とす。諸の公主を尙りし者、劉惔・桓溫は皆な之と爲れり。

 侍中は、思うに黄帝の時代に風后を侍中となし、周では常伯の任務となり、秦では古き時代の名を採用して侍中を置き、漢はこれを踏襲したのであろう。秦漢ではともに定員なく、功績の高い者一人を僕射とした。魏晋以来四人を置き、別に加官とした者は人数に含めなかった。従者の輔導を担当し、天子が外出すると次位の侍中は天子の馬車を護衛し、正位の侍中は玉璽を背負って同乗し、剣を腰に差さず、ほかの者はみな騎乗して付き従った。御登殿の際には、散騎常侍とともに帝と向き合って左右に並んで歩かせ(9-1)、侍中を左に位置させ、常侍を右に位置させた。下問の応対に備え、君主の言行を諫めた。東晋に及んで哀帝の興寧四年(366?)には(9-2)、桓温は奏上して二人を省いたが、後に旧制に戻した。
 給事黄門侍郎は、秦の官である。漢以後もみなこれを踏襲し、侍中とともに門下の多くの職務を管轄し、定員はなかった。晋に及んで定員四人を置いた。
 散騎常侍は、もともと秦の官である。秦は散騎を置き、また中常侍を置いた。散騎は天子の車の後に騎乗して付き従い、中常侍は禁中に入ることができ、ともに定員なく、同じく加官とした。東漢では初めて、散騎を省き、中常侍に宦官を任用した。魏の文帝の黄初(220-226)の初年には、散騎を置き、これを中常侍に合せ〔て散騎常侍となし〕(9-3)、同じく諫言を担当したが、政務は担当せず、貂璫の冠をかぶり(9-4)、騎乗して付き従わせ、晋に至っても改めなかった。元康年間(291-299)に及び、恵帝は初めて宦官の董猛を中常侍としたが、後にやがて廃止した。常に高官であった。
 給事中は、秦の官である。大夫・博士・議郎に加えたりし、顧問応対を担当し、位は中常侍に次ぐものとした。漢はこれを踏襲し、東漢に及んで省いた。魏の世には再び置き、晋に至っても改めなかった。散騎常侍の下、給事黄門侍郎の上にあり、定員はなかった。
 通直散騎常侍は、思うに魏の末年に散騎常侍にはまた員外(定員外)にある者がいたのであろう。泰始十年(274)に、武帝は〔員外のうちの〕二人に散騎常侍と人員を通交して宿直させたので、これを通直散騎常侍といった。東晋には四人を置いた。
 員外散騎常侍は、魏の末年に置き、定員はなかった。
 散騎侍郎は四人。魏の初年に散騎常侍とともに置いた。魏より晋に至るまで、散騎常侍と侍郎は、侍中や黄門侍郎と共に尚書の奏事を統理した。東晋では廃止した。
 通直散騎侍郎は四人。初めに、武帝は員外散騎侍郎を置いた。太興元年(318)に及び、元帝は〔員外のうちの〕二人に散騎侍郎と人員を通交して宿直させたので、これを通直散騎侍郎といい、後に増やして四人とした。
 員外散騎侍郎は、武帝が置き、定員はなかった。
 奉朝請は、もともと官とせず、定員はなかった。東漢で罷免された三公・外戚・宗室・諸侯は奉朝請となった。奉朝請とは、朝見の儀にて招聘を受け賜るだけであった。武帝も同じく宗室と外戚を奉車・駙馬・騎の三都尉となして奉朝請とした。元帝が晋王であったときには、参軍を奉車都尉となし、掾属を駙馬都尉となし、行参軍と舎人を騎都尉となし、みな奉朝請とした。後に奉車都尉と騎都尉の二都尉を廃止し、ただ駙馬都尉を残して奉朝請とした。公主(内親王)を娶った諸々の者、〔例えば〕劉惔や桓温はみなこれとなった。

 (9-1)原文「與散騎常侍對扶」。
 斠注の当該箇所に、「書鈔五十八引晉官品令、對扶作對狀、初學記十二引齊職儀作對挾帝」とある。
 ここでは、「對扶」を「對挟帝」として訳す。

 (9-2)原文「哀帝興寧四年」。
 「興寧」(363-365)は、三年までで、四年は存在しない。

 (9-3)原文「魏文帝黃初初、置散騎、合之於中常侍」。
 『漢書』巻十九上「百官公卿表第七上」に、「侍中・左右曹・諸吏・散騎・中常侍、皆加官」とあり、顔師古注の当該箇所には、「晉灼曰、漢儀注諸吏・給事中日上朝謁、平尙書奏事、分爲左右曹、魏文帝合散騎・中常侍爲散騎常侍也」とある。

 (9-4)原文「貂璫插右」。
 「貂璫」は、「漢代、役人の冠の装飾。黄金の耳玉とテンの尾の飾り」(『全訳漢辞海』)

 中書監及令、案漢武帝遊宴後庭、始使宦者典事尙書、謂之中書謁者、置令・僕射、成帝改中書謁者令曰中謁者令、罷僕射、漢東京省中謁者令、而有中官謁者令、非其職也、魏武帝爲魏王、置祕書令、典尙書奏事、文帝黃初初改爲中書、置監・令、以祕書左丞劉放爲中書監、右丞孫資爲中書令、監・令蓋自此始也、及晉因之、竝置員一人、
 中書侍郞、魏黃初初、中書旣置監・令、又置通事郞、次黃門郞、黃門郞已署、事過通事乃署名、已署、奏以入、爲帝省讀、書可、及晉改曰中書侍郞、員四人、中書侍郞蓋此始也、及江左初、改中書侍郞曰通事郞、尋復爲中書侍郞、
 中書舍人、案晉初初置舍人・通事各一人、江左合舍人・通事謂之通事舍人、掌呈奏案章、後省、而以中書侍郞一人直西省、又掌詔命、
 祕書監、案漢桓帝延熹二年、置祕書監、後省、魏武爲魏王、置祕書令・丞、及文帝黃初初、置中書令、典尙書奏事、而祕書改令爲監、後以何禎爲祕書丞、而祕書先自有丞、乃以禎爲祕書右丞、及晉受命、武帝以祕書幷中書省、其祕書著作之局不廢、惠帝永平中、復置祕書監、其屬官有丞、有郞、幷統著作省、
 著作郞、周左史之任也、漢東京圖籍在東觀、故使名儒著作東觀、有其名、尙未有官、魏明帝太和中、詔置著作郞、於此始有其官、隸中書省、及晉受命、武帝以繆徵爲中書著作郞、元康二年、詔曰、著作舊屬中書、而祕書旣典文籍、今改中書著作爲祕書著作、於是改隸祕書省、後別自置省、而猶隸祕書、著作郞一人、謂之大著作郞、專掌史任、又置佐著作郞八人、著作郞始到職、必撰名臣傳一人、

 中書監及び令は、案ずるに漢の武帝の後庭に遊宴せしときに、始めて宦者をして尙書を典事せしめ、之を中書謁者と謂ひ、令・僕射を置く。成帝は中書謁者令を改めて中謁者令と曰ひ、僕射を罷む。漢の東京には中謁者令を省くも、中官謁者令有れば、其の職に非ざるなり。魏の武帝の魏王爲りしときには、祕書令を置き、尙書の奏事を典らしむ。文帝の黃初には初めて改めて中書と爲し、監・令を置き、祕書左丞劉放を以て中書監と爲し、右丞の孫資を中書令と爲せば、監・令は蓋し此れ自り始まる。晉に及びても之に因り、竝びに員一人を置く。
 中書侍郞は、魏の黃初の初めには、中書に旣に監・令を置き、又た通事郞を置き、黃門郞に次がしむ。黃門郞已に署し、事過ぎて通事乃ち署名す。已に署し、奏して以て入り、帝の爲に省讀し、可を書す。晉に及びて改めて中書侍郞と曰ひ、員は四人なり。中書侍郞は蓋し此こに始まるなり。江左の初めに及び、中書侍郞を改めて通事郞と曰ひ、尋いで復た中書侍郞と爲す。
 中書舍人は、案ずるに晉の初めに初めて舍人・通事各一人を置き、江左には舍人・通事を合はせて之を通事舍人と謂ひ、奏案章を呈するを掌る。後に省き、中書侍郞一人を以て西省に直り、又た詔命を掌らしむ。
 祕書監は、案ずるに漢の桓帝の延熹二年に、祕書監を置き、後に省く。魏武の魏王爲りしときには、祕書令・丞を置く。文帝の黃初の初めに及び、中書令を置き、尙書の奏事を典らしむれば、祕書は改めて令を監と爲す。後に何禎を以て祕書丞と爲すも、祕書には先に自づから丞有れば、乃ち禎を以て祕書右丞と爲す。晉の受命するに及び、武帝は祕書を以て中書省に幷せるも、其の祕書著作の局は廢せず。惠帝の永平中には、復た祕書監を置き、其の屬官には丞有り、郞有り、幷びに著作省を統ぶ。
 著作郞は、周の左史の任なり。漢の東京には圖籍は東觀に在り、故に名儒をして東觀に著作せしむれば、其の名在るも、尙ほ未だ官を有さず。魏の明帝の太和中には、詔して著作郞を置けば、此こに於いて始めて其の官有り、中書省に隸ふ。晉の受命するに及び、武帝は繆徵を以て中書著作郞と爲す。元康二年には、詔して曰く、「著作は舊は中書に屬するも、祕書は旣に文籍を典れば、今、中書著作を改めて祕書著作と爲せ」と。是に於いて改めて祕書省に隸はしむ。後に別に自づから省を置くも、猶ほ祕書に隸はしむ。著作郞は一人、之を大著作郞と謂ひ、專ら史の任を掌り、又た佐著作郞八人を置く。著作郞は始めて職に到りしときには、必ず名臣の傳一人を撰す。

 中書監及び令は、思うに漢の武帝が後宮で宴会をしたときに、初めて宦官に尚書を担当させ、これを中書謁者といい、令と僕射を置いたのであろう。成帝は中書謁者令を改めて中謁者令といい、僕射を廃止した。東漢では中謁者令を省いたが、中官謁者令があったので、その職とは異なるのである。魏の武帝が魏王であったときには、秘書令を置き、尚書の奏事を担当させた。文帝の黄初年間(220-226)には初めて改めて中書となし、監と令を置き、秘書左丞劉放を中書監となし、右丞の孫資を中書令としたので、監と令はおそらくこの時より始まったのであろう。晋に及んでもこれを踏襲し、ともに員一人を置いた。
 中書侍郎は、魏の文帝の黄初(220-226)の初年には、中書には既に監と令を置いてあり、また通事郎を置き、黄門郎に次ぐものとした。黄門郎が署名し、それが通ると通事〔郎〕が署名した。署名が終わると、奏上して〔宮中に〕入り、帝のために読み上げ、認可を記録した。晋に及んで改めて中書侍郎といい、定員は四人であった。中書侍郎はおそらくこの時より始まったのである(10-1)。東晋の初年に及び、中書侍郎を改めて通事郎といい、まもなくして再び中書侍郎とした。
 中書舎人は、思うに晋の初年に初めて舎人と通事各々一人を置き、東晋では舎人と通事を合わせてこれを通事舎人といい、上奏文の上呈を担当したのであろう。後に省き、中書侍郎一人を西省(中書省)に直轄させ、また詔命を担当させた。
 秘書監は、思うに漢の桓帝の延熹二年(159)に、秘書監を置き、後に省いたのであろう。魏の武帝が魏王であったときには、秘書令と丞を置いた。文帝の黄初(220-226)の初年に及び、中書令を置き、尚書の奏事を担当させたので、秘書は改めて令を監とした。後に何禎を秘書丞としたが、秘書には先に別に丞があったので、何禎を秘書右丞とした。晋が受命するに及び、武帝は秘書を中書省に併せたが、そのなかで秘書著作の局は廃止しなかった。恵帝の永平年間(291)には、再び秘書監を置き、その属官には丞があり、郎があり、ならびに著作省を統轄した。
 著作郎は、周の左史の任務である。東漢では絵図や書籍は東観にあり(10-2)、そこで名高い儒者に東観で著作させたので、その名称はあったが、まだ官は備えなかった。魏の明帝の太和年間(227-232)には、詔勅を下して著作郎を置いたので、この時になって初めてその官があり、中書省に属した。晋が受命するに及び、武帝は繆徴を中書著作郎とした。元康二年(292)には、詔勅を下して曰く、「著作は以前は中書に属したが、秘書は既に書物を担当しているので、今、中書著作を改めて秘書著作とせよ」と。この時になって改めて秘書省に属させた。〔著作は〕後に別に独立して省を置いたが、なお秘書に属させた。著作郎は一人、これを大著作郎といい、もっぱら国史〔執筆〕の任務を担当し、また佐著作郎八人を置いた。著作郎が初めて職務にたずさわる際には、必ず〔過去の〕名臣一人の伝を著述した。

 (10-1)原文「蓋此始也」。
 斠注の当該箇所に、「周家祿校勘記曰、蓋自此始也、誤脫自字」とある。
 ここでは、「蓋此始也」を「蓋此始也」として訳す。

 (10-2)原文「漢東京圖籍在東觀」。
 「東観」は、「漢代、宮中の図書館」(『全訳漢辞海』p.712)

 太常・光祿勳・衞尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・將作大匠・太后三卿・大長秋、皆爲列卿、各置丞・功曹・主簿・五官等員、
 太常、有博士・協律校尉員、又統太學諸博士・祭酒及太史・太廟・太樂・鼓吹・陵等令、太史又別置靈臺丞、
 太常博士、魏官也、魏文帝初置、晉因之、掌引導乘輿、王公已下應追諡者、則博士議定之、
 協律校尉、漢協律都尉之職也、魏杜夔爲之、及晉改爲協律校尉、
 晉初承魏制、置博士十九人、及咸寧四年、武帝初立國子學、定置國子祭酒・博士各一人、助敎十五人、以敎生徒、博士皆取履行淸淳、通明典義者、若散騎常侍・中書侍郞・太子中庶子以上、乃得召試、及江左初、減爲九人、元帝末、增儀禮・春秋公羊博士各一人、合爲十一人、後又增爲十六人、不復分掌五經、而謂之太學博士也、孝武太元十年、損國子助敎員爲十人、
 光祿勳、統武賁中郞將・羽林郞將・冗從僕射・羽林左監、五官・左右中郞將、東園匠・太官・御府・守宮・黃門・掖庭・淸商・華林園・暴室等令、哀帝興寧二年、省光祿勳、幷司徒、孝武寧康元年復置、
 衞尉、統武庫・公車・衞士・諸冶等令、左右都候、南北東西督冶掾、及渡江、省衞尉、
 太僕、統典農・典虞都尉、典虞丞、左右中典牧都尉、車府典牧、乘黃廐・驊騮廐・龍馬廐等令、典牧又別置羊牧丞、太僕、自元帝渡江之後或省或置、太僕省、故驊騮爲門下之職、
 廷尉、主刑法・獄訟、屬官有正・監・評、幷有官律博士員、
 大鴻臚、統大行・典客・園池・華林園・鉤盾等令、又有靑宮列丞・鄴玄武苑丞、及江左、有事則權置、無事則省、
 宗正、統皇族・宗人圖諜、又統太醫令史、又有司牧掾員、及渡江、哀帝省幷太常、太醫以給門下省、
 大司農、統太倉・籍田・導官三令、襄國都水長、東西南北部護漕掾、及渡江、哀帝省幷都水、孝武復置、
 少府、統材官校尉、中左右三尙方・中黃左右藏・左校・甄官・平準・奚官等令、左校坊・鄴中黃左右藏・油官等丞、及渡江、哀帝省幷丹楊尹、孝武復置、自渡江唯置一尙方、又省御府、
 將作大匠、有事則置、無事則罷、
 太后三卿、衞尉・少府・太僕、漢置、皆隨太后宮爲官號、在同名卿上、無太后則闕、魏改漢制、在九卿下、及晉復舊、在同號卿上、
 大長秋、皇后卿也、有后則置、無后則省、

 太常・光祿勳・衞尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・將作大匠・太后の三卿・大長秋は、皆な列卿と爲し、各丞・功曹・主簿・五官等の員を置く。
 太常には、博士・協律校尉の員有り、又た太學の諸の博士・祭酒及び太史・太廟・太樂・鼓吹・陵等の令を統べ、太史には又た別に靈臺丞を置く。
 太常博士は、魏の官なり。魏の文帝初めて置き、晉は之に因り、乘輿を引導するを掌る。王公已下の追諡に應ふる者をは、則ち博士、之を議定す。
 協律校尉は、漢の協律都尉の職なり。魏の杜夔は之と爲る。晉に及びて改めて協律校尉と爲す。
 晉の初めに魏の制を承ぎ、博士十九人を置く。咸寧四年に及び、武帝は初めて國子學を立て、定めて國子祭酒・博士各一人、助敎十五人を置き、以て生徒を敎へしむ。博士は皆な履行淸淳にして、典義に通じて明なる者を取り、散騎常侍・中書侍郞・太子中庶子以上の若きをは、乃ち召試せらるるを得。江左に及びて初めて、減らして九人と爲す。元帝の末には、儀禮・春秋公羊の博士各一人を增やし、合はせて十一人と爲す。後に又た增やして十六人と爲すも、復た五經を分れて掌らしめざれば、之を太學博士と謂ふなり。孝武の太元十年には、國子助敎の員を損して十人と爲す。
 光祿勳は、武賁中郞將・羽林郞將・冗從僕射・羽林の左監、五官・左右の中郞將、東園匠・太官・御府・守宮・黃門・掖庭・淸商・華林園・暴室等の令を統ぶ。哀帝の興寧二年には、光祿勳を省き、司徒に幷せ、孝武の寧康元年には復た置く。
 衞尉は、武庫・公車・衞士・諸の冶等の令、左右の都候、南北東西の督冶の掾を統ぶ。渡江に及び、衞尉を省く。
 太僕は、典農・典虞の都尉、典虞丞、左右中の典牧の都尉、車府典牧、乘黃廐・驊騮廐・龍馬廐等の令を統ぶ。典牧には又た別に羊牧丞を置く。太僕は、元帝の渡江自りの後には或いは省き或いは置く。太僕省かば、故に驊騮を門下の職と爲す。
 廷尉は、刑法・獄訟を主り、屬官には正・監・評有り、幷びに官律博士の員有り。
 大鴻臚は、大行・典客・園池・華林園・鉤盾等の令を統べ、又た靑宮列丞・鄴の玄武苑の丞有り。江左に及び、事有らば則ち權に置き、事無くば則ち省く。
 宗正は、皇族・宗人の圖諜を統べ、又た太醫令史を統べ、又た司牧の掾の員有り。渡江に及び、哀帝は省きて太常に幷せ、太醫をは以て門下省に給せしむ。
 大司農は、太倉・籍田・導官の三令、襄國都水の長、東西南北部の護漕の掾を統ぶ。渡江に及び、哀帝は省きて都水に幷せるも、孝武復た置く。
 少府は、材官校尉、中左右の三尙方・中黃の左右の藏・左校・甄官・平準・奚官等の令、左校坊・鄴の中黃左右の藏・油官等の丞を統ぶ。渡江に及び、哀帝は省きて丹楊の尹に幷せるも、孝武復た置く。渡江自りは唯だ一尙方を置き、又た御府を省く。
 將作大匠は、事有らば則ち置き、事無くば則ち罷む。
 太后の三卿は、衞尉・少府・太僕なり。漢置き、皆な太后の宮に隨ひて官號と爲し、同名の卿の上に在らしめ、太后無くば則ち闕く。魏は漢の制を改め、九卿の下に在らしむ。晉に及びて舊に復し、同號の卿の上に在らしむ。
 大長秋は、皇后の卿なり。后有らば則ち置き、后無くば則ち省く。

 太常・光禄勲・衛尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・将作大匠・太后の三卿・大長秋は、みな列卿となし、各々丞・功曹・主簿・五官等の人員を置いた。
 太常には、博士と協律校尉の人員があり、また太学の諸博士と祭酒及び太史・太廟・太楽・鼓吹・陵等の令を統轄し、太史にはまた別に霊台丞を置いた。
 太常博士は、魏の官である。魏の文帝が初めて置き、晋はこれを踏襲し、天子の車の先導を担当した。王公以下で追諡に従う者〔の諡号〕は、博士がこれを議定した。
 協律校尉は、漢の協律都尉の職である。魏の杜夔がこれとなった。晋に及んで改めて協律校尉とした。
 晋の初年に魏の制度を継承し、博士十九人を置いた。咸寧四年(278)に及び、武帝は初めて国子学を建立し、定めて国子祭酒と〔国子〕博士各々一人、〔国子〕助教十五人を置き、生徒を教授させた。博士はみな品行が清潔純朴で、古典の意義によく通じている者を選取し、散騎常侍・中書侍郎・太子中庶子以上の若者は、天子の前に呼び出されて試問される機会を得た。東晋に及んで初めて、〔国子博士を〕減らして九人とした。元帝の末年には、『儀礼』と『春秋公羊伝』の博士各々一人を増やし、合わせて十一人とした。後にまた増やして十六人としたが、もう『五経』(詩・書・礼・易・春秋)を分担して担当させなかったので、これを太学博士といったのである(11-1)。孝武帝の太元十年(385)には、国子助教の定員を減らして十人とした。
 光禄勲は、虎賁中郎将・羽林郎将・冗従僕射・羽林の左監、五官・左右の中郎将、東園匠・太官・御府・守宮・黄門・掖庭・清商・華林園・暴室等の令を統轄した。哀帝の興寧二年(364)には、光禄勲を省き、司徒に併せ、孝武帝の寧康元年(373)には再び置いた。
 衛尉は、武庫・公車・衛士・諸々の冶等の令、左右の都候、南北東西の督冶の掾を統轄した。東晋に及び、衛尉を省いた。
 太僕は、典農・典虞の都尉、典虞丞、左右中の典牧の都尉、車府典牧、乗黄廐・驊騮廐・龍馬廐等の令を統轄した。典牧にはまた別に羊牧丞を置いた。太僕は、元帝の渡江より後には省いたり置いたりした。太僕を省けば、驊騮を門下の職とした。
 廷尉は、刑法と訴訟を主管し、属官には正・監・評があり(11-2)、ならびに官律博士の人員があった。
 大鴻臚は、大行・典客・園池・華林園・鉤盾等の令を統轄し、また青宮列丞と鄴の玄武苑の丞があった。東晋に及び、事業があれば暫時に置き、事業がなければ省いた。
 宗正は、皇族と同族の領土と記録を統轄し、また太医令史を統轄し、また司牧の掾の人員があった。東晋に及び、哀帝は省いて太常に併せ、太医は門下省に属させた。
 大司農は、太簞・導官の二令(11-3)、襄国都水の長、東西南北部の護漕の掾を統轄した。東晋に及び、哀帝は省いて都水に併せたが、孝武帝が再び置いた。
 少府は、材官校尉、中左右の三尚方(中尚方・左尚方・右尚方)・中黄の左右の蔵・左校・甄官・平準・奚官等の令、左校坊・鄴の中黄左右の蔵・油官等の丞を統轄した。東晋に及び、哀帝は省いて丹楊尹に併せたが、孝武帝が再び置いた。東晋よりはただ一尚方を置き、また御府を省いた。
 将作大匠は、事業があれば置き、事業がなければ廃止した。
 太后の三卿は、衛尉・少府・太僕であった。漢が置き、みな太后の宮名に従って官号となし、同名の卿の上に据え、太后がいなければ欠員とした(11-4)。魏は漢の制を改め、九卿の下に据えた。晋に及んで旧制に戻し、同号の卿の上に据えた。
 大長秋は、皇后の卿である。皇后がいれば置き、皇后がいなければ省いた。

 (11-1)原文「及江左初、減爲九人、元帝末、增儀禮・春秋公羊博士各一人、合爲十一人、後又增爲十六人、不復分掌五經、而謂之太學博士也」。
 帝紀第六「元帝紀」太興二年(319)六月丙子の条に、「罷御府及諸郡丞、置博士員五人」とあり、斠注の当該箇所には、「職官志作江左初、減爲九人」とあり、太興四年(321)三月の条に、「置周易・儀禮・公羊博士」とある。

 (11-2)原文「屬官有正・監・評」。
 斠注の当該箇所に、「正・監・評、本漢舊儀作平・評、卽平也、世說排調篇注引荀氏家傳曰、荀隱厯太子舍人・廷尉平、通典二十五曰、晉武咸𡧾中(275-280)曹志上表、請廷尉置丞、案本志不載」とある。

 (11-3)原文「統太倉・籍田・導官三令」。
 『百衲本晋書』『和刻本晋書』『晋書斠注』は、みな「統太簞・導官二令」につくる。
 ここでは、「統太・導官令」に改める。

 (11-4)原文「無太后則闕」。
 帝紀第三「武帝紀」泰始九年(273)秋七月丁酉朔の条に、「罷五官・左右中郞將、弘訓太僕・衞尉、大長秋等官」とあり、咸寧四年(278)六月丁未の条に、「弘訓皇后羊氏崩」とある。
 皇后がいても省かれることはあったようである。

 御史中丞、本秦官也、秦時、御史大夫有二丞、其一御史丞、其一爲中丞、中丞外督部刺史、內領侍御史、受公卿奏事、擧劾案章、漢因之、及成帝綏和元年、更名御史大夫爲大司空、置長史、而中丞官職如故、哀帝建平二年、復爲御史大夫、元壽二年、又爲大司空、而中丞出外爲御史臺主、歷漢東京至晉因其制、以中丞爲臺主、
 治書侍御史、案漢宣帝幸宣室、齋居而決事、令侍御史二人治書侍側、後因別置、謂之治書侍御史、蓋其始也、及魏、又置治書執法、掌奏劾、而治書侍御史掌律令、二官俱置、及晉、唯置治書侍御史、員四人、泰始四年、又置黃沙獄治書侍御史一人、秩與中丞同、掌詔獄、及廷尉不當者皆治之、後幷河南、遂省黃沙治書侍御史、及太康中、又省治書侍御史二員、
 侍御史、案二漢所掌凡有五曹、一曰令曹、掌律令、二曰印曹、掌刻印、三曰供曹、掌齋祠、四曰尉馬曹、掌廐馬、五曰乘曹、掌護駕、魏置八人、及晉、置員九人、品同治書、而有十三曹、吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中壘曹・營軍曹・法曹・算曹、及江左初、省課第曹、置庫曹、掌廐牧牛馬・市租、後分曹、置外左庫・內左庫云、
 殿中侍御史、案魏蘭臺遣二御史居殿中、伺察非法、卽其始也、及晉、置四人、江左置二人、又案魏晉官品令、又有禁防御史第七品、孝武太元中、有檢校御史吳琨、則此二職亦蘭臺之職也、
 符節御史、秦符璽令之職也、漢因之、位次御史中丞、至魏別爲一臺、位次御史中丞、掌授節・銅武符・竹使符、及泰始九年、武帝省幷蘭臺、置符節御史掌其事焉、
 司隸校尉、案漢武初置十三州、刺史各一人、又置司隸校尉、察三輔・三河・弘農七郡、歷漢東京及魏晉、其官不替、屬官有功曹・都官從事・諸曹從事・部郡從事、主簿・錄事、門下書佐、省事、記室書佐・諸曹書佐、守從事・武猛從事等員、凡吏一百人、卒三十二人、及渡江、乃罷司隸校尉官、其職乃揚州刺史也、
 謁者僕射、秦官也、自漢至魏因之、魏置僕射、掌大拜授及百官班次、統謁者十人、及武帝省僕射、以謁者幷蘭臺、江左復置僕射、後又省、
 都水使者、漢水衡之職也、漢又有都水長丞、主陂池灌漑、保守河渠、屬太常、漢東京省都水、置河隄謁者、魏因之、及武帝省水衡、置都水使者一人、以河隄謁者爲都水官屬、及江左、省河隄謁者、置謁者六人、

 御史中丞は、本と秦の官なり。秦の時に、御史大夫に二丞有り、其の一を御史丞、其の一を中丞と爲す。中丞は外には部刺史を督し、內には侍御史を領し、公卿の奏事を受け、劾案の章を擧ぐ。漢は之に因り、成帝の綏和元年に及び、更名して御史大夫を大司空と爲し、長史を置くも、中丞の官職は故の如くす。哀帝の建平二年には、復た御史大夫と爲し、元壽二年には、又た大司空と爲せば、中丞は外に出でて御史臺の主と爲る。漢の東京を歷て晉に至りても其の制に因り、中丞を以て臺の主と爲す。
 治書侍御史は、案ずるに漢の宣帝の宣室に幸し、齋居して事を決めしときに、侍御史二人をして書を治めて側に侍らしめ、後に因りて別に置けば、之を治書侍御史と謂ふは、蓋し其の始めなり。魏に及び、又た治書執法を置き、奏劾を掌らしむれば、治書侍御史は律令を掌り、二官俱に置く。晉に及び、唯だ治書侍御史を置き、員は四人なり。泰始四年には、又た黃沙獄治書侍御史一人を置き、秩は中丞と同じくし、詔獄を掌り、及び廷尉の當らざる者をは皆な之を治めしむ。後に河南に幷せ、遂に黃沙治書侍御史を省く。太康中に及び、又た治書侍御史の二員を省く。
 侍御史は、案ずるに二漢の掌りし所には凡せて五曹有り、一に令曹と曰ひ、律令を掌り、二に印曹と曰ひ、刻印を掌り、三に供曹と曰ひ、齋祠を掌り、四に尉馬曹と曰ひ、廐馬を掌り、五に乘曹と曰ひ、護駕を掌る。魏には八人を置く。晉に及び、員九人を置き、品は治書に同じくして、十三曹有り、吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中壘曹・營軍曹・法曹・算曹なり。江左に及びて初めて、課第曹を省き、庫曹を置き、廐牧の牛馬・市租を掌らしめ、後に曹を分かち、外左庫・內左庫を置くと云ふ。
 殿中侍御史は、案ずるに魏に蘭臺に二御史を遣して殿中に居り、非法を伺察せしむれば、卽ち其の始めなり。晉に及び、四人を置き、江左には二人を置く。又た魏晉の官品の令を案ずるに、又た禁防御史有りて第七品たり、孝武の太元中には、檢校御史吳琨有れば、則ち此の二職も亦た蘭臺の職なり。
 符節御史は、秦の符璽令の職なり。漢は之に因り、位は御史中丞に次がしむ。魏に至りて別に一臺と爲り、位は御史中丞に次ぎ、授節・銅武符・竹使符を掌る。泰始九年に及び、武帝は省きて蘭臺に幷せ、符節御史を置きて其の事を掌らしむ。
 司隸校尉は、案ずるに漢武は初めて十三州を置き、刺史は各一人なれども、又た司隸校尉を置き、三輔・三河・弘農の七郡を察せしめ、漢の東京を歷て魏晉に及びても、其の官は替れず。屬官には功曹・都官從事・諸曹の從事・部郡の從事、主簿・錄事、門下の書佐、省事、記室の書佐・諸曹の書佐、守從事・武猛從事等の員有り、凡せて吏は一百人、卒は三十二人なり。渡江に及び、乃ち司隸校尉の官を罷め、其の職は乃ち揚州の刺史なり。
 謁者僕射は、秦の官なり。漢自り魏に至るまで之に因る。魏には僕射を置き、大拜授及び百官の班次を掌り、謁者十人を統べしむ。武帝に及びて僕射を省き、謁者を以て蘭臺に幷す。江左には復た僕射を置き、後に又た省く。
 都水使者は、漢の水衡の職なり。漢には又た都水長丞有り、陂池の灌漑、河渠の保守を主り、太常に屬す。漢の東京には都水を省き、河隄謁者を置き、魏は之に因る。武帝に及びて水衡を省き、都水使者一人を置き、河隄謁者を以て都水の官屬と爲し、江左に及び、河隄謁者を省き、謁者六人を置く。

 御史中丞は、もともと秦の官である。秦の時代に、御史大夫に二丞があり、その一を御史丞、その一を中丞とした。中丞は〔京師の〕外では部刺史を督し、内では侍御史を統理し、公卿の奏事を受け、訴状を提出した。漢はこれを踏襲し、成帝の綏和元年(前8)に及び、改称して御史大夫を大司空となし、長史を置いたが、中丞の官職は元と同じくした。哀帝の建平二年(前5)には、再び御史大夫となし、元寿二年(前1)には、また大司空としたので、中丞は外に出でて御史台の主となった。東漢をへて晋に至ってもその制度を踏襲し、中丞を台の主とした。
 治書侍御史は、思うに漢の宣帝が宣室に行幸し、斎戒して裁決したときに(12-1)、侍御史二人に文書を管理させて側に付き従わせ、後に踏襲して別に置いたので、これを治書侍御史といったのは、おそらくそれが始まりである。魏に及び、また治書執法を置き、訴状の奏上を担当させたので、治書侍御史は律令を担当し、二官はともに置いた。晋に及び、ただ治書侍御史を置き、定員は四人であった。泰始四年(268)には、また黄沙獄治書侍御史一人を置き、秩禄は中丞と同じくし、詔獄(詔勅を奉じて行う裁判)を担当させ、及び廷尉が担当しない者はみなこれらを統理させた。後に河南〔尹〕に併せ、とうとう黄沙治書侍御史を省いた。太康年間(280-289)に及び、また治書侍御史の二員を省いた。
 侍御史は、思うに二漢(西漢と東漢)の担当した所には合わせて五曹があり、一に令曹といい、律令を担当し、二に印曹といい、刻印を担当し、三に供曹といい、斎祠を担当し、四に尉馬曹といい、廐馬を担当し、五に乗曹といい、天子の馬車を護衛を担当したのであろう。魏では八人を置いた。晋に及び、定員九人を置き、品位は治書と同じくして、十三曹があり、吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中塁曹・営軍曹・法曹・算曹であった。東晋に及んで初めて、課第曹を省き、庫曹を置き、家畜小屋で飼育している牛馬と都市の税金を担当させ、後に庫曹を分割し(12-2)、外左庫と内左庫を置いたという。
 殿中侍御史は、思うに魏に蘭台(御史台)に二御史を派遣して殿中にて勤務させ、非法を伺察させたので、それが始まりである。晋に及び、四人を置き、東晋では二人を置いた。また魏晋の官品の令を思うに、また禁防御史があって第七品であり、孝武帝の太元年間(376-396)には、検校御史呉琨がいたので、この二職も同じく蘭台の職である。
 符節御史は、秦の符璽令の職である。漢はこれを踏襲し、位は御史中丞に次ぐものとした。魏に至って別に一台となり、位は御史中丞に次ぎ、授節・銅虎符・竹使符〔の管理〕を担当した(12-3)。泰始九年(273)に及び、武帝は省いて蘭台(御史台)に併せ、符節御史を置いてその職務を担当させた。
 司隷校尉は、思うに漢の武帝が初めて十三州を置き、刺史は各々一人であったが、また司隷校尉を置き、三輔(右扶風・左馮翊・京兆)・三河(河南・河内・河東)・弘農の七郡を監察させ、東漢をへて魏晋に及んでも、その官は廃止されなかったのであろう。属官には功曹〔従事〕・都官従事・諸曹の従事・部郡の従事、主簿・録事、門下の書佐、省事、記室の書佐・諸曹の書佐、守従事・武猛従事等の人員があり、合わせて吏(小役人)は百人、卒(下僕)は三十二人であった。東晋に及び、司隷校尉の官を廃止し、その職は揚州の刺史である。
 謁者僕射は、秦の官である。漢より魏に至るまでこれを踏襲した。魏には僕射を置き、高官の任命及び百官の班次(席次)を担当し、謁者十人を統轄させた。武帝に及んで僕射を省き、謁者を蘭臺(御史台)に併せた。東晋では再び僕射を置き、後にまた省いた。
 都水使者は、漢の水衡〔都尉〕の職である。漢にはまた都水長丞があり、溜池の灌漑、河川や運河等の保守を主管し、太常に属した。東漢では都水を省き、河隄謁者を置き、魏はこれを踏襲した。武帝に及んで水衡を省き、都水使者一人を置き、河隄謁者を都水の属官となし、東晋に及び、河隄謁者を省き、謁者六人を置いた。

 (12-1)原文「案漢宣帝幸宣室、齋居而決事」。
 『漢書』巻二十三「刑法志第三」に、「時上常幸宣室、齋居而決事、獄刑號爲平矣」とあり、顔師古注の当該箇所には、「如淳曰、宣室、布政敎之室也、重用刑、故齋戒以決事、晉灼曰、未央宮中有宣室殿、師古曰、晉說是也、賈誼傳亦云受釐坐宣室、蓋其殿在前殿之側也、齋則居之」とある。

 (12-2)原文「後分曹」。
 斠注の当該箇所に、「通典二十四曰、後分庫曹、置左庫・外左庫二曹、案本志、分字下脫庫字」とある。
 ここでは、「後分曹」を「後分曹」として訳す。

 (12-3)原文「掌授節・銅武符・竹使符」。
 「銅虎符」は、「漢代、軍隊を出すとき、使者の証明に用いた割り符。銅製でトラの形をしている」(『全訳漢辞海』)

 中領軍將軍、魏官也、漢建安四年、魏武丞相府自置、及拔漢中、以曹休爲中領軍、文帝踐阼、始置領軍將軍、以曹休爲之、主五校・中壘・武衞等三營、武帝初省、使中軍將軍羊祜統二衞・前・後・左・右・驍衞等營、卽領軍之任也、懷帝永嘉中、改中軍曰中領軍、永昌元年、改曰北軍中候、尋復爲領軍、成帝世、復爲中候、尋復爲領軍、
 護軍將軍、案本秦護軍都尉官也、漢因之、高祖以陳平爲護軍中尉、武帝復以爲護軍都尉、屬大司馬、魏武爲相、以韓浩爲護軍、史渙爲領軍、非漢官也、建安十二年、改護軍爲中護軍、領軍爲中領軍、置長史・司馬、魏初、因置護軍將軍、主武官選、隸領軍、晉世則不隸也、元帝永昌元年、省護軍、幷領軍、明帝太寧二年、復置領・護、各領營兵、江左以來、領軍不復別領營、總統二衞・驍騎・材官諸營、護軍猶別有營也、資重者爲領軍・護軍、資輕者爲中領軍・中護軍、屬官有長史・司馬・功曹・主簿・五官、受命出征則置參軍、
 左右衞將軍、案文帝初置中衞及衞、武帝受命、分爲左右衞、以羊琇爲左、趙序爲右、竝置長史・司馬・功曹・主簿員、江左罷長史、
 驍騎將軍・遊擊將軍、竝漢雜號將軍也、魏置爲中軍、及晉、以領・護・左右衞・驍騎・遊擊爲六軍、
 左右前後軍將軍、案魏明帝時有左軍、則左軍魏官也、至晉不改、武帝初又置前軍・右軍、泰始八年又置後軍、是爲四軍、
 屯騎・步兵・越騎・長水・射聲等校尉、是爲五校、竝漢官也、魏晉逮于江左、猶領營兵、竝置司馬・功曹・主簿、後省左軍・右軍・前軍・後軍爲鎭衞軍、其左右營校尉自如舊、皆中領軍統之、
 二衞始制前驅・由基・强弩爲三部司馬、各置督史、左衞、熊渠武賁、右衞、佽飛武賁、二衞各五部督、其命中武賁、驍騎・遊擊各領之、又置武賁・羽林・上騎・異力四部、幷命中爲五督、其衞鎭四軍如五校、各置千人、更制殿中將軍、中郞・校尉・司馬比驍騎、持椎斧武賁、分屬二衞、尉中武賁・持鈒冗從・羽林司馬、常從人數各有差、武帝甚重兵官、故軍校多選朝廷淸望之士居之、先是、陳勰爲文帝所待、特有才用、明解軍令、帝爲晉王、委任使典兵事、及蜀破後、令勰受諸葛亮圍陣・用兵・倚伏之法、又甲乙校標幟之制、勰悉闇練之、遂以勰爲殿中典兵中郞將、遷將軍、久之、武帝每出入、勰持白獸幡在乘輿左右、鹵簿陳列齊肅、太康末、武帝嘗出射雉、勰時已爲都水使者、散從、車駕逼暗乃還、漏巳盡、當合函、停乘輿、良久不得合、乃詔勰合之、勰擧白獸幡指麾、須臾之閒而函成、皆謝勰閑解、甚爲武帝所任、

 中領軍將軍は、魏の官なり。漢の建安四年に、魏武の丞相府に自ら置き、漢中を拔くに及び、曹休を以て中領軍と爲す。文帝踐阼し、始めて領軍將軍を置き、曹休を以て之と爲し、五校・中壘・武衞等の三營を主らしむ。武帝は初めて省き、中軍將軍羊祜をして二衞・前・後・左・右・驍衞等の營を統べしむるは、卽ち領軍の任なり。懷帝の永嘉中には、中軍を改めて中領軍と曰ふ。永昌元年には、改めて北軍中候と曰ひ、尋いで復た領軍と爲す。成帝の世には、復た中候と爲し、尋いで復た領軍と爲す。
 護軍將軍は、案ずるに本と秦の護軍都尉の官なり。漢は之に因り、高祖は陳平を以て護軍中尉と爲し、武帝は復た以て護軍都尉と爲し、大司馬に屬せしむ。魏武の相爲りしときには、韓浩を以て護軍と爲し、史渙を領軍と爲せば、漢の官に非ざるなり。建安十二年には、護軍を改めて中護軍と爲し、領軍を中領軍と爲し、長史・司馬を置く。魏の初めには、因りて護軍將軍を置き、武官の選を主り、領軍に隸はしむるも、晉の世には則ち隸はしめざるなり。元帝の永昌元年には、護軍を省き、領軍に幷す。明帝の太寧二年には、復た領・護を置き、各營兵を領せしむ。江左以來、領軍は復た別には營を領せず、二衞・驍騎・材官の諸營を總統し、護軍は猶ほ別に營を有つるなり。資の重き者をは領軍・護軍と爲し、資の輕き者を中領軍・中護軍と爲す。屬には長史・司馬・功曹・主簿・五官有り、受命して出征せしときには則ち參軍を置く。
 左右の衞將軍は、案ずるに文帝は初めて中衞及び衞を置き、武帝受命し、分かちて左右の衞と爲し、羊琇を以て左と爲し、趙序を右と爲す。竝びに長史・司馬・功曹・主簿の員を置くも、江左には長史を罷む。
 驍騎將軍・遊擊將軍は、竝びに漢の雜號の將軍なり。魏には置きて中軍と爲す。晉に及び、領・護・左右の衞・驍騎・遊擊を以て六軍と爲す。
 左右前後軍將軍は、案ずるに魏の明帝の時に左軍有れば、則ち左軍は魏の官なり。晉に至りても改めず、武帝の初めには又た前軍・右軍を置き、泰始八年には又た後軍を置き、是れを四軍と爲す。
 屯騎・步兵・越騎・長水・射聲等の校尉、是れを五校と爲し、竝びに漢の官なり。魏晉より江左に逮りても、猶ほ營兵を領し、竝びに司馬・功曹・主簿を置く。後に左軍・右軍・前軍・後軍を省きて鎭衞軍と爲すも、其の左右の營校尉は自づから舊の如くし、皆な中領軍に之を統べしむ。
 二衞の始めて制たるや前驅・由基・强弩を三部司馬と爲し、各督史を置く。左衞は、熊渠武賁とし、右衞は、佽飛武賁とす。二衞には各五部の督あり。其の命中武賁は、驍騎・遊擊をして各、之を領せしむ。又た武賁・羽林・上騎・異力の四部を置き、命中を幷せて五督と爲し、其の衞鎭四軍は五校の如くし、各千人を置く。制を更めて殿中將軍は、中郞・校尉・司馬は驍騎に比べしむ。椎斧を持つ武賁をは、分かちて二衞に屬せしめ、尉中武賁・持鈒冗從・羽林司馬は、常に人數に從ひて各差有り。武帝は甚だ兵官を重んずれば、故に軍校には多く朝廷の淸望の士を選びて之に居く。是れより先、陳勰は文帝の待む所と爲り、特に才用有り、軍令を明解す。帝の晉王爲りしときには、委任して兵事を典らしむ。蜀破るるの後に及び、勰をして諸葛亮の圍陣・用兵・倚伏の法を受めしめ、又た甲乙校標幟の制、勰悉くに闇に之に練すれば、遂に勰を以て殿中典兵中郞將と爲し、將軍に遷らしむ。之を久しくして、武帝出入する每に、勰は白獸の幡を持ちて乘輿の左右に在り、鹵簿に陳列するに齊肅たり。太康の末、武帝嘗て出でて雉を射しときに、勰は時に已に都水使者爲れば、散從す。車駕暗に逼りて乃ち還らんとし、漏巳に盡き、函を合はすに當り、乘輿を停むるも、良に久しくして合ふことを得ざれば、乃ち勰に詔して之を合はしむ。勰は白獸の幡を擧て指麾し、須臾の閒にして函成れり。皆な勰の閑解を謝し、甚だ武帝に任ぜられし所と爲る。

 中領軍将軍は、魏の官である。漢の建安四年(199)に、魏の武帝の丞相府に自分で置き(13-1)、漢中を攻め落とすに及び、曹休を中領軍とした。文帝が践祚すると、初めて領軍将軍を置き、曹休をこれとなし、五校(屯騎・歩兵・越騎・長水・射声校尉)・中塁・武衛等の三軍営〔の統率〕を主管させた。武帝は初めて省き、中軍将軍羊祜に二衛(左右の衛将軍)・前・後・左・右(前軍・後軍・左軍・右軍将軍)・驍騎(驍騎将軍)等の軍営を統率させたのは、領軍の任務である(13-2)。懐帝の永嘉年間(307-313)には、中軍を改めて中領軍といった。永昌元年(322)には、改めて北軍中候といい、まもなくして再び領軍とした。成帝の世には、再び中候となし、まもなくして再び領軍とした。
 護軍将軍は、思うにもともと秦の護軍都尉の官である。漢はこれを踏襲し、高祖は陳平を護軍中尉となし、武帝はさらに護軍都尉と〔改称〕し、大司馬に属させた。魏の武帝が宰相であったときには、韓浩を護軍となし、史渙を領軍としたので、漢の官ではないのである。建安十二年(207)には、護軍を改めて中護軍となし、領軍を中領軍となし、長史と司馬を置いた。魏の初年には、踏襲して護軍将軍を置き、武官の選抜を主管し、領軍に属させたが、晋の世では属させなかったのである。元帝の永昌元年(322)には、護軍を省き、領軍に併せた。明帝の太寧二年(324)には、再び領軍と護軍を置き、各々軍営の兵士を統率させた。東晋以来、領軍はもう別には軍営を統率せず、二衛(左右の衛将軍)・驍騎(驍騎将軍)・材官(材官校尉)の諸軍営を全て統率し、護軍はさらに別に軍営を持ったのである。声望の高い者を領軍〔将軍〕・護軍将軍となし、声望の低い者を中領軍・中護軍とした(13-3)。属官には長史・司馬・功曹・主簿・五官があり、命を受けて出征したときには参軍を置いた。
 左右の衛将軍は、思うに文帝が初めて中衛〔将軍〕及び衛〔将軍〕を置き、武帝が受命すると、中衛を分割して左右の衛となし(13-4)、羊琇を左となし、趙序を右としたのであろう。ともに長史・司馬・功曹・主簿の人員を置いたが、東晋では長史を廃止した。
 驍騎将軍と遊撃将軍は、ともに漢の雑号将軍である。魏では置いて中軍とした。晋に及び、領・護・左右の衛・驍騎・遊撃を六軍とした。
 左右前後軍将軍は、思うに魏の明帝の時に左軍があったので、左軍は魏の官である。晋に至っても改めず、武帝の初年にはまた前軍と右軍を置き、泰始八年(272)にはまた後軍を置き、これらを四軍とした(13-5)
 屯騎・歩兵・越騎・長水・射声等の校尉、これを五校となし、みな漢の官である。魏晋より東晋に至っても、なお軍営の兵士を統率し、みな司馬・功曹・主簿を置いた。後に左軍・右軍・前軍・後軍〔将軍〕を省いて鎮衛軍としたが、そのなかで左右の営校尉は自づから以前と同じくし、ともに中領軍にこれらを統率させた。
 二衛(左右の衛将軍)の最初の制度は前駆・由基・強弩を三部司馬となし、各々〔それらを統領する〕督史を置いた。左衛は、熊渠虎賁〔を統率〕とし、右衛は、佽飛虎賁〔を統率〕とした。二衛には各々五部の督があった。そのなかで命中虎賁は、驍騎〔将軍〕と遊撃〔将軍〕に各々、これらを統率させた。また虎賁・羽林・上騎・異力の四部を置き、命中を併せて五督となし、その衛鎮四軍は五校と同じくし、各々千人を置いた。制度を改めて殿中将軍は、中郎・校尉・司馬は驍騎〔将軍〕に準ずるものとした。椎斧(儀式的な斧)を持つ虎賁は、分割して二衛に属させ、尉中虎賁(13-6)・持鈒冗従・羽林司馬は、常に人数に従って各々差があった。武帝は非常に兵官を重んじたので、将校や部隊長の多くには朝廷の清望の士を選出してこれらに据えた。これより前のこと、陳勰は文帝に頼りにされ、とりわけ才能があり、軍令をよく理解していた。帝が晋王であったときには、委任して兵事を担当させた。蜀を撃破した後に及び、陳勰に諸葛亮の囲陣・用兵・倚伏の法を受修させ、また甲乙校標幟(軍営の目印の順序?)の制度を、陳勰は余すところなく詳しく知ることができたので、やがて陳勰を殿中典兵中郎将となし、将軍に転任させた。しばらくして、武帝が出入するたびに、陳勰は白獣の旗さし物を持って天子の車の左右にあり、鹵簿に参列する際には厳粛であった。太康(280-289)の末年、武帝がかつて雉狩りに出かけた折、陳勰は当時都水使者であったので、騎乗して付き従った。天子は辺りが暗くなってきたので帰還しようとしたが、〔途中で〕夜になってしまったので、隊列を夜間行幸用の護衛の隊形に組み直すことになった。御車を停めたが、しばらくしても組み直すことができなかったので、陳勰に詔勅を下してこれを組み直させた。陳勰が白獣の旗さし物を掲げて指図したところ、わずかな時間で隊列は出来上がった。みな陳勰の理解の深さに謝意を示し、非常に武帝に信任された。

 (13-1)原文「漢建安四年、魏武丞相府自置」。
 『三国志』魏志第九「曹休伝」に、「太祖拔漢中、諸軍還長安、拜休中領軍、文帝卽王位、爲領軍將軍」とあり、集解の当該箇所には、「領軍將軍見明紀景初二年、趙一淸曰、晉書職官志、中領軍、魏官也、建安四年、魏武丞相府自置、及拔漢中、以曹休爲中領軍、文帝踐阼、始置領軍將軍、以曹休爲之、主五校・中壘・武衞等三營、一淸案、建安四年、魏武爲司空、至十三年、始爲丞相、四年上疑落十字」とある。

 (13-2)原文「使中軍將軍羊祜統二衞・前・後・左・右・驍衞等營、卽領軍之任也」。
 『宋書』巻四十「百官志下」に、「使中軍將軍羊祜統二衞・前・後・左・右・驍騎七軍營兵」とあり、
 『通典』巻第二十八「職官十」左右領軍衞の項に、「使中軍將軍羊祜統二衞・前後左右・驍騎七軍營兵」とある。
 ここでは、「驍衞」を「驍」として訳す。

 (13-3)原文「資重者爲領軍・護軍、資輕者爲中領軍・中護軍」。
 斠注の当該箇所に、「廿二史攷異二十曰、按宋志、領・護資重者爲領軍・護軍將軍、此脫將軍二字」とある。
 ここでは、「領軍・護軍」を「領軍・護軍將軍」として訳す。

 (13-4)原文「分爲左右衞」。
 斠注の当該箇所に、「通典二十八曰、分中衞爲左右衞將軍、並置佐吏、掌宿衞營兵」とある。
 ここでは、「分爲左右衞」を「分中衞爲左右衞」として訳す。

 (13-5)原文「武帝初又置前軍・右軍、泰始八年又置後軍、是爲四軍」。
 斠注の当該箇所に、「漢官解詁曰、前・後・左・右將軍、皆周末官、秦因之、皆掌兵及四夷、案哀帝紀興𡧾二年(364)二月、改左軍將軍爲遊擊將軍、罷右軍・前軍・後軍將軍、五校三將官、志于江左建置、往往闕略」とある。

 前後左右将軍と前後左右軍将軍は、別個の存在であり、『晋書斠注』はそれらを混同していると思われる。
 以下に、魏・晋・劉宋・南斉に於ける、前後左右将軍と前後左右軍将軍の違いを載せる。

 『宋書』巻十八「礼志五」に、「驃騎・車騎將軍・凡諸將軍加大者、征・鎭・安・平・中軍・鎭軍・撫軍・前・左・右・後將軍、征虜・冠軍・輔國・龍驤將軍、金章紫綬、給五時朝服、武冠、佩水蒼玉、(略)司隸校尉・武尉・左右衞・中堅・中壘・驍騎・游擊・前軍・左軍・右軍・後軍・寧朔・建威・振威・奮威・揚威・廣威・建武・振武・奮武・揚武・廣武・左右積弩・强弩諸將軍・監軍、銀章靑綬、給五時朝服、武冠、佩水蒼玉」とあり、
 『南斉書』巻十六「百官志」に、「左・右・前・後將軍」とあり、「前軍將軍・後軍將軍・左軍將軍・右軍將軍、號四軍」とあり、
 『通典』巻第二十九「職官十一」前後左右将軍の項に、「前・後・左・右將軍皆周末官、秦因之、位上卿、金印紫綬、漢不常置、或有前後、或有左右、皆掌兵及四夷、李廣爲前將軍、趙充國爲後將軍、辛慶忌・王商爲左將軍、馮奉世爲右將軍、光武建武七年(31)省、魏以來復置、晉武初又置前軍・左軍・右軍、泰始八年(272)、又置後軍、是爲四軍」とあり、
 巻第三十七「職官十九」魏官品の第四品の項に、「武衞・左右衞・中堅・中壘・驍騎・游騎・前軍・左軍・右軍・後軍・寧朔・建威・建武・振威・振武・奮威・奮武・揚武・廣威・廣武・左右積弩・積射・强弩等將軍」とあり、晋官品の第三品の項に、「諸征・鎭・安・平・中軍・鎭軍・撫軍・前・後・左・右・征虜・輔國・龍驤等將軍」とあり、第四品の項に、「武衞・左右衞・中堅・中壘・驍騎・游擊・前軍・左軍・右軍・後軍・寧朔・建威・振威・奮威・廣威・建武・振武・揚武・廣武・五營校尉・左右積弩・積射・强弩・奮武等將軍」とある。

 以下、帝紀に於ける前後左右将軍と前後左右軍将軍の省置の記述。
 帝紀第三「武帝紀」泰始二年(266)八月丙辰の条に、「省右將軍官」とあり、泰始五年(269)六月の条に、「復置左・右將軍官」とあり、泰始八年(272)夏四月の条に、「置後將軍、以備四軍」とあり、
 帝紀第八「哀帝紀」興寧二年(364)二月の条に、「改左軍將軍爲遊擊將軍、罷右軍・前軍・後軍將軍、五校三將官」とある。
 四軍は、前後左右軍将軍であり、帝紀もまた混同していると思われる。

 (13-6)原文「尉中武賁」。
 『和刻本晋書』の当該箇所に、「尉字当作命」(尉の字は当に命に作るべし)とあり、
 『中華書局本晋書』校勘記の当該箇所に、「食貨志有殿中武賁、疑卽此、此尉字恐爲殿字之形近誤」とある。

 太子太傅・少傅、皆古官也、泰始三年、武帝始建官、各置一人、尙未置詹事、官事無大小、皆由二傅、竝有功曹・主簿・五官、太傅中二千石、少傅二千石、其訓導者、太傅在前、少傅在後、皇太子先拜、諸傅然後答之、武帝後以儲副體尊、遂命諸公居之、以本位重、故或行或領、時侍中任愷、武帝所親敬、復使領之、蓋一時之制也、咸寧元年、以給事黃門侍郞楊珧爲詹事、掌宮事、二傅不復領官屬、及楊珧爲衞將軍、領少傅、省詹事、遂崇廣傅訓、命太尉賈充領太保、司空・齊王攸領太傅、所置吏屬復如舊、二傅進賢兩梁冠、黑介幘、五時朝服、佩水蒼玉、食奉日三斛、太康二年、始給春賜絹五十匹、秋絹百匹、綿百斤、其後太尉・汝南王亮、車騎將軍楊駿、司空衞瓘・石鑒皆領傅保、猶不置詹事、以終武帝之世、惠帝元康元年、復置詹事、二傅給菜田六頃、田騶六人、立夏後不及田者、食奉一年、置丞一人、秩千石、主簿・五官掾・功曹史・主記門下史・錄事、戶曹・法曹・倉曹・賊曹・功曹書佐、門下亭長・門下書佐・省事各一人、給赤耳安車一乘、及愍懷建官、乃置六傅、三太・三少、以景帝諱師、故改太師爲太保、通省尙書事、詹事文書關由六傅、然自元康之後、諸傅或二或三、或四或六、及永康中復不置詹事也、自太安已來置詹事、終孝懷之世、渡江之後、有太傅・少傅、不立師保、
 中庶子四人、職如侍中、
 中舍人四人、咸寧四年置、以舍人才學美者爲之、與中庶子共掌文翰、職如黃門侍郞、在中庶子下、洗馬上、
 食官令一人、職如太官令、
 庶子四人、職比散騎常侍・中書監令、
 舍人十六人、職比散騎・中書等侍郞、
 洗馬八人、職如謁者祕書、掌圖籍、釋奠・講經則掌其事、出則直者前驅、導威儀、
 率更令、主官殿門戶及賞罰事、職如光祿勳・衞尉、
 家令、主刑獄・穀貨・飮食、職比司農・少府、漢東京主食官令、食官令及晉、自爲官、不復屬家令、
 僕、主車馬・親族、職如太僕・宗正、
 左右衞率、案武帝建東宮、置衞率、初曰中衞率、泰始五年、分爲左右、各領一軍、惠帝時、愍懷太子在東宮、又加前後二率、及江左、省前後二率、孝武太元中又置、

 太子太傅・少傅は、皆な古の官なり。泰始三年に、武帝は始めて官を建つるや、各一人を置くも、尙ほ未だ詹事を置かず、官事に大小無く、皆な二傅に由り、竝びに功曹・主簿・五官有り。太傅は中二千石、少傅は二千石たり。其の訓導する者をは、太傅を前に在り、少傅を後に在らしむ。皇太子先拜し、諸傅然して後に之に答ふ。武帝は後に儲副の體の尊なるを以て、遂に諸公に命じて之に居き、本位の重きを以て、故に或いは行じ或いは領せしむ。時に侍中任愷は、武帝の親敬する所なれば、復た之を領せしむるは、蓋し一時の制なり。咸寧元年には、給事黃門侍郞楊珧を以て詹事と爲し、宮事を掌らしむれば、二傅は復た官屬を領せず。楊珧の衞將軍と爲るに及び、少傅を領せしめ、詹事を省き、遂に傅訓を崇廣し、太尉賈充に命じて太保を領し、司空・齊王攸には太傅を領せしめ、吏屬を置く所は復た舊の如くす。二傅は進賢兩梁の冠をし、黑介幘をし、五時の朝服をし、水蒼の玉を佩び、食奉は日ごとに三斛たり。太康二年には、始めて春には賜絹五十匹を、秋には絹百匹、綿百斤を給す。其の後に太尉・汝南王亮、車騎將軍楊駿、司空衞瓘・石鑒は皆な傅保を領するも、猶ほ詹事を置かず、以て武帝の世を終ふ。惠帝の元康元年には、復た詹事を置き、二傅には菜田六頃、田騶六人、立夏の後に田するに及ばざる者には、食奉一年を給す。丞一人を置き、秩は千石たり。主簿・五官の掾・功曹の史・主記門下の史・錄事、戶曹・法曹・倉曹・賊曹・功曹の書佐、門下の亭長・門下の書佐・省事をは各一人なり。赤耳の安車一乘を給す。愍懷の官を建つるに及び、乃ち六傅を置き、三太・三少あるも、景帝の諱師なるを以て、故に太師を改めて太保と爲し、通省の尙書の事と、詹事の文書を六傅に關由せしむ。然して元康自りの後には、諸傅は或いは二或いは三、或いは四或いは六、永康中に及びて復た詹事を置かざるなり。太安自り已來詹事を置き、孝懷の世を終ふ。渡江の後には、太傅・少傅有るも、師保を立てず。
 中庶子は四人、職は侍中の如し。
 中舍人は四人、咸寧四年に置き、舍人の才學美なる者を以て之と爲す。中庶子と共に文翰を掌り、職は黃門侍郞の如くし、中庶子の下、洗馬の上に在らしむ。
 食官令は一人、職は太官令の如し。
 庶子は四人、職は散騎常侍・中書監令に比ぶ。
 舍人は十六人、職は散騎・中書等の侍郞に比ぶ。
 洗馬は八人、職は謁者祕書の如くし、圖籍を掌る。釋奠・講經には則ち其の事を掌り、出づれば則ち直者前驅し、威儀を導く。
 率更令は、官殿の門戶及び賞罰の事を主り、職は光祿勳・衞尉の如し。
 家令は、刑獄・穀貨・飮食を主り、職は司農・少府に比ぶ。漢の東京には食官令を主るも、食官令は晉に及び、自づから官と爲り、復た家令に屬せず。
 僕は、車馬・親族を主り、職は太僕・宗正の如し。
 左右の衞率は、案ずるに武帝は東宮を建つると、衞率を置き、初めは中衞率と曰ふ。泰始五年には、分かちて左右と爲し、各一軍を領せしむ。惠帝の時に、愍懷太子の東宮に在りしときには、又た前後の二率を加ふ。江左に及び、前後の二率を省き、孝武の太元中には又た置く。

 太子太傅と〔太子〕少傅は、ともに古き時代の官である。泰始三年(267)に、武帝が初めて東宮を建てると(14-1)、各々一人を置いたが、まだ詹事を置かず、宮事の大小を問わず(14-2)、みな二傅に従い、ともに功曹・主簿・五官があった。太傅は中二千石、少傅は二千石であった。その教え導く者は、太傅を前に据え、少傅を後に据えた。皇太子が先に拝礼し、そして諸傅が後にこれに答礼し〔て師弟のようにさせ〕た。武帝は後に太子の身が尊きものであることを理由に、やがて諸公に命じてこれらに据え、本来の官位の軽重に基づいて、代行させたり兼任させたりした。当時侍中任愷は、武帝に親敬されたので、さらにこれ(太師少傅)を兼任させたのは、おそらく一時の制度である。咸寧元年(275)には、給事黄門侍郎楊珧を詹事となし、東宮の職務を担当させたので、二傅はもう属官を統理しなかった。楊珧が衛将軍となるに及び、少傅を兼任させ、詹事を省き、太傅と少傅の教えを尊重して広めさせ、太尉賈充に命じて太保を兼任させ、司空・斉王司馬攸には太傅を兼任させ、吏属を置くことは再び以前と同じくした。二傅は進賢両梁の冠をかぶり、黒い頭巾をつけ、五時朝服を着用し、水模様の青玉を装着し、食奉は日ごとに三斛であった。太康二年(281)には、初めて春には恩賜の絹五十匹を、秋には絹百匹、綿百斤を支給した。その後に太尉・汝南王司馬亮、車騎将軍楊駿、司空衛瓘・石鑒はみな傅保を兼任したが、なお詹事を置かず、武帝の世を終えた。恵帝の元康元年(291)には、再び詹事を置き、二傅には菜田六頃、田騶六人、立夏の後に狩りをしない者には、食奉一年を支給した。丞一人を置き、秩禄は千石であった。主簿・五官の掾・功曹の史・主記門下の史・録事、戸曹・法曹・倉曹・賊曹・功曹の書佐、門下の亭長・門下の書佐・省事は各々一人であった。赤いステップ附きの安車一乗を支給した。愍懐太子が東宮を立てるに及び(14-3)、六傅を置き、三太(太師・太傅・太保)・三少(少師・少傅・少保)があったが、景帝の諱が師であることを理由に、太師を改めて太帥となし(14-4)、通省の尚書の職務と、詹事の文書は六傅に関与させた。しかし元康(291-299)より後には、諸傅は二人であったり三人であったり、〔太少あわせて〕四人であったり六人であったりし、永康年間(300-301)に及んでもう詹事を置かなかったのである。太安(302-303)より以来詹事を置き、孝懐帝の世を終えた。東晋には、太傅と少傅があったが、師保を設けなかった。
 中庶子は四人、職務は侍中と同じ。
 中舎人は四人、咸寧四年(278)に置き、舎人で才知と学識にすぐれている者をこれとした。中庶子と共に文章を担当し、職務は黄門侍郎と同じくし、中庶子の下、洗馬の上に据えた。
 食官令は一人、職務は太官令と同じ。
 庶子は四人、職務は散騎常侍や中書監令(中書監と中書令)に準じた。
 舎人は十六人、職務は散騎や中書等の侍郎に準じた。
 洗馬は八人、職務は謁者秘書と同じくし、絵図や書籍を担当した。釈奠の儀(孔子とその弟子を祭る儀式)や経典の講義の際にはそれらの事を担当し、外出する際には上位の者が騎乗して先導し、従者を輔導した。
 率更令は、官殿の門戸及び賞罰の事を主管し、職務は光禄勲や衛尉と同じ。
 家令は、刑罰牢獄・穀物と貨幣・飲食を主管し、職務は司農や少府に準じた。東漢では食官令を主管したが、食官令は晋に及び、独立して官となり、もう家令に属さなかった。
 僕は、車馬や親族を主管し、職務は太僕や宗正と同じ。
 左右の衛率は、思うに武帝が東宮を建てると、衛率を置き、最初は中衛率といったのであろう。泰始五年(269)には、分割して左右となし、各々一軍を統率させた。恵帝の時代に、愍懐太子が東宮であったときには、また前後の二率を加えた。東晋に及び、前後の二率を省き、孝武帝の太元年間(376-396)にはまた置いた。

 (14-1)原文「泰始三年、武帝始建官」。
 『中華書局本晋書』校勘記の当該箇所に、「通典三〇・通志五五・通考六〇・職官分紀二七引、官作宮。宮指東宮」とある。
 帝紀第三「武帝紀」泰始三年(267)春正月丁卯の条に、「立皇子衷爲皇太子」とあり、三月丁未の条に、「以李憙爲太子太傅」とある。
 ここでは、「官」を「」として訳す。

 (14-2)原文「官事無大小」。
 『和刻本晋書』の当該箇所に、「官当作宮」(官は当に宮に作るべし)とあり、
 『中華書局本晋書』校勘記の当該箇所に、「官疑宮字之誤。書鈔六五引晉起居注引卽作宮。下文云掌宮事亦可證」とある。
 ここでは、「官」を「」として訳す。

 (14-3)原文「及愍懷建官」。
 『百衲本晋書』及び『晋書斠注』は、「及愍懷建官」につくり、
 『和刻本晋書』は、「及愍懷建宮」につくり、
 『中華書局本晋書』校勘記の当該箇所に、「官亦當作宮。初學記一〇引晉公卿禮秩・職官分紀二七引本志官俱作宮」とある。
 ここでは、「官」を「」として訳す。

 (14-4)原文「及愍懷建官、乃置六傅、三太・三少、以景帝諱師、故改太師爲太保」。
 斠注の当該箇所に、「通典三十曰、以景帝諱師、故改太師爲太帥」とある。
 帝紀第四「恵帝紀」太煕元年(290)秋八月壬午の条に、「立廣陵王遹爲皇太子、以中書監何劭爲太子太師、吏部尙書王戎爲太子太傅、衞將軍楊濟爲太子太保」とあり、
 列伝第二十三「愍懷太子伝」に、「惠帝卽位、立爲皇太子、盛選德望以爲師傅、以何劭爲太師、王戎爲太傅、楊濟爲太保、裴楷爲少師、張華爲少傅、和嶠爲少保」とあり、「太子太師」の記述が見えるが、愍懐太子が太子に立てられるまで避諱しなかったことに対して疑問が残る。
 ここでは、「太保」を「太」として訳す。

 王置師・友・文學各一人、景帝諱、故改師爲傅、友者因文王・仲尼四友之名號、改太守爲內史、省相及僕、有郞中令・中尉・大農爲三卿、大國置左右常侍各一人、省郞中、置侍郞二人、典書・典祠・典衞・學官令、典書丞各一人、治書四人、中尉司馬・世子庶子・陵廟牧長各一人、謁者四人、中大夫六人、舍人十人、典府各一人、
 咸寧三年、衞將軍楊珧與中書監荀勖、以齊王攸有時望、懼惠帝有後難、因追故司空裴秀立五等封建之旨、從容共陳時宜於武帝、以爲、古者建侯、所以藩衞王室、今吳寇未殄、方岳任大、而諸王爲帥、都督封國、旣各不臣其統內、於事重非宜、又異姓諸將居邊、宜參以親戚、而諸王公皆在京都、非扞城之義、萬世之固、帝初未之察、於是下詔議其制、有司奏、從諸王公更制戶邑、皆中尉領兵、其平原・汝南・琅邪・扶風・齊爲大國、梁・趙・樂安・燕・安平・義陽爲次國、其餘爲小國、皆制所近縣益滿萬戶、又爲郡公制度如小國王、亦中尉領兵、郡侯如不滿五千戶王、置一軍一千一百人、亦中尉領之、于時、唯特增魯公國戶邑、追進封故司空・博陵公王沈爲郡公、鉅平侯羊祜爲南城郡侯、又南宮王承・隨王萬各於泰始中封爲縣王、邑千戶、至是改正縣王增邑爲三千戶、制度如郡侯、亦置一軍、自此非皇子不得爲王、而諸王之支庶、皆皇家之近屬至親、亦各以土推恩受封、其大國・次國始封王之支子爲公、承封王之支子爲侯、繼承封王之支子爲伯、小國五千戶已上、始封王之支子爲子、不滿五千戶始封王之支子及始封公侯之支子皆爲男、非此皆不得封、其公之制度如五千戶國、侯之制度如不滿五千戶國、亦置一軍千人、中尉領之、伯子男以下各有差而不置軍、大國始封之孫罷下軍、曾孫又罷上軍、次國始封子孫亦罷下軍、其餘皆以一軍爲常、大國中軍二千人、上下軍各千五百人、次國上軍二千人、下軍千人、其未之國者、大國置守土百人、次國八十人、小國六十人、郡侯・縣公亦如小國制度、旣行、所增徙各如本奏遣就國、而諸公皆戀京師、涕泣而去、及吳平後、齊王攸遂之國、
 中朝制、典書令在常侍下、侍郞上、及渡江、則侍郞次常侍、而典書令居三軍下、公國則無中尉・常侍・三軍、侯國又無大農・侍郞、伯子男唯典書以下、又無學官・令史職、皆以次損焉、公侯以下置官屬、隨國大小無定制、其餘官司各有差、名山・大澤不以封、鹽鐵金銀銅錫、始平之竹園、別都・宮室・園囿、皆不爲屬國、其仕在天朝者、與之國同、皆自選其文武官、諸入作卿士而其世子年已壯者、皆遣莅國、其王公已下、茅社符璽、車旗命服、一如泰始初故事、

 王には師・友・文學各一人を置き、景帝の諱なれば、故に師を改めて傅と爲す。友なる者は文王・仲尼の四友の名號に因る。太守を改めて內史と爲し、相及び僕を省く。郞中令・中尉・大農有りて三卿と爲す。大國には左右の常侍各一人を置き、郞中を省き、侍郞二人、典書・典祠・典衞・學官の令、典書丞各一人、治書四人、中尉司馬・世子庶子・陵廟牧の長各一人、謁者四人、中大夫六人、舍人十人、典府各一人を置く。
 咸寧三年に、衞將軍楊珧は中書監荀勖と與に、齊王攸には時の望有り、惠帝に後難有らんことを懼るるを以て、因りて故の司空裴秀の五等の封建を立つるの旨を追ひ、從容として共に時宜を武帝に陳ぶ。以爲へらく、「古者の侯を建てしは、王室を藩衞せしむる所以なり。今、吳寇未だ殄ばず、方岳の任は大たり。而して諸王の帥と爲り、都督もて國に封ぜらるも、旣に各其の統內にて臣とせざるは、事の重きに於いて宜しからず。又た異姓の諸將は邊に居れば、宜しく以て親戚を參しむるべしとなすも、諸の王公の皆な京都に在るは、扞城の義、萬世の固めに非ず」と。帝、初めは未だ之を察せず、是に於いて詔を下して其の制を議せしむ。有司奏し、諸の王公を從ひて戶邑を更めて制し、皆な中尉をして兵を領せしむ。其れ平原・汝南・琅邪・扶風・齊を大國と爲し、梁・趙・樂安・燕・安平・義陽を次國と爲し、其の餘りを小國と爲し、皆な制して近き所の縣をして益して萬戶に滿たしむ。又た郡公の制度は小國の王の如く爲し、亦た中尉をして兵を領せしむ。郡侯は五千戶に滿たざる王の如くし、一軍を置きて一千一百人、亦た中尉をして之を領せしむ。時に于いて、唯だ特に魯公國の戶邑を增やし、追ひて故の司空・博陵公王沈を進封して郡公と爲し、鉅平侯羊祜を南城郡侯と爲す。又た南宮王承・隨王萬は各泰始中に於いて封ぜられて縣王と爲り、邑千戶たるも、是に至りて縣王を改正して增邑して三千戶と爲し、制度は郡侯の如くし、亦た一軍を置く。此れ自り皇子に非ずば王と爲ることを得ずも、諸王の支庶は、皆な皇家の近屬にして至親なれば、亦た各土を以て推恩して受封せらる。其の大國・次國の始めて王に封ぜられしの支子を公と爲し、王に封ぜられしを承ぐの支子を侯と爲し、王に封ぜられしを繼承するの支子を伯と爲す。小國の五千戶已上の、始めて王に封ぜられしの支子を子と爲し、五千戶に滿たず始めて王に封ぜられしの支子及び始めて公侯に封ぜられしの支子を皆な男と爲し、此れに非ずば皆な封を得ず。其の公の制度は五千戶の國の如くし、侯の制度は五千戶に滿たざる國の如くし、亦た一軍を置きて千人、中尉をして之を領せしめ、伯子男以下は各差有りて軍を置かず。大國の始めて封ぜられしの孫は下軍を罷め、曾孫は又た上軍を罷め、次國の始めて封ぜられしの子孫も亦た下軍を罷め、其の餘りは皆な一軍を以て常と爲す。大國の中軍は二千人、上下の軍は各千五百人、次國の上軍は二千人、下軍は千人なり。其の未だ國に之かざる者は、大國には守土百人、次國には八十人、小國には六十人を置き、郡侯・縣公も亦た小國の制度の如くす。旣に行はれ、增徙する所は各本奏の如く遣して國に就かしむるに、諸公は皆な京師を戀し、涕泣して去る。吳平ぐの後に及び、齊王攸遂に國に之く。
 中朝の制には、典書令は常侍の下、侍郞の上に在り。渡江に及び、則ち侍郞は常侍に次げば、典書令は三軍の下に居く。公國には則ち中尉・常侍・三軍無く、侯國には又た大農・侍郞無く、伯子男には唯だ典書以下、又た學官・令史の職無く、皆な次を以て損す。公侯以下は官屬を置き、國の大小に隨ひて定制と無さず、其の餘りの官司には各差有り。名山・大澤は以て封ぜず、鹽鐵金銀銅錫、始平の竹園、別都・宮室・園囿は、皆な屬國と爲さず。其の仕へて天朝に在る者は、國に之くと同じくし、皆な自ら其の文武の官を選ぶ。諸入りて卿士と作るも其の世子の年の已に壯なる者をは、皆な遣して國に莅かしむ。其の王公已下の、茅社符璽、車旗命服は、一に泰始の初めの故事の如くす。

 王には師・友・文学各々一人を置いたが、景帝の諱であることを理由に、師を改めて傅とした。友である者は文王と仲尼の四友の名号に従った(15-1)。太守を改めて内史となし、相及び僕を省いた(15-2)。郎中令・中尉・大農があって三卿とした。大国には左右の常侍各々一人を置き、郎中を省き、侍郎二人、典書・典祠・典衛・学官の令、典書丞各々一人、治書四人、中尉司馬・世子庶子・陵廟牧の長各々一人、謁者四人、中大夫六人、舎人十人、典府各々一人を置いた。
 咸寧三年(277)に、衛将軍楊珧は中書監荀勖とともに、斉王司馬攸には当時の人々の期待が集まっており恵帝に災難が起きること(簒奪)を憂慮したので、元の司空裴秀の五等(公侯伯子男の五つの爵位)の封建を設立する提案に追随し、落ち着き払って(?)共に今が実行に移す適当な時期である旨を武帝に述べた。「愚考致しますに、古代の王者が侯(爵位)の制度を建てられましたのは、王室の藩屛となされるためでありました。目下、呉賊は未だ滅んではおらず、地方の任務は重大であります。諸々の王殿下は軍の総帥となられ、都督として領国に封ぜられておりますのに、皆様その統治されている領域の内では既に臣下と思わず気ままに振舞っておられる。これは、事の重大さに鑑みるに、よろしきことではありませぬ。また、異姓の諸将は〔呉との〕国境附近に駐屯しているので、こちらは彼らの親類を参内させる(人質として洛陽に来させる)べきではありますのに、諸々の王公がみな京都に居られるは、護衛の道義にはずれることであり、万世の固めではありませぬ」と。帝は最初はこれに同意せず、この時になって詔勅を下してその制度を議論させた。〔その結果、〕有司が奏上し、諸々の王公に従って戸邑を改めて制定し、みな中尉に兵を統率させることとした。平原・汝南・琅邪・扶風・斉を大国となし、梁・趙・楽安・燕・安平・義陽を次国となし、そのほかを小国となし、すべて制して近隣の県を増やして一万戸に満たせた。また郡公の制度は小国の王と同じくし、中尉に兵を統率させた。郡侯は五千戸に満たない王と同じくし、一軍を置いて千百人とし、中尉にこれを統率させた。この時になって、ただとりわけて魯国公の戸邑を増やし(15-3)、さかのぼって元の司空・博陵公王沈を進封して郡公となし、鉅平侯羊祜を南城郡侯とした。また南宮王司馬承と随王司馬萬は両者とも泰始年間(265-274)に封ぜられて県王となっており、邑千戸であったが、この時になって県王を改正して増邑して三千戸となし、制度は郡侯と同じくし、一軍を置いた。これより皇子でなければ王となることができなかったが、諸王の庶子は、みな皇家の近族であり近親であるので、同じく各々封土を恩恵を施して受封された。その大国と次国の初めて王に封ぜられた者の支子(長男以外の男子)を公となし、次に王に封ぜられた者を継承する支子を侯となし、その次に王に封ぜられた者を継承する支子を伯とした(15-4)。小国の五千戸以上で、初めて王に封ぜられた者の支子を子となし、五千戸未満で初めて王に封ぜられた者の支子及び初めて公侯に封ぜられた者の支子をみな男となし、これらでなければみな封土を得ることができなかった。その公の制度は五千戸の国と同じくし、侯の制度は五千戸未満の国と同じくし、一軍を置いて千人、中尉にこれを統率させ、伯子男以下は各々差があって軍を置かなかった。大国に初めて封ぜられた者の孫は下軍を廃止し、曾孫はまた上軍を廃止し、次国に初めて封ぜられた者の子孫もまた下軍を廃止し、そのほかはみな一軍を常とした。大国の中軍は二千人、上下の軍は各々千五百人、次国の上軍は二千人、下軍は千人であった。そのなかで依然として国に赴かない者には、大国には守土百人、次国には八十人、小国には六十人を置き、郡侯と県公もまた小国の制度と同じくした。既に施行され、重ねて各々本奏と同じくして国に赴かせようとしたところ、諸公はみな京師を恋慕し、涕泣しつつ去っていった。呉が平定されるに及び、斉王司馬攸もとうとう国に赴いた。
 朝廷の制度では、典書令は常侍の下、侍郎の上にあった。東晋に及び、侍郎は常侍に次ぐものとしたので、典書令は三軍の下に据えた。公国には中尉・常侍・三軍がなく(15-5)、侯国にはまた大農と侍郎がなく、伯子男にはただ典書以下、また学官と令史の職がなく、みな上から順々に減らした。公侯以下は属官を置き、国の大小に従って定制とはせず、そのほかの官司には各々差があった。名山や大沢を封じたりはせず、塩鉄金銀銅錫〔が採取できる土地?〕や、始平の竹園や、別都・宮室・園囿は(15-6)、みな属国としなかった。仕官して朝廷にある者は、領国に赴くのと同じくし、みな自分でその文武の官を選出した。〔爵位を有する〕諸々の人物が中央に入って卿や士となっていたとしても、その世継ぎの年齢が一人前である者は、みな国に赴かせた。そのなかで王公以下の、邸宅と印璽、車旗と官服は、すべて泰始(265-274)の初年の故事と同じくした。

 (15-1)原文「友者因文王・仲尼四友之名號」。
 『尚書大伝』(清の陳寿祺の輯)巻三に、「文王以閎夭・太公望・南宮括・散宜生爲四友」とあり、
 『漢書』巻二十「古今人表第八」に、「大顚 閎夭 散宜生 南宮适」とあり、顔師古注の当該箇所には、「大顚已下、文王之四友也」とあり、
 『博物志』巻六に、「文王四又南宮括・散宜生・閎夭・太顚、仲尼四友、顏淵・子貢・子路・子張」と、諸説ある。

 (15-2)原文「改太守爲內史、省相及僕」。
 帝紀第三「武帝紀」太康十年(289)十一月甲申の条に、「改諸王國相爲內史」とある。

 (15-3)原文「唯特增魯公國戶邑」。
 斠注の当該箇所に、「案魯公國、當從通典三十一作魯國公」とある。
 ここでは、「魯公國」を「魯國公」として訳す。

 (15-4)原文「其大國・次國始封王之支子爲公、承封王之支子爲侯、繼承封王之支子爲伯」。
 大国と次国は、初代の王の支子を公、二代目の王の支子を侯、三代目の王の支子を伯とした。

 (15-5)原文「而典書令居三軍下、公國則無中尉・常侍・三軍」。
 『和刻本晋書』の当該箇所に、「二軍字当作卿」(二つの軍の字は当に卿に作るべし)とある。
 帝紀第三「武帝紀」泰始二年(266)十一月己卯の条に、「罷山陽公國督軍、除其禁制」とあり、泰始四年(268)二月庚子の条には、「增置山陽公國相・郞中令・陵令・雜工宰人・鼓吹車馬各有差」とある。

 (15-6)原文「別都宮室園囿」。
 「園囿」は、「植物園と動物園。亭を設け、鳥獣を飼ったりする囲みのある庭園」(『全訳漢辞海』)

 州置刺史、別駕・治中從事、諸曹從事等員、所領中郡以上及江陽・朱提郡、郡各置部從事一人、小郡亦置一人、又有主簿・門亭長・錄事・記室書佐・諸曹佐・守從事・武猛從事等、凡吏四十一人、卒二十人、諸州邊遠、或有山險、濱近寇賊・羌夷者、又置弓馬從事五十餘人、徐州又置淮海、涼州置河津、諸州置都水從事各一人、涼・益州置吏八十五人、卒二十人、荊州又置監佃督一人、
 郡皆置太守、河南郡京師所在、則曰尹、諸王國以內史掌太守之任、又置主簿・主記室・門下賊曹・議生・門下史・記室史・錄事史・書佐・循行・幹・小史・五官掾・功曹史・功曹書佐・循行小史・五官掾等員、郡國戶不滿五千者、置職吏五十人、散吏十三人、五千戶以上、則職吏六十三人、散吏二十一人、萬戶以上、職吏六十九人、散吏三十九人、郡國皆置文學掾一人、
 縣大者置令、小者置長、有主簿、錄事史、主記室史、門下書佐・幹、游徼、議生、循行功曹史・小史、廷掾、功曹史・小史・書佐・幹、戶曹掾・史・幹、法曹門幹、金倉賊曹掾・史、兵曹史、吏曹史、獄小史、獄門亭長、都亭長、賊捕掾等員、戶不滿三百以下、職吏十八人、散吏四人、三百以上、職吏二十八人、散吏六人、五百以上、職吏四十人、散吏八人、千以上、職吏五十三人、散吏十二人、千五百以上、職吏六十八人、散吏一十八人、三千以上、職吏八十八人、散吏二十六人、
 郡國及縣、農月皆隨所領戶多少爲差、散吏爲勸農、又縣五百以上皆置鄕、三千以上置二鄕、五千以上置三鄕、萬以上置四鄕、鄕置嗇夫一人、鄕戶不滿千以下、置治書史一人、千以上置史・佐各一人、正一人、五千五百以上、置史一人、佐二人、縣率百戶置里吏一人、其土廣人稀、聽隨宜置里吏、限不得減五十戶、戶千以上、置校官掾一人、
 縣皆置方略吏四人、洛陽縣置六部尉、江左以後、建康亦置六部尉、餘大縣置二人、次縣・小縣各一人、鄴・長安置吏如三千戶以上之制、

 州には刺史を置き、別駕・治中從事、諸曹の從事等の員あり。所領する中郡以上及び江陽・朱提郡には、郡ごとに各部從事一人を置き、小郡にも亦た一人を置く。又た主簿・門亭の長・錄事・記室の書佐・諸曹の佐・守從事・武猛從事等有り。凡せて吏は四十一人、卒は二十人なり。諸州の邊遠なる、或いは山險有り、寇賊・羌夷に濱近する者には、又た弓馬從事五十餘人を置く。徐州には又た淮海を置き、涼州には河津を置き、諸州には都水從事各一人を置く。涼・益州には吏八十五人、卒二十人を置く。荊州には又た監佃の督一人を置く。
 郡には皆な太守を置き、河南郡は京師の在る所なれば、則ち尹と曰ふ。諸の王國は內史を以て太守の任を掌り、又た主簿・主記室・門下の賊曹・議生・門下の史・記室の史・錄事の史・書佐・循行・幹・小史・五官の掾・功曹の史・功曹の書佐・循行小史・五官の掾等の員を置く。郡國の戶の五千に滿たざる者には、職吏五十人、散吏十三人、五千戶以上には、則ち職吏六十三人、散吏二十一人、萬戶以上には、職吏六十九人、散吏三十九人を置く。郡國には皆な文學の掾一人を置く。
 縣は大なる者には令を置き、小なる者には長を置く。主簿、錄事の史、主記室の史、門下の書佐・幹、游徼、議生、循行功曹の史・小史、廷掾、功曹の史・小史・書佐・幹、戶曹の掾・史・幹、法曹の門幹、金倉賊曹の掾・史、兵曹の史、吏曹の史、獄の小史、獄門の亭長、都亭の長、賊捕の掾等の員有り。戶の三百に滿たざる以下には、職吏十八人、散吏四人、三百以上には、職吏二十八人、散吏六人、五百以上には、職吏四十人、散吏八人、千以上には、職吏五十三人、散吏十二人、千五百以上には、職吏六十八人、散吏一十八人、三千以上には、職吏八十八人、散吏二十六人なり。
 郡國及び縣、農月には皆な所領する戶の多少に隨ひて差を爲し、散吏を勸農と爲す。又た縣五百以上には皆な鄕を置き、三千以上には二鄕を置き、五千以上には三鄕を置き、萬以上には四鄕を置き、鄕には嗇夫一人を置く。鄕の戶千に滿たざる以下には、治書の史一人を置き、千以上には史・佐各一人、正一人を置き、五千五百以上には、史一人、佐二人を置く。縣率ゐる百戶ごとに里吏一人を置く。其の土廣く人稀ならば、宜しきに隨ひて里吏を置くことを聽すも、限りて五十戶を減らすことを得ず。戶の千以上には、校官の掾一人を置く。
 縣には皆な方略の吏四人を置き、洛陽縣には六部尉を置く。江左以後、建康にも亦た六部尉を置き、餘りの大縣には二人を、次縣・小縣には各一人を置く。鄴・長安に吏を置くことは三千戶以上の制の如くす。

 州には刺史を置き、別駕・治中従事、諸曹の従事等の人員があった。所領する中郡以上及び江陽郡と朱提郡には、郡ごとに各々部従事一人を置き、小郡にも同じく一人を置いた。また主簿・門亭の長・録事・記室の書佐・諸曹の佐・守従事・武猛従事等があった。合わせて吏(小役人)は四十一人、卒(下僕)は二十人であった。諸州の遠く離れた地域であったり、険しい山々があったり、寇賊(呉や五胡十六国等の国々)や羌族に接近している地域には、また弓馬従事五十余人を置いた。徐州にはまた淮海を置き、涼州には河津を置き、諸州には都水従事各々一人を置いた。涼州と益州には吏八十五人、卒二十人を置いた。荊州にはまた監佃の督一人を置いた。
 郡にはみな太守を置いたが、河南郡は京師のある場所なので、尹といった(16-1)。諸々の王国は内史として太守の任務を担当し、また主簿・主記室・門下の賊曹・議生・門下の史・記室の史・録事の史・書佐・循行・幹・小史・五官の掾・功曹の史・功曹の書佐・循行小史・五官の掾等の人員を置いた。五千戸未満の郡国には、職吏五十人、散吏十三人、五千戸以上には、職吏六十三人、散吏二十一人、一万戸以上には、職吏六十九人、散吏三十九人を置いた。郡国にはみな文学の掾一人を置いた。
 県は大県には令を置き、小県には長を置いた。主簿、録事の史、主記室の史、門下の書佐・幹、游徼、議生、循行功曹の史・小史、廷掾、功曹の史・小史・書佐・幹、戸曹の掾・史・幹、法曹の門幹、金倉賊曹(金曹・倉曹・賊曹)の掾・史、兵曹の掾・史(16-2)、吏曹の史、獄の小史、獄門の亭長、都亭の長・賊捕の掾等の人員があった。三百戸未満には、職吏十八人、散吏四人、三百戸以上には、職吏二十八人、散吏六人、五百戸以上には、職吏四十人、散吏八人、千戸以上には、職吏五十三人、散吏十二人、千五百戸以上には、職吏六十八人、散吏十八人、三千戸以上には、職吏八十八人、散吏二十六人であった。
 郡国及び県は、農業の多忙な月にはみな所領する戸数に従って差はあったが、散吏を勧農掾とした(16-3)。また五百戸以上の県にはみな郷を置き、三千戸以上には二郷を置き、五千戸以上には三郷を置き、一万戸以上には四郷を置き、郷には嗇夫一人を置いた。千戸未満の郷には、治書の史一人を置き、千戸以上には〔治書の〕史と〔治書の〕佐各々一人、正一人を置き、五千五百戸以上には、史一人、佐二人を置いた。県に所属する百戸ごとに〔里を置いて〕里吏一人を置いた。その土地が広く人が疎らであれば、時と場合によって〔百戸に達せずとも〕里吏を置くことを許可したが、限度として五十戸を下回ることは認められなかった。千戸以上〔の郷〕には、校官の掾一人を置いた。
 県にはみな方略の吏四人を置き、洛陽県には六部尉を置いた。江左以後、建康にも同じく六部尉を置き、ほかの大県には二人を、次県と小県には各々一人を置いた。鄴と長安に吏を置くことは三千戸以上の制度と同じくした。

 (16-1)原文「河南郡京師所在、則曰尹、諸王國以內史掌太守之任」。
 東晋では、丹楊(丹陽)が京師であった。
 帝紀第六「元帝紀」太興元年(318)六月の条に、「改丹楊內史爲丹楊尹」とある。

 (16-2)原文「金倉賊曹掾・史、兵曹史」。
 斠注の当該箇所に、「案集古錄司馬整碑陰有金曹・倉曹・賊曹・左右兵曹掾、金石錄彭祈碑陰亦有兵曹掾、志文于兵曹下、失載一掾字也、又有金曹典事、疑其職在掾史之上」とある。
 ここでは、「兵曹史」を「兵曹史」として訳す。

 (16-3)原文「散吏爲勸農」。
 『後漢書』志第二十八「百官五」に、「諸曹略如郡員、五官爲廷掾、監鄕五部、春夏爲勸農掾、秋冬爲制度掾」とある。
 ここでは、「勸農」を「勸農」として訳す。

 四中郞將、竝後漢置、歷魏及晉、竝有其職、江左彌重、
 護羌・夷・蠻等校尉、案武帝置南蠻校尉於襄陽、西戎校尉於長安、南夷校尉於寧州、元康中、護羌校尉爲涼州刺史、西戎校尉爲雍州刺史、南蠻校尉爲荊州刺史、及江左初、省南蠻校尉、尋又置於江陵、改南夷校尉曰鎭蠻校尉、及安帝時、於襄陽置寧蠻校尉、
 護匈奴・羌・戎・蠻・夷・越中郞將、案武帝置四中郞將、或領刺史、或持節爲之、武帝又置平越中郞將、居廣州、主護南越、

 四中郞將は、竝びに後漢置き、魏を歷て晉に及びても、竝びに其の職有り、江左には彌重し。
 護羌・夷・蠻等の校尉は、案ずるに武帝は南蠻校尉を襄陽に、西戎校尉を長安に、南夷校尉を寧州に置く。元康中には、護羌校尉を涼州の刺史と爲し、西戎校尉を雍州の刺史と爲し、南蠻校尉を荊州の刺史と爲す。江左の初めに及び、南蠻校尉を省くも、尋いで又た江陵に置き、南夷校尉を改めて鎭蠻校尉と曰ふ。安帝の時に及び、襄陽に於いて寧蠻校尉を置く。
 護匈奴・羌・戎・蠻・夷・越中郞將は、案ずるに武帝は四中郞將を置き、或いは刺史を領せしめ、或いは持節もて之と爲す。武帝は又た平越中郞將を置き、廣州に居き、南越を護るを主らしむ。

 四中郎将(東・西・南・北中郎将)は、みな後漢が置き、魏をへて晋に及んでも、並びにそれらの職があり、東晋ではいよいよ重職となった。
 護羌・夷・蛮等の校尉は、思うに武帝が南蛮校尉を襄陽に、西戎校尉を長安に、南夷校尉を寧州に置いたのであろう。元康年間(291-299)には、護羌校尉を涼州の刺史となし、西戎校尉を雍州の刺史となし、南蛮校尉を荊州の刺史とした。東晋の初年に及び、南蛮校尉を省いたが、まもなくしてまた江陵に置き、南夷校尉を改めて鎮蛮校尉といった。安帝の時代に及び、襄陽に寧蛮校尉を置いた。
 護匈奴・羌・戎・蛮・夷・越中郎将は、思うに武帝が四中郎将を置き、刺史を兼任させたり、持節としたりして、これらとしたのであろう。武帝はまた平越中郎将を置き、広州に居留させ、南越の護鎮を主管させた。

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2004.09.12 一部暫定公開開始