漢書巻十九上
百官公卿表第七上
師古曰、漢制、三公號稱萬石、其俸月各三百五十斛穀、其稱中二千石者月各百八十斛、二千石者百二十斛、比二千石者百斛、千石者九十斛、比千石者八十斛、六百石者七十斛、比六百石者六十斛、四百石者五十斛、比四百石者四十五斛、三百石者四十斛、比三百石者三十七斛、二百石者三十斛、比二百石者二十七斛、一百石者十六斛、 | 師古曰く、「漢の制には、三公は號して萬石と稱し、其の俸は月ごとに各〻三百五十斛穀。其れ中二千石を稱する者は月ごとに各〻百八十斛、二千石なる者は百二十斛、比二千石なる者は百斛、千石なる者は九十斛、比千石なる者は八十斛、六百石なる者は七十斛、比六百石なる者は六十斛、四百石なる者は五十斛、比四百石なる者は四十五斛、三百石なる者は四十斛、比三百石なる者は三十七斛、二百石なる者は三十斛、比二百石なる者は二十七斛、一百石なる者は十六斛たり」と。 | |
以後、本文に対する注釈は、(1)(2)(3)……の符号をつけ、顔注に対する注釈は、(一-1)(一-2)(二-1)……等の符号をつけ、両者を区別した。 |
易敍宓羲・神農・黃帝作敎化民〔一〕、而傳述其官〔二〕、以爲宓羲龍師名官〔三〕、神農火師火名〔四〕、黃帝雲師雲名〔五〕、少昊鳥師鳥名〔六〕、自顓頊以來、爲民師而命以民事〔七〕、有重黎・句芒・祝融・后土・蓐收・玄冥之官、然已上矣〔八〕、書載唐虞之際、命羲和四子〔九〕順天文、授民時、咨四岳、以擧賢材、揚側陋〔十〕、十有二牧、柔遠能邇〔十一〕、禹作司空、平水土〔十二〕、棄作后稷、播百穀〔十三〕、卨作司徒、敷五敎〔十四〕、咎繇作士、正五刑〔十五〕、垂作共工、利器用〔十六〕、○作朕虞、育草木鳥獸〔十七〕、伯夷作秩宗、典三禮〔十八〕、夔典樂、和神人〔十九〕、龍作納言、出入帝命〔二十〕、夏・殷亡聞焉〔二十一〕、周官則備矣〔二十二〕、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、各官司空、是爲六卿〔二十三〕、各有徒屬職分、用於百事〔二十四〕、太師・太傅・太保、是爲三公〔二十五〕、蓋參天子、坐而議政、無不總統、故不以一職爲官名、又立三少爲之副、少師・少傅・少保、是爲孤卿、與六卿爲九焉、記曰三公無官、言有其人然後充之〔二十六〕、舜之於堯、伊尹於湯、周公・召公於周、是也、或說司馬主天、司徒主人、司空主土、是爲三公、四岳謂四方諸侯、自周衰、官失而百職亂、戰國竝爭、各變異、秦兼天下、建皇帝之號〔二十七〕、立百官之職、漢因循而不革〔二十八〕、明簡易、隨時宜也、其後頗有所改、王莽簒位、慕從古官、而吏民弗安、亦多虐政、遂以亂亡、故略表擧大分〔二十九〕、以通古今、備溫故知新之義云〔三十〕、 | 易(繁辞伝下)に敍ぶらく「宓羲・神農・黃帝は敎へを作して民を化す〔一〕」と。而して傳(『春秋左氏伝』昭公十七年)には其の官を述べ〔二〕、以爲へらく「宓羲は龍師もて官に名づけ〔三〕、神農は火師もて名に火づけ〔四〕、黃帝は雲師もて名に雲づけ〔五〕、少昊は鳥師もて名に鳥づく〔六〕」と。顓頊自り以來、民の師と爲りて而して命に民の事を以てし〔七〕、重黎・句芒・祝融・后土・蓐收・玄冥の官有り、然して已上なり〔八〕。書(『尚書』堯典)には唐虞の際を載せ、羲和の四子に命じて〔九〕天文に順ひ、民に時を授け、四岳に咨り、以て賢材を擧げ、側陋を揚げしめ〔十〕、十有二牧、遠きを柔(やす)んじて邇きを能(よ)くし〔十一〕、禹を司空と作し、水土を平げ〔十二〕、棄を后稷と作し、百穀を播(ま)かしめ〔十三〕、卨を司徒と作し、五敎を敷かしめ〔十四〕、咎繇を士と作し、五刑を正せしめ〔十五〕、垂を共工と作し、器用を利(をさ)めしめ〔十六〕、○を朕虞と作し、草木鳥獸を育てしめ〔十七〕、伯夷を秩宗と作し、三禮を典らしめ〔十八〕、夔を典樂とし、神人を和がしめ〔十九〕、龍を納言と作し、帝命を出入せしむ〔二十〕。夏・殷には焉を聞くに亡ぶも〔二十一〕、周の官は則ち備はれり〔二十二〕。天官は冢宰、地官は司徒、春官は宗伯、夏官は司馬、秋官は司寇、各官は司空にして、是れを六卿と爲し〔二十三〕、各〻徒屬の職分有り、百事に用ふ〔二十四〕。太師・太傅・太保をは、是れを三公と爲し〔二十五〕、蓋し天子に參じ、坐して而して政を議し、總統せざる無くば、故に一職を以て官の名と爲さず。又た三少を立てて之の副と爲し、少師・少傅・少保をは、是れを孤卿と爲し、六卿と與に九と爲す。記に三公に官無しと曰ふは、其の人有りて然して後に之れを充たすを言ひ〔二十六〕、舜の堯に於ける、伊尹の湯に於ける、周公・召の周に於ける、是なり。或る說には「司馬は天を主り、司徒は人を主り、司空は土を主り、是れを三公と爲す(『韓詩外伝』八)(1)」と。四岳は四方の諸侯を謂ふ。周衰へて自り、官失はれて而して百職亂れ、戰國竝び爭ひ、各〻變異し、秦は天下を兼ね、皇帝の號を建て〔二十七〕、百官の職を立つ。漢は因循して而して革めず〔二十八〕、簡易を明にし、時宜に隨ふなり。其の後には頗る改むる所有り。王莽簒位し、古の官を慕從し、而して吏民は安んぜず、亦た虐政多ければ、遂に以て亂亡す。故に略〻大分を表擧し〔二十九〕、以て古今に通じ、溫故知新の義を備ふと云ふ〔三十〕。 | |
〔一〕應劭曰、宓羲氏始作八卦、神農氏爲耒耜、黃帝氏作衣裳、神而化之、使民宜之、師古曰、見易下繋、宓音伏、字本作虙、轉寫訛謬耳、 | 〔一〕應劭曰く、「宓羲氏は始めて八卦を作り、神農氏は耒耜を爲し、黃帝氏は衣裳を作り、神にして而して之れを化し、民をして之れを宜しくせしむ」と。師古曰く、「易の下繋に見ゆ(一-1)。宓の音は伏、字は本は虙に作るも、轉寫して訛謬のみ」と。 | |
〔二〕師古曰、春秋左氏傳載郯子所說也、 | 〔二〕師古曰く、「春秋左氏傳に載る郯子の所說なり(『春秋左氏伝』昭公十七年)(二-1)」と。 | |
〔三〕應劭曰、師者長也、以龍紀其官長、故爲龍師、春官爲靑龍、夏官爲赤龍、秋官爲白龍、冬官爲黑龍、中官爲黃龍、張晏曰、庖羲將興、神龍負圖而至、因以名師與官也、 | 〔三〕應劭曰く、「師とは長なり。龍を以て其の官長を紀せば、故に龍師と爲す。春官を靑龍と爲し、夏官を赤龍と爲し、秋官を白龍と爲し、冬官を黑龍と爲し、中官を黃龍と爲す」と。張晏曰く、「庖羲の將に興らんとせしときに、神龍は圖を負ひて而して至れば、因りて以て師と官に名づくなり」と。 | |
〔四〕應劭曰、火德也、故爲炎帝、春官爲大火、夏官爲鶉火、秋官爲西火、各官爲北火、中官爲中火、張晏曰、神農有火星之瑞、因以名師與官也、 | 〔四〕應劭曰く、「火德なり。故に炎帝と爲す。春官を大火と爲し、夏官を鶉火と爲し、秋官を西火と爲し、各官を北火と爲し、中官を中火と爲す」と。張晏曰く、「神農に火星の瑞有れば、因りて以て師と官に名づくなり」と。 | |
〔五〕應劭曰、黃帝受命有雲瑞、故以雲紀事也、由是而言、故春官爲靑雲、夏官爲縉雲、秋官爲白雲、冬官爲黑雲、中官爲黃雲、張晏曰、黃帝有景雲之應、因以名師與官也、 | 〔五〕應劭曰く、「黃帝の命を受けしときに雲瑞有れば、故に以て雲を事に紀するなり。是れに由りて而して言へば、故に春官を靑雲と爲し、夏官を縉雲と爲し、秋官を白雲と爲し、冬官を黑雲と爲し、中官を黃雲と爲す」と。張晏曰く、「黃帝に景雲の應有れば、因りて以て師と官に名づくなり」と。 | |
〔六〕應劭曰、金天氏、黃帝子靑陽也、張晏曰、少昊之立、鳳鳥適至、因以名官、鳳鳥氏爲歷正、玄鳥司分、伯趙司至、靑鳥司開、丹鳥司閉、師古曰、玄鳥、燕也、伯趙、伯勞也、靑鳥、鶬鴳也、丹鳥、鷩雉也、 | 〔六〕應劭曰く、「金天氏は、黃帝の子の靑陽なり」と。張晏曰く、「少昊の立つや、鳳鳥適に至れば、因りて以て官に名づく。鳳鳥氏は歷正と爲り、玄鳥は分を司り、伯趙は至を司り、靑鳥は開を司り、丹鳥は閉を司る」と。師古曰く、「玄鳥、燕なり。伯趙、伯勞なり。靑鳥、鶬鴳なり。丹鳥は、鷩雉なり」と。 | |
〔七〕應劭曰、顓頊氏代少昊者也、不能紀遠、始以職事命官也、春官爲木正、夏官爲火正、秋官爲金正、冬官爲水正、中官爲土正、師古曰、自此以上皆郯子之辭也、 | 〔七〕應劭曰く、「顓頊氏は少昊に代りし者なり。遠なるを紀する能はずも、始めて職事を以て官に命ずるなり。春官を木正と爲し、夏官を火正と爲し、秋官を金正と爲し、冬官を水正と爲し、中官を土正と爲す」と。師古曰く、「此れ自り以上は皆な郯子の辭なり」と。 | |
〔八〕應劭曰、少昊有四叔、重爲句芒、胲爲蓐收、修及煕爲玄冥、顓頊氏有子曰黎、爲祝融、共工氏有子曰句龍、爲后土、故有五行之官、皆封爲上公、祀爲貴神、師古曰、上謂其事久遠也、胲音該、 | 〔八〕應劭曰く、「少昊には四叔有れば、重を句芒と爲し、胲を蓐收と爲し、修及び煕を玄冥と爲す。顓頊氏には子有りて黎と曰ひ、祝融と爲す。共工氏には子有りて句龍と曰ひ、后土と爲す。故に五行の官有り、皆な封じて上公と爲し、祀られて貴神と爲す(『春秋左氏伝』昭公二十九年)(八-1)」と。師古曰く、「上謂其事久遠なり。胲の音は該」と。 | |
〔九〕應劭曰、堯命四子分掌四時之敎化也、張晏曰、四子謂羲仲・羲叔・和仲・和叔也、師古曰、事見虞書堯典、 | 〔九〕應劭曰く、「堯は四子に命じて四時の敎化を分掌せしむるなり」と。張晏曰く、「四子は羲仲・羲叔・和仲・和叔を謂ふなり」と。師古曰く、「事は虞書堯典に見ゆ(九-1)」と。 | |
〔十〕師古曰、四嶽、分主四方諸侯者、 | 〔十〕師古曰く、「四嶽は、四方の諸侯たる者を分主す」と。 | |
〔十一〕應劭曰、牧、州牧也、師古曰、柔、安也、能、善也、邇、近也、 | 〔十一〕應劭曰く、「牧は、州牧なり」と。師古曰く、「柔は、安なり。能は、善なり。邇は、近なり」と。 | |
〔十二〕師古曰、空、穴也、古人穴居、主穿土爲穴以居人也、 | 〔十二〕師古曰く、「空は、穴なり。古人は穴に居れば、土を穿ちて穴を爲して以て人を居らしむるを主るなり」と。 | |
〔十三〕應劭曰、棄、臣名也、后、主也、爲此稷官之主也、師古曰、播謂布種也、 | 〔十三〕應劭曰く、「棄は、臣名なり。后は、主なり。此の稷官の主と爲すなり」と。師古曰く、「播は種を布(ま)くを謂ふなり」と。 | |
〔十四〕應劭曰、五敎、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝也、師古曰、卨音先列反、 | 〔十四〕應劭曰く、「五敎は、父義、母慈、兄友、弟恭、子孝なり」と。師古曰く、「卨の音は先列の反」と。 | |
〔十五〕應劭曰、土、獄官之長、張晏曰、五刑謂墨・刖・劓・剕・宮・大辟也、師古曰、咎音皋、繇音弋昭反、墨、鑿其頟而涅以墨也、刖、斷足也、劓、割鼻也、剕、去髕骨也、宮、陰刑也、大辟、殺之也、 | 〔十五〕應劭曰く、「土は、獄官の長」と。張晏曰く、「五刑は墨・刖・劓・剕・宮・大辟を謂ふなり」と。師古曰く、「咎の音は皋。繇の音は弋昭の反。墨は、其の頟を鑿ちて而して涅(くろ)くするに墨を以てするなり。刖は、足を斷つなり。劓は、鼻を割くなり。剕は、髕骨を去るなり。宮は、陰刑なり。大辟は、之れを殺すなり」と。 | |
〔十六〕應劭曰、垂、臣名也、爲共工、理百工之事也、師古曰、共讀曰龔、 | 〔十六〕應劭曰く、「垂は、臣名なり。共工と爲り、百工の事を理むるなり」と。師古曰く、「共は讀みを龔と曰ふ」と。 | |
〔十七〕應劭曰、○、伯益也、虞、掌山澤禽獸官名也、師古曰、○、古益字也、虞、度也、主商度山川之事、 | 〔十七〕應劭曰く、「○は、伯益なり。虞は、山澤禽獸を掌る官名なり」と。師古曰く、「○は、古の益の字なり。虞は、度なり。山川を商度するの事を主る」と。 | |
〔十八〕應劭曰、伯夷、臣名也、典天神・地祇・人鬼之禮也、師古曰、秩、次也、宗、尊也、主尊神之禮、可以次序也、 | 〔十八〕應劭曰く、「伯夷は、臣名なり。天神・地祇・人鬼の禮を典るなり」と。師古曰く、「秩は、次なり。宗は、尊なり。尊神の禮を主れば、以て次序をす可きなり」と。 | |
〔十九〕應劭曰、夔、臣名也、師古曰、夔音鉅龜反、 | 〔十九〕應劭曰く、「夔は、臣の名なり」と。師古曰く、「夔の音は鉅龜の反」と。 | |
〔二十〕應劭曰、龍、臣名也、納言、如今尙書、管王之喉舌也、師古曰、自此以上皆堯典之文、 | 〔二十〕應劭曰く、「龍は、臣の名なり。納言は、今の尙書の如き、管王の喉舌なり」と。師古曰く、「此れ自り以上は皆な堯典(『尚書』)の文」と。 | |
〔二十一〕師古曰、言夏・殷置官事不見於書傳也、禮記明堂位曰夏后氏官百、殷二百、蓋言其大數而無職號統屬也、 | 〔二十一〕師古曰く、「夏・殷に官を置きし事は書傳に見えずを言ふなり。禮記明堂位に『夏后氏の官は百なり。殷は二百なり』と曰ふは、蓋し言其大數而して無職號統屬(?)なり」と。 | |
〔二十二〕師古曰、事見周書周官篇及周禮也、 | 〔二十二〕師古曰く、「事は周書周官篇及び周禮に見ゆるなり」と。 | |
〔二十三〕師古曰、冢宰掌邦治、司徒掌邦敎、宗伯掌邦禮、司馬掌邦政、司寇掌邦禁、司空掌邦土也、 | 〔二十三〕師古曰く、「冢宰は邦の治を掌り、司徒は邦の敎を掌り、宗伯は邦の禮を掌、司馬は邦の政を掌り、司寇は邦の禁を掌り、司空は邦の土を掌るなり」と。 | |
〔二十四〕師古曰、言百者、擧大數也、分音扶問反、 | 〔二十四〕師古曰く、「百を言ふとは、大數を擧ぐるなり。分の音は扶問の反」と。 | |
〔二十五〕應劭曰、師、訓也、傅、覆也、保、養也、師古曰、傅、相也、 | 〔二十五〕應劭曰く、「師は、訓なり。傅は、覆なり。保は、養なり」と。師古曰く、「傅は、相なり」と。 | |
〔二十六〕師古曰、不必備員、有德者乃處之、 | 〔二十六〕師古曰く、「必ずしも員を備へず、有德の者を乃ち之れに處らしむ」と。 | |
〔二十七〕張晏曰、五帝自以德不及三皇、故自去其皇號、三王又以德不及五帝、自損稱王、秦自以德襃二行、故兼稱之、 | 〔二十七〕張晏曰く、「五帝は自ら德は三皇に及ばざるを以て、故に自ら其の皇號を去れり。三王は又た德は五帝に及ばざるを以て、自ら損して王と稱せり。秦は自ら德は二行に襃するを以てせば、故に之れを兼稱せり」と。 | |
〔二十八〕師古曰、革、改也、 | 〔二十八〕師古曰く、「革は、改なり」と。 | |
〔二十九〕師古曰、分音扶問反、 | 〔二十九〕師古曰く、「分の音は扶問の反」と。 | |
〔三十〕師古曰、論語稱孔子曰、溫故而知新、可以爲師矣、溫猶厚也、言厚蓄故事、多識於新、則可爲師、 | 〔三十〕師古曰く、「論語(為政第二)に孔子を稱へて曰く、『故きを溫めて而して新しきを知り、以て師と爲す可し』。溫は猶ほ厚のごときなり。言ふならく厚く故事を蓄はば、多くは新しきを識り、則ち師と爲す可し」と。 | |
(1)『韓詩外伝』八に、「三公者何、曰司馬・司空・司徒也、司馬主天、司空主土、司徒主人」とある。 (一-1)『易』繋辞伝下に、「神農氏沒、黃帝堯舜氏作、通其變、使民不倦、神而化之、使民宜之、(略)黃帝堯舜垂衣裳而天下治、蓋取諸乾坤」とある。 (二-1)『春秋左氏伝』昭公十七年に、「郯子曰、吾祖也、我知之。昔者黃帝氏以雲紀、故爲雲師而雲名、炎帝氏以火紀、故爲火師而火名、(略)大皞氏以龍紀、故爲龍師而龍名、我高祖少皞摯之立也、鳳鳥適至、故紀於鳥、爲鳥師而鳥名、鳳鳥氏、歷正也」とある。 (八-1)『春秋左氏伝』昭公二十九年に、「故有五行之官、是謂五官、實列受氏姓、封爲上公、祀爲貴神、社稷五祀、是尊是奉、(略)獻子曰、社稷五祀、誰氏之五官也、對曰、少皞氏有四叔、曰重、曰該、曰脩、曰煕、實能金木及水、使重爲句芒、該爲蓐收、脩及煕爲玄冥、世不失職、遂濟窮桑、此其三祀也、顓頊氏有子、曰犂、爲祝融、共工氏有子、曰句龍、爲后土、此其二祀也、后土爲社」とある。 (九-1)『尚書』堯典に、「分命羲仲、宅嵎夷、曰暘谷、寅賓出日、平秩東作、日中星鳥、以殷仲春、厥民析、鳥獸孳尾、申命羲叔、宅南交、平秩南訛、敬致、日永星火、以正仲夏、厥民因、鳥獸希革、分命和仲、宅西、曰昧谷、寅餞納日、平秩西成、宵中星虛、以殷仲秋、厥民夷、鳥獸毛毨、申命和叔、宅朔方、曰幽都、平在朔易、日短星昴、以正仲冬、厥民隩、鳥獸氄毛」とある。 |
相國・丞相〔一〕、皆秦官、金印紫綬、掌丞天子助理萬機、秦有左右〔二〕、高帝卽位、置一丞相、十一年更名相國、綠綬、孝惠・高后置左右丞相、文帝二年復置一丞相、有兩長史、秩千石、哀帝元壽二年更名大司徒、武帝元狩五年初置司直、秩比二千石、掌佐丞相擧不法、 | 相國・丞相は〔一〕、皆な秦の官なり。金印紫綬たり、天子を丞けて萬機を助理するを掌る。秦には左右有り〔二〕、高帝卽位し、一丞相を置き、十一年(前196)には名を相國に更め、綠綬たり。孝惠・高后は左右の丞相を置き、文帝の二年(前178)には復た一丞相を置く。兩長史有り、秩は千石たり。哀帝の元壽二年(前1)には名を大司徒に更む。武帝の元狩五年(前118)に初めて司直を置き、秩は比二千石たり、丞相を佐けて不法を擧ぐるを掌る。 | |
〔一〕應劭曰、丞者、承也、相者、助也、 | 〔一〕應劭曰く、「丞とは、承なり。相とは、助なり」と。 | |
〔二〕荀悅曰、秦本次國、命卿二人、是以置左右丞相、無三公官、 | 〔二〕荀悅曰く、「秦は本は次國なれども、卿二人に命じ、是れを以て左右の丞相を置き、三公の官無し」と。 |
太尉、秦官〔一〕、金印紫綬、掌武事、武帝建元二年省、元狩四年初置大司馬〔二〕、以冠將軍之號〔三〕、宣帝地節三年置大司馬、不冠將軍、亦無印綬官屬、成帝綏和元年初賜大司馬金印紫綬、置官屬、祿比丞相、去將軍、哀帝建平二年復去大司馬印綬・官屬、冠將軍如故、元壽二年復賜大司馬印綬、置官屬、去將軍、位在司徒上、有長史、秩千石、 | 太尉は、秦の官なり〔一〕。金印紫綬たり、武事を掌る。武帝の建元二年(前139)に省く。元狩四年(前119)に初めて大司馬を置き〔二〕、以て將軍の號を冠す〔三〕。宣帝の地節三年(前67)には大司馬を置くも、將軍を冠せず、亦た印綬官屬無し。成帝の綏和元年(前8)に初めて大司馬に金印紫綬を賜ひ、官屬を置き、祿は丞相に比べしめ、將軍を去る。哀帝の建平二年(前5)には復た大司馬の印綬・官屬を去るも、將軍を冠するは故の如くす。元壽二年(前1)には復た大司馬の印綬を賜ひ、官屬を置き、將軍を去り、位は司徒の上に在らしむ。長史有り、秩は千石たり。 | |
〔一〕應劭曰、自上安下曰尉、武官悉以爲稱、 | 〔一〕應劭曰く、「上安自り下を尉と曰ひ、武官は悉く以て稱と爲す」と。 | |
〔二〕應劭曰、司馬、主武也、諸武官亦以爲號、 | 〔二〕應劭曰く、「司馬は、武を主るなり。諸〻の武官も亦た以て號と爲す」と。 | |
〔三〕師古曰、冠者、加於其上共爲一官也、 | 〔三〕師古曰く、「冠とは、其の上に加へて共に一官と爲すなり」と。 |
御史大夫、秦官〔一〕、位上卿、銀印靑綬、掌副丞相、有兩丞、秩千石、一曰中丞、在殿中蘭臺、掌圖籍祕書、外督部刺史、內領侍御史員十五人、受公卿奏事、擧劾按章、成帝綏和元年更名大司空、金印紫綬、祿比丞相、置長史如中丞、官職如故、哀帝建平二年復爲御史大夫、元壽二年復爲大司空、御史中丞更名御史長史、侍御史有繍衣直指〔二〕、出討姦猾、治大獄、武帝所制、不常置、 | 御史大夫は、秦の官なり〔一〕。上卿に位し、銀印靑綬、丞相を副へるを掌る。兩丞有り、秩は千石たり。一に中丞と曰ひ、殿中の蘭臺に在り、圖籍祕書を掌り、外には部刺史を督し、內には侍御史員十五人を領し、公卿の奏事を受け、劾を擧げて章を按す。成帝の綏和元年(前8)には名を大司空に更め、金印紫綬たり、祿は丞相に比べしめ、長史を置くこと中丞の如くし、官職は故の如くす。哀帝の建平二年(前5)には復た御史大夫と爲し、元壽二年(前1)には復た大司空と爲し、御史中丞は名を御史長史に更む。侍御史には繍衣直指有り〔二〕、出でて姦猾を討ち、大獄を治め、武帝の制せし所なれども、常には置かず。 | |
〔一〕應劭曰、侍御史之率、故稱大夫云、臣瓚曰、茂陵書御史大夫秩中二千石、 | 〔一〕應劭曰く、「侍御史の率なれば、故に大夫を稱すと云ふ」と。臣瓚曰く、「茂陵書に御史大夫の秩は中二千石たり」と。 | |
〔二〕服虔曰、指事而行、無阿私也、師古曰、衣以繍者、尊寵之也、 | 〔二〕服虔曰く、「事を指して而して行くも、阿私すること無きなり」と。師古曰く、「衣に繍を以てする者は、之れを尊寵するなり」と。 |
太傅、古官、高后元年初置、金印紫綬、後省、八年復置、後省、哀帝元壽二年復置、位在三公上、 | 太傅は、古の官なり。高后の元年(前187)に初めて置き、金印紫綬たり。後に省き、八年(前180)には復た置き、後に省く。哀帝の元壽二年(前1)には復た置く。位は三公の上に在り。 |
太師・太保、皆古官、平帝元始元年皆初置、金印紫綬、太師位在太傅上、太保次太傅、 | 太師・太保は、皆な古の官なり。平帝の元始元年(後1)に皆な初めて置き、金印紫綬たり。太師の位は太傅の上に在り、太保は太傅に次ぐ。 |
前後左右將軍、皆周末官、秦因之、位上卿、金印紫綬、漢不常置、或有前後、或有左右、皆掌兵及四夷、有長史、秩千石、 | 前後左右の將軍は、皆な周の末の官なり。秦は之れに因り、上卿に位し、金印紫綬たり。漢には常には置かず、或いは前後有り、或いは左右有り、皆な兵及び四夷を掌る。長史有り、秩は千石たり。 |
奉常、秦官、掌宗廟禮儀、有丞、景帝中六年更名太常〔一〕、屬官有太樂・太祝・太宰・太史・太卜・太醫六令丞、又均官・都水兩長丞〔二〕、又諸廟寢園食官令長丞、有廱太宰・太祝令丞〔三〕、五畤各一尉、又博士及諸陵縣皆屬焉、景帝中六年更名太祝爲祠祀、武帝太初元年更曰廟祀、初置太卜、博士、秦官、掌通古今、秩比六百石、員多至數十人、武帝建元五年初置五經博士、宣帝黃龍元年稍增員十二人、元帝永光元年分諸陵邑屬三輔、王莽改太常曰秩宗、 | 奉常は、秦の官なり。宗廟の禮儀を掌り、丞有り。景帝の中六年(前144)には名を太常に更む〔一〕。屬官には太樂・太祝・太宰・太史・太卜・太醫の六令丞有り、又た均官・都水の兩長丞〔二〕、又た諸廟寢園の食官令長丞、廱の太宰・太祝の令丞〔三〕(1)、五畤には各〻一尉有り。又た博士及び諸陵縣は皆な焉に屬す。景帝の中六年(前144)には名を更めて太祝を祠祀と爲し、武帝の太初元年(前104)には更めて廟祀と曰ひ、初めて太卜を置く。博士は、秦の官なり。古今に通ずるを掌り、秩は比六百石たり、員の多くは數十人に至る。武帝の建元五年(前136)に初めて五經の博士を置き、宣帝の黃龍元年(前49)には稍增して員は十二人。元帝の永光元年(前43)には諸陵邑を分かちて三輔に屬せしむ。王莽は太常を改めて秩宗と曰ふ。 | |
〔一〕應劭曰、常、典也、掌典三禮也、師古曰、太常、王者旌旗也、畫日月焉、王有大事則建以行、禮官主奉持之、故曰奉常也、後改曰太常、尊大之義也、 | 〔一〕應劭曰く、「常は、典なり。三禮を掌典するなり」と。師古曰く、「太常は、王者の旌旗なり。日月を畫き、王に大事有らば則ち建ちて以て行ひ、禮官は之れを奉持するを主れば、故に奉常と曰ふなり。後に改めて太常と曰ひ、尊大の義なり」と。 | |
〔二〕服虔曰、均官、主山陵上槀輸入之官也、如淳曰、律、都水治渠隄水門、三輔黃圖云三輔皆有都水也、 | 〔二〕服虔曰く、「均官は、山陵上槀輸入の官を主るなり」と。如淳曰く、「律に、都水は渠隄水門を治む。三輔黃圖に云ふならく『三輔には皆な都水有るなり』」と。 | |
〔三〕文穎曰、廱、主熟食官、如淳曰、五畤在廱、故特置太宰以下諸官、師古曰、如說是也、雍、右扶風之縣也、太宰卽是具食之官、不當復置饔人也、 | 〔三〕文穎曰く、「廱は、熟食を主る官」と。如淳曰く、「五畤は廱に在れば、故に特に太宰以下の諸官を置く」と。師古曰く、「如の說は是なり。雍は、右扶風の縣なり。太宰は卽ち是は食を具ふるの官なれば、當に復た饔人を置かざるなり」と。 | |
(1)原文「有廱太宰・太祝令丞」。 |
郞中令、秦官〔一〕、掌宮殿掖門戶、有丞、武帝太初元年更名光祿勳〔二〕、屬官有大夫・郞・謁者、皆秦官、又期門・羽林皆屬焉〔三〕、大夫掌論議、有太中大夫・中大夫・諫大夫、皆無員、多至數十人、武帝元狩五年初置諫大夫、秩比八百石、太初元年更名中大夫爲光祿大夫、秩比二千石、太中大夫秩比千石如故、郞掌守門戶、出充車騎、有議郞・中郞・侍郞・郞中、皆無員、多至千人、議郞・中郞秩比六百石、侍郞比四百石、郞中比三百石、中郞有五官・左・右三將、秩皆比二千石、郞中有車・戶・騎三將〔四〕、秩皆比千石、謁者掌賓讚受事、員七十人、秩比六百石、有僕射〔五〕、秩比千石、期門掌執兵送從、武帝建元三年初置、比郞、無員、多至千人、有僕射、秩比千石、平帝元始元年更名虎賁郞〔六〕、置中郞將、秩比二千石、羽林掌送從、次期門、武帝太初元年初置、名曰建章營騎、後更名羽林騎、又取從軍死事之子孫養羽林、官敎以五兵、號曰羽林孤兒〔七〕、羽林有令丞、宣帝令中郞將・騎都尉監羽林、秩比二千石、僕射、秦官、自侍中・尙書・博士・郞皆有、古者重武官、有主射以督課之、軍屯吏・騶・宰・永巷宮人皆有、取其領事之號〔八〕、 | 郞中令は、秦の官なり〔一〕。宮殿掖門戶を掌り、丞有り。武帝の太初元年(前104)に名を光祿勳に更む〔二〕。屬官には大夫・郞・謁者有り、皆な秦の官なり。又た期門・羽林は皆な焉に屬す〔三〕。大夫は論議を掌り、太中大夫・中大夫・諫大夫有り、皆な員無く、多くは數十人に至る。武帝の元狩五年(前118)に初めて諫大夫を置き、秩は比八百石たり。太初元年(前104)には名を更めて中大夫を光祿大夫と爲し、秩は比二千石たり、太中大夫の秩比千石は故の如くす。郞は門戶を守るを掌り、出でては車騎に充てられ、議郞・中郞・侍郞・郞中有り、皆な員無く、多くは千人に至る。議郞・中郞の秩は比六百石、侍郞は比四百石、郞中は比三百石たり。中郞には五官・左・右の三將有り、秩は皆な比二千石たり。郞中には車・戶・騎の三將有り〔四〕、秩は皆な比千石たり。謁者は賓讚の事を受くるを掌り、員は七十人、秩は比六百石たり。僕射有り〔五〕、秩は比千石たり。期門は兵を執りて送從を掌り、武帝の建元三年(前138)に初めて置き、郞に比べしめ、員無く、多くは千人に至る。僕射有り、秩は比千石たり。平帝の元始元年(後1)には名を虎賁郞に更め〔六〕、中郞將を置き、秩は比二千石たり。羽林は送從を掌り、期門に次し、武帝の太初元年(前104)に初めて置き、名づけて建章營騎と曰ひ、後に名を羽林騎に更む。又た從軍して事に死するの子孫を取りて羽林に養ひ、官は敎ふるに五兵を以てし(1)、號して羽林孤兒と曰ふ〔七〕。羽林には令丞有り。宣帝は中郞將・騎都尉をして羽林を監せしめ、秩は比二千石たり。僕射は、秦の官なり。侍中・尙書・博士・郞自り皆な有り。古は武官を重んじ、主射有りて以て之れを督課し、軍屯の吏・騶・宰・永巷の宮人は皆な有り、其の事を領する號を取る〔八〕。 | |
〔一〕臣瓚曰、主郞內諸官、故曰郞中令、 | 〔一〕臣瓚曰く、「郞內の諸官を主れば、故に郞中令と曰ふ」と。 | |
〔二〕應劭曰、光者、明也、祿者、爵也、勳、功也、如淳曰、胡公曰勳之言閽也、閽者、古主門官也、光祿主宮門、師古曰、應說是也、 | 〔二〕應劭曰く、「光とは、明なり。祿とは、爵なり。勳は、功なり」と。如淳曰く、「胡公曰く『勳の言は閽なり』。閽とは、古の門を主る官なり。光祿は宮門を主る」と。師古曰く、「應の說は是なり」と。 | |
〔三〕服虔曰、與期門下以微行、後遂以名官、師古曰、羽林、亦宿衞之官、言其如羽之疾、如林之多也、一說羽所以爲王者羽翼也、 | 〔三〕服虔曰く、「與に期門の下を以て微行すれば、後に遂に以て官に名づく」と。師古曰く、「羽林も、亦た宿衞の官なり。言は其の羽の疾きが如き、林の多きが如しなり。一說に羽は王者爲る所以の羽翼なり(?)」と。 | |
〔四〕如淳曰、主車曰車郞、主戶衞曰戶郞、漢儀注郞中令主郞中、左右車將主左右車郞、左右戶將主左右戶郞也、 | 〔四〕如淳曰く、「車を主るを車郞と曰ひ、戶衞を主るを戶郞と曰ふ。漢儀注に郞中令は郞中を主り、左右の車將は左右の車郞を主り、左右の戶將は左右の戶郞を主るなり」と。 | |
〔五〕應劭曰、謁、請也、白也、僕、主也、 | 〔五〕應劭曰く、「謁は、請なり。白なり。僕は、主なり」と。 | |
〔六〕師古曰、賁讀與奔同、言如猛獸之奔、 | 〔六〕師古曰く、「賁の讀みは奔と同じにして、言は猛獸の奔(はし)るが如し」と。 | |
〔七〕師古曰、五兵謂弓矢・殳・矛・戈・戟也、 | 〔七〕師古曰く、「五兵は弓矢・殳・矛・戈・戟を謂ふなり」と。 | |
〔八〕孟康曰、皆有僕射、隨所領之事以爲號也、若軍屯吏則曰軍屯僕射、永巷則曰永巷僕射、 | 〔八〕孟康曰く、「皆な僕射有り、領する所の事に隨ひて以て號と爲すなり。軍屯の吏は則ち軍屯僕射と曰ひ、永巷は則ち永巷僕射と曰ふが若し」と。 | |
(1)原文「又取從軍死事之子孫養羽林、官敎以五兵」。 |
衞尉、秦官、掌宮門衞屯兵〔一〕、有丞、景帝初更名中大夫令、後元年復爲衞尉、屬官有公車司馬・衞士・旅賁三令丞〔二〕、衞士三丞、又諸屯衞候・司馬二十二官皆屬焉、長樂・建章・甘泉衞尉皆掌其宮〔三〕、職略同、不常置、 | 衞尉は、秦の官なり。宮門衞屯の兵を掌り〔一〕、丞有り。景帝の初めには名を中大夫令に更め、後元年(前143)には復た衞尉と爲す。屬官には公車司馬・衞士・旅賁の三令丞有り〔二〕。衞士には三丞。又た諸〻の屯衞候・司馬の二十二官は皆な焉に屬す。長樂・建章・甘泉の衞尉は皆な其の宮を掌り〔三〕、職は略〻同じくするも、常には置かず。 | |
〔一〕師古曰、漢舊儀云衞尉寺在宮內、胡廣云主宮闕之門內衞士、於周垣下爲區廬、區廬者、若今之仗宿屋矣、 | 〔一〕師古曰く、「漢舊儀に云ふならく『衞尉寺は宮內に在り』。胡廣云ふならく『宮闕の門內の衞士を主り、周垣の下に於いて區廬を爲す』。區廬とは、今の仗宿屋の若し」と。 | |
〔二〕師古曰、漢官儀云公車司馬掌殿司馬門、夜徼宮中、天下上事及闕下凡所徵召皆總領之、令秩六百石、旅、衆也、賁與奔同、言爲奔走之任也、 | 〔二〕師古曰く、「漢官儀に云ふならく『公車司馬は殿の司馬門を掌り、夜は宮中を徼り、天下の上事及び闕下の凡そ徵召する所をは皆な之れを總領し、令の秩は六百石たり』。旅は、衆なり。賁は奔と同じにして、言は奔走の任を爲すなり」と。 | |
〔三〕師古曰、各隨所掌之宮以名官、 | 〔三〕師古曰く、「各〻掌る所の宮に隨ひて以て官に名づく」と。 |
太僕、秦官〔一〕、掌輿馬、有兩丞、屬官有大廐・未央・家馬三令、各五丞一尉〔二〕、又車府・路軨・騎馬・駿馬四令丞〔三〕、又龍馬・閑駒・橐泉・騊駼・承華五監長丞〔四〕、又邊郡六牧師菀令、各三丞〔五〕、又牧橐・昆蹏令丞〔六〕皆屬焉、中太僕掌皇太后輿馬、不常置也、武帝太初元年更名家馬爲挏馬〔七〕、初置路軨、 | 太僕は、秦の官なり〔一〕。輿馬を掌り、兩丞有り。屬官には大廐・未央・家馬の三令、各〻五丞一尉有り〔二〕。又た車府・路軨・騎馬・駿馬の四令丞〔三〕、又た龍馬・閑駒・橐泉・騊駼・承華五監の長丞〔四〕、又た邊郡六には牧師菀令、各〻三丞〔五〕、又た牧橐・昆蹏の令丞〔六〕は皆な焉に屬す。中太僕は皇太后の輿馬を掌るも、常には置かざるなり。武帝の太初元年(前104)に名を更めて家馬を挏馬と爲し〔七〕、初めて路軨を置く。 | |
〔一〕應劭曰、周穆王所置也、蓋大御衆僕之長、中大夫也、 | 〔一〕應劭曰く、「周の穆王の置きし所なり。蓋し大御衆僕の長なれば、中大夫なり」と。 | |
〔二〕師古曰、家馬者、主供天子私用、非大祀戎事軍國所須、故謂之家馬也、 | 〔二〕師古曰く、「家馬とは、天子の私用に供するを主り、大祀戎事軍國に須(もち)ふる所に非ざれば、故に之れを家馬と謂ふなり」と。 | |
〔三〕伏儼曰、主乘輿路車、又主凡小車、軨、今之小馬車曲輿也、師古曰、軨音零、 | 〔三〕伏儼曰く、「乘輿路車を主り、又た凡そ小さき車を主る。軨は、今の小さき馬車の曲輿なり」と。師古曰く、「軨の音は零」と。 | |
〔四〕如淳曰、橐泉廏在橐泉宮下、騊駼、野馬也、師古曰、閑、闌、養馬之所也、故曰閑駒、騊駼出北海中、其狀如馬、非野馬也、騊音徒高反、駼音塗、 | 〔四〕如淳曰く、「橐泉廏は橐泉宮の下に在り。騊駼は、野馬なり」と。師古曰く、「閑は、闌なり。馬を養ふの所なり。故に閑駒と曰ふ。騊駼は北海の中より出で、其の狀は馬の如くにして、野馬に非ざるなり。騊の音は徒高の反。駼の音は塗」と。 | |
〔五〕師古曰、漢官儀云牧師諸菀三十六所、分置北邊・西邊、分養馬三十萬頭、 | 〔五〕師古曰く、「漢官儀に云ふならく『牧師諸菀は三十六所にして、北邊・西邊を分置し、分かちて馬三十萬頭を養ふ』」と。 | |
〔六〕應劭曰、橐、橐佗、昆蹏、好馬名也、蹏音啼、如淳曰、爾雅曰、昆蹏硏、善升甗者也、因以爲廏名、師古曰、牧橐、言牧養橐佗也、昆、獸名也、蹏硏者、謂其蹏下平也、善升甗者、謂山形如甑、而能升之也、蹏卽古蹄字耳、硏音五見反、甗音言、又音牛偃反、 | 〔六〕應劭曰く、「橐は、橐佗。昆蹏は、好き馬の名なり。蹏の音は啼」と。如淳曰く、「爾雅(釈畜第十九)に曰く、『昆は蹏(ひづめ)を硏(たい)らにし、善く甗(やま)に升る』者なれば、因りて以て廏の名と爲す」と。師古曰く、「牧橐は、橐佗(駱駝)を牧養するを言ふなり。昆は、獸の名なり。蹏硏とは、其の蹏下の平らなるを謂ふなり。善く升に甗るとは、山の形の甑の如しを謂ひ、而して能く之れに升るなり。蹏は卽ち古の蹄の字なるのみ。硏の音は五見の反。甗の音は言、又た音は牛偃の反」と。 | |
〔七〕應劭曰、主乳馬、取其汁挏治之、味酢可飮、因以名官也、如淳曰、主乳馬、以韋革爲夾兜、受數斗、盛馬乳、挏取其上肥、因名曰挏馬、禮樂志丞相孔光奏省樂官七十二人、給大官挏馬酒、今梁州亦名馬酪爲馬酒、晉灼曰、挏音挺挏之挏、師古曰、晉音是也、挏音徒孔反、 | 〔七〕應劭曰く、「乳馬を主り、其の汁を取りて之れを挏治し、味は酢にして飮む可くば、因りて以て官に名づくなり」と。如淳曰く、「乳馬を主り、韋革を以て夾兜と爲し、數斗を受け、馬乳を盛り、其の上肥を挏取すれば、因りて名づけて挏馬と曰ふ。禮樂志に『丞相孔光は奏して樂官七十二人を省き、大官に挏馬酒を給ふ』。今の梁州にも亦た馬酪を名づけて馬酒と爲す」と。晉灼曰く、「挏の音は挺挏の挏」と。師古曰く、「晉の音は是なり。挏の音は徒孔の反」と。 |
廷尉、秦官〔一〕、掌刑辟、有正・左右監、秩皆千石、景帝中六年更名大理、武帝建元四年復爲廷尉、宣帝地節三年初置左右平、秩皆六百石、哀帝元壽二年復爲大理、王莽改曰作士、 | 廷尉は、秦の官なり〔一〕。刑辟を掌り、正・左右の監有り、秩は皆な千石たり。景帝の中六年(前144)には名を大理に更め、武帝の建元四年(前137)には復た廷尉と爲す。宣帝の地節三年(前67)に初めて左右の平を置き、秩は皆な六百石たり。哀帝の元壽二年(前1)には復た大理と爲す。王莽は改めて作士と曰ふ。 | |
〔一〕應劭曰、聽獄必質諸朝廷、與衆共之、兵獄同制、故稱廷尉、師古曰、廷、平也、治獄貴平、故以爲號、 | 〔一〕應劭曰く、「獄を聽くには必ず諸をは朝廷に質し、衆と之れを共にし、兵獄は同じ制なれば、故に廷尉と稱す」と。師古曰く、「廷は、平なり。獄を治むるに平らかなるを貴べば、故に以て號と爲す」と。 |
典客、秦官、掌諸歸義蠻夷、有丞、景帝中六年(前144)更名大行令、武帝太初元年更名大鴻臚〔一〕、屬官有行人・譯官・別火三令丞〔二〕及郡邸長丞〔三〕、武帝太初元年更名行人爲大行令、初置別火、王莽改大鴻臚曰典樂、初、置郡國邸屬少府、中屬中尉、後屬大鴻臚、 | 典客は、秦の官なり。諸〻の義に歸する蠻夷を掌り、丞有り。景帝の中六年(前144)には名を大行令に更め、武帝の太初元年(前104)には名を大鴻臚に更む〔一〕。屬官には行人・譯官・別火の三令丞〔二〕及び郡邸の長丞有り〔三〕。武帝の太初元年(前104)には名を更めて行人を大行令と爲し、初めて別火を置く。王莽は大鴻臚を改めて典樂と曰ふ。初めは、郡國の邸を置きて少府に屬し、中には中尉に屬し、後には大鴻臚に屬す。 | |
〔一〕應劭曰、郊廟行禮讚九賓、鴻聲臚傳之也、 | 〔一〕應劭曰く、「郊廟の行禮は九賓を讚へ、鴻の聲は之れを臚(つら)ねて傳ふるなり」と。 | |
〔二〕如淳曰、漢儀注別火、獄令官、主治改火之事、 | 〔二〕如淳曰く、「漢儀注に『別火は、獄の令官にして、火の事を改むるを治むるを主る』」と。 | |
〔三〕師古曰、主諸郡之邸在京師者也、 | 〔三〕師古曰く、「諸郡の邸の京師に在る者を主るなり」と。 |
宗正、秦官〔一〕、掌親屬、有丞、平帝元始四年更名宗伯、屬官有都司空令丞〔二〕、內官長丞〔三〕、又諸公主家令・門尉皆屬焉、王莽并其官於秩宗、初、內官屬少府、中屬主爵、後屬宗正、 | 宗正は、秦の官なり〔一〕。親屬を掌り、丞有り。平帝の元始四年(4)には名を宗伯に更む。屬官には都司空の令丞〔二〕、內官の長丞有り〔三〕。又た諸公主の家令・門尉は皆な焉に屬す。王莽は其官を秩宗に并す。初めは、內官は少府に屬し、中には主爵に屬し、後には宗正に屬す。 | |
〔一〕應劭曰、周成王之時彤伯入爲宗正也、師古曰、彤伯爲宗伯、不謂之宗正、 | 〔一〕應劭曰く、「周の成王の時に彤伯は入りて宗正と爲るなり」と。師古曰く、「彤伯を宗伯と爲せば、之れを宗正と謂はず」と。 | |
〔二〕如淳曰、律、司空主水及罪人、賈誼曰輸之司空、編之徒官、 | 〔二〕如淳曰く、「律に、司空は水及び罪人を主り、賈誼曰く『之れを司空に輸し、之れを徒官に編す(列伝第十八「賈誼伝」)』」と。 | |
〔三〕師古曰、律曆志主分寸尺丈也、 | 〔三〕師古曰く、「律曆志に『分寸尺丈を主るなり』」と。 |
治粟內史、秦官、掌穀貨、有兩丞、景帝後元年更名大農令、武帝太初元年更名大司農、屬官有太倉・均輸・平準・都內・籍田五令丞〔一〕、斡官・鐵市兩長丞〔二〕、又郡國諸倉農監・都水六十五官長丞皆屬焉、騪粟都尉〔三〕、武帝軍官、不常置、王莽改大司農曰羲和、後更爲納言、初、斡官屬少府、中屬主爵、後屬大司農、 | 治粟內史は、秦の官なり。穀貨を掌り、兩丞有り。景帝の後元年(前143)には名を大農令に更め、武帝の太初元年(前104)には名を大司農に更む。屬官には太倉・均輸・平準・都內・籍田の五令丞〔一〕、斡官・鐵市の兩長丞有り〔二〕。又た郡國の諸倉農監・都水六十五官の長丞は皆な焉に屬す。騪粟都尉〔三〕は、武帝の軍官にして、常には置かず。王莽は大司農を改めて羲和と曰ひ、後に更めて納言と爲す。初めは、斡官は少府に屬し、中には主爵に屬し、後には大司農に屬す。 | |
〔一〕孟康曰、均輸、謂諸當所有輸於官者、皆令輸其地土所饒、平其所在時賈、官更於佗處賣之、輸者旣便、而官有利也、 | 〔一〕孟康曰く、「均輸は、諸〻の當所の官に輸有る者を謂ひ(?)、皆な其の地土の饒かなる所に輸し、其の所在の時賈を平らにせしめ、官は更に佗(わび)しき處に於いて之れを賣り、輸とは旣に便なれば、而して官に利有るなり」と。 | |
〔二〕如淳曰、斡音筦、或作幹、斡、主也、主均輸之事、所謂斡鹽鐵而榷酒酤也、晉灼曰、此竹箭幹之官長也、均輸自有令、師古曰、如說近是也、縱作幹讀、當以幹持財貨之事耳、非謂箭幹也、 | 〔二〕如淳曰く、「斡の音は筦、或いは幹に作る。斡は、主なり。均輸の事を主り、所謂鹽鐵を斡りて而して酒酤を榷するなり」と。晉灼曰く、「此れは竹箭幹の官の長なり。均輸には自ら令有り」と。師古曰く、「如の說は近是なり。縱作幹讀(?)、當以幹持財貨の事のみ(?)、箭幹と謂ふに非ざるなり」と。 | |
〔三〕服虔曰、騪音搜狩之搜、搜、索也、 | 〔三〕服虔曰く、「騪の音は搜狩の搜。搜は、索なり」と。 |
少府、秦官、掌山海池澤之稅、以給共養〔一〕、有六丞、屬官有尙書・符節・太醫・太官・湯官・導官・樂府・若盧・考工室・左弋・居室・甘泉居室・左右司空・東織・西織・東園匠十六官令丞〔二〕、又胞人・都水・均官三長丞〔三〕、又上林中十池監〔四〕、又中書謁者・黃門・鉤盾・尙方・御府・永巷・內者・宦者八官令丞〔五〕、諸僕射・署長・中黃門皆屬焉〔六〕、武帝太初元年更名考工室爲考工、左弋爲佽飛、居室爲保宮、甘泉居室爲昆臺、永巷爲掖廷、佽飛掌弋射、有九丞兩尉、太官七丞、昆臺五丞、樂府三丞、掖廷八丞、宦者七丞、鉤盾五丞兩尉、成帝建始四年更名中書謁者令爲中謁者令、初置尙書、員五人、有四丞、河平元年省東織、更名西織爲織室、綏和二年、哀帝省樂府、王莽改少府曰共工、 | 少府は、秦官にして、山海池澤の稅を掌り、以て共養に給し〔一〕、六丞有り。屬官には尙書・符節・太醫・太官・湯官・導官・樂府・若盧・考工室・左弋・居室・甘泉居室・左右の司空・東織・西織・東園の匠十六官の令丞有り〔二〕、又た胞人・都水・均官の三長丞〔三〕、又た上林中の十池の監〔四〕、又た中書謁者・黃門・鉤盾・尙方・御府・永巷・內者・宦者八官の令丞〔五〕。諸〻の僕射・署長・中黃門は皆な焉に屬す〔六〕。武帝の太初元年(前104)には名を更めて考工室を考工と爲し、左弋を佽飛と爲し、居室を保宮と爲し、甘泉居室を昆臺と爲し、永巷を掖廷と爲す。佽飛は弋射を掌り、九丞兩尉有り、太官には七丞、昆臺には五丞、樂府には三丞、掖廷には八丞、宦者には七丞、鉤盾には五丞兩尉。成帝の建始四年(前29)には名を更めて中書謁者令を中謁者令と爲し、初めて尙書を置き、員は五人、四丞有り。河平元年(前28)には東織を省き、名を更めて西織を織室と爲す。綏和二年(前7)には、哀帝は樂府を省く。王莽は少府を改めて共工と曰ふ。 | |
〔一〕應劭曰、名曰禁錢、以給私養、自別爲藏、少者、小也、故稱少府、師古曰、大司農供軍國之用、少府以養天子也、共音居用反、養音弋亮反、 | 〔一〕應劭曰く、「名づけて禁錢と曰ひ、以て私養に給し、自ら別に藏と爲す。少とは、小なれば、故に少府と稱す」と。師古曰く、「大司農は軍國の用を供し、少府は以て天子を養ふなり。共の音は居用の反、養の音は弋亮の反」と。 | |
〔二〕服虔曰、若盧、詔獄也、鄧展曰、舊洛陽兩獄、一名若盧、主受親戚婦女、如淳曰、若盧、官名也、藏兵器、品令曰若盧郞中二十人、主弩射、漢儀注有若盧獄令、主治庫兵將相大臣、臣瓚曰、冬官爲考工、主作器械也、師古曰、太官主膳食、湯官主餠餌、導官主擇米、若盧、如說是也、左弋、地名、東園匠、主作陵內器物者也、 | 〔二〕服虔曰く、「若盧は、詔獄なり」と。鄧展曰く、「舊き洛陽の兩獄は、一名は若盧、親戚婦女を受くるを主る」と。如淳曰く、「若盧は、官名なり。兵器を藏す。品令に曰く『若盧の郞中は二十人にして、弩射を主る』。漢儀注に『若盧の獄令有り、庫兵將相大臣を治るを主る』」と。臣瓚曰く、「冬官を考工と爲し、器械を作るを主るなり」と。師古曰く、「太官は膳食を主り、湯官は餠餌を主り、導官は擇米を主る。若盧、如說是なり。左弋は、地名。東園匠は、陵內器物の者を作るを主るなり」と。 | |
〔三〕師古曰、胞人、主掌宰割者也、胞與庖同、 | 〔三〕師古曰く、「胞人は、宰割を主掌する者なり。胞は庖と同じ」と。 | |
〔四〕師古曰、三輔黃圖云上林中池上籞五所、而此云十池監、未詳其數、 | 〔四〕師古曰く、「三輔黃圖に云ふならく『上林中の池上の五所を籞し、而して此れを十池監と云ふも、未だ其の數を詳かにせず』」と。 | |
〔五〕師古曰、鉤盾主近苑囿、尙方主作禁器物、御府主天子衣服也、 | 〔五〕師古曰く、「鉤盾は近苑囿を主り、尙方は禁器物を作るを主り、御府は天子の衣服を主るなり」と。 | |
〔六〕師古曰、中黃門、奄人居禁中在黃門之內給事者也、 | 〔六〕師古曰く、「中黃門は、奄人の禁中に居りて黃門の內に在りて給事する者なり」と。 |
中尉、秦官、掌徼循京師〔一〕、有兩丞・候・司馬・千人〔二〕、武帝太初元年更名執金吾〔三〕、屬官有中壘・寺互・武庫・都船四令丞〔四〕、都船・武庫有三丞、中壘兩尉、又式道左右中候・候丞及左右京輔都尉・尉丞兵卒皆屬焉〔五〕、初、寺互屬少府、中屬主爵、後屬中尉、 | 中尉は、秦の官なり。京師を徼循するを掌り〔一〕、兩丞・候・司馬・千人有り〔二〕。武帝の太初元年(前104)には名を執金吾に更む〔三〕。屬官には中壘・寺互・武庫・都船の四令丞有り〔四〕。都船・武庫には三丞、中壘には兩尉有り。又た式道左右の中候・候丞及に左右の京輔都尉・尉丞兵卒は皆な焉に屬す〔五〕。初めは、寺互は少府に屬し、中には主爵に屬し、後には中尉に屬す。 | |
〔一〕如淳曰、所謂遊徼、徼循禁備盜賊也、師古曰、徼謂遮繞也、徼音工釣反、 | 〔一〕如淳曰く、「所謂遊徼は、徼循して盜賊を禁備するなり」と。師古曰く、「徼は遮繞を謂ふなり。徼の音は工釣の反」と。 | |
〔二〕師古曰、候及司馬及千人皆官名也、屬國都尉云有丞・候・千人、西域都護云司馬・候・千人各二人、凡此千人、皆官名也、 | 〔二〕師古曰く、「候及び司馬及び千人は皆な官名なり。屬國都尉には丞・候・千人有ると云ふ。西域都護には司馬・候・千人各〻二人と云ふ。凡そ此の千人は、皆な官名なり」と。 | |
〔三〕應劭曰、吾者、禦也、掌執金革以禦非常、師古曰、金吾、鳥名也、主辟不祥、天子出行、職主先導、以禦非常、故執此鳥之象、因以名官、 | 〔三〕應劭曰く、「吾とは、禦なり。金革を執りて以て非常を禦ぐを掌る」と。師古曰く、「金吾は、鳥の名なり。不祥を辟(のぞ)くを主る。天子出行せば、職は先導して、以て非常を禦ぐを主り、故に此の鳥の象を執れば、因りて以て官に名づく」と。 | |
〔四〕如淳曰、漢儀注有寺互、都船獄令、治水官也、 | 〔四〕如淳曰く、「漢儀注に寺互有り。都船の獄令は、水官を治むるなり」と。 | |
〔五〕應劭曰、式道凡三候、車駕出還、式道候持麾至宮門、門乃開、師古曰、式、表也、 | 〔五〕應劭曰く、「式道は凡そ三候にして、車駕出還せしときに、式道候は麾を持ちて宮門に至れば、門乃ち開く」と。師古曰く、「式は、表なり」と。 |
自太常至執金吾、秩皆中二千石、丞皆千石、 | 太常自り執金吾に至るまで、秩は皆な中二千石、丞は皆な千石たり。 |
太子太傅・少傅、古官、屬官有太子門大夫〔一〕・庶子〔二〕・先馬〔三〕・舍人、 | 太子太傅・少傅は、古の官なり。屬官には太子門大夫〔一〕・庶子〔二〕・先馬〔三〕・舍人有り。 | |
〔一〕應劭曰、員五人、秩六百石、 | 〔一〕應劭曰く、「員は五人、秩は六百石たり」と。 | |
〔二〕應劭曰、員五人、秩六百石、 | 〔二〕應劭曰く、「員は五人、秩は六百石たり」と。 | |
〔三〕張晏曰、先馬、員十六人、秩比謁者、如淳曰、前驅也、國語曰句踐親爲夫差先馬、先或作洗也、 | 〔三〕張晏曰く、「先馬は、員は十六人、秩は謁者に比ぶ」と。如淳曰く、「前驅なり。國語に曰く『句踐は親(みづか)ら夫差を先馬と爲す(三-1)』。先は或いは洗に作るなり」と。 | |
(三-1)『国語』越語上に、「然後卑事夫差、宦士三百人於吳、其身親爲夫差前馬」とある。 |
將作少府、秦官、掌治宮室、有兩丞・左右中候、景帝中六年更名將作大匠、屬官有石庫・東園主章・左右前後中校七令丞〔一〕、又主章長丞〔二〕、武帝太初元年更名東園主章爲木工、成帝陽朔三年省中候及左右前後中校五丞、 | 將作少府は、秦の官なり。宮室を治むるを掌り、兩丞・左右の中候有り。景帝の中六年(前144)に名を將作大匠に更む。屬官には石庫・東園主章・左右前後中校の七令丞有り〔一〕、又た主章長丞〔二〕。武帝の太初元年(前104)には名を更めて東園主章を木工と爲す。成帝の陽朔三年(前22)には中候及び左右前後の中校の五丞を省く。 | |
〔一〕如淳曰、章謂大材也、舊將作大匠主材吏名章曹掾、師古曰、今所謂木鍾者、蓋章聲之轉耳、東園主章掌大材、以供東園大匠也、 | 〔一〕如淳曰く、「章は大材を謂ふなり。舊は將作大匠は材吏を主りて章曹掾と名づく」と。師古曰く、「今の所謂木鍾とは、蓋し章聲の轉のみ。東園主章は大材を掌り、以て東園大匠に供するなり」と。 | |
〔二〕師古曰、掌凡大木也、 | 〔二〕師古曰く、「凡そ大木を掌るなり」と。 |
詹事、秦官〔一〕、掌皇后・太子家、有丞〔二〕、屬官有太子率更・家令丞、僕・中盾・衞率・廚廐長丞〔三〕、又中長秋・私府・永巷・倉・廐・祠祀・食官令長丞、諸宦官皆屬焉〔四〕、成帝鴻嘉三年省詹事官、并屬大長秋〔五〕、長信詹事掌皇太后宮、景帝中六年更名長信少府〔六〕、平帝元始四年更名長樂少府、 | 詹事は、秦の官なり〔一〕。皇后・太子の家を掌り、丞有り〔二〕。屬官には太子率更・家令丞、僕・中盾・衞率・廚廐長丞有り〔三〕。又た中長秋・私府・永巷・倉・廐・祠祀・食官令長丞。諸〻の宦官は皆な焉に屬す〔四〕。成帝の鴻嘉三年(前18)には詹事の官を省き、并せて大長秋に屬せしむ〔五〕。長信詹事は皇太后の宮を掌り、景帝の中六年(前144)には名を長信少府に更め〔六〕、平帝の元始四年(4)には名を長樂少府に更む。 | |
〔一〕應劭曰、詹、省也、給也、臣瓚曰、茂陵書詹事秩眞二千石、 | 〔一〕應劭曰く、「詹は、省なり。給なり」と。臣瓚曰く、「茂陵書に『詹事の秩は眞二千石たり』」と。 | |
〔二〕師古曰、皇后・太子各置詹事、隨其所在以名官、 | 〔二〕師古曰く、「皇后・太子には各〻詹事を置き、其の在る所に隨ひて以て官に名づく」と。 | |
〔三〕張晏曰、太子稱家、故曰家令、臣瓚曰、茂陵中書太子家令秩八百石、應劭曰、中盾主周衞徼道、秩四百石、如淳曰、漢儀注衞率主門衞、秩千石、師古曰、掌知漏刻、故曰率更、自此以上、太子之官也、更音工衡反、 | 〔三〕張晏曰く、「太子には家を稱せば、故に家令と曰ふ」と。臣瓚曰く、「茂陵中書に『太子家令の秩は八百石たり』」と。應劭曰く、「中盾は周衞徼道を主り、秩は四百石たり」と。如淳曰く、「漢儀注に『衞率は門衞を主り、秩は千石たり』」と。師古曰く、「漏刻を知るを掌れば、故に率更と曰ふ。此れ自り以上は、太子の官なり。更の音は工衡の反」と。 | |
〔四〕師古曰、自此以上、皆皇后之官、 | 〔四〕師古曰く、「此れ自り以上は、皆な皇后の官」と。 | |
〔五〕師古曰、省皇后詹事、總屬長秋也、 | 〔五〕師古曰く、「皇后の詹事を省き、總て長秋に屬せしむなり」と。 | |
〔六〕張晏曰、以太后所居宮爲名也、居長信宮則曰長信少府、居長樂宮則曰長樂少府也、 | 〔六〕張晏曰く、「太后の居する所の宮を以て名と爲すなり。長信宮に居らば則ち長信の少府と曰ひ、長樂宮に居らば則ち長樂の少府と曰ふなり」と。 |
將行、秦官〔一〕、景帝中六年更名大長秋〔二〕、或用中人、或用士人〔三〕、 | 將行は、秦の官なり〔一〕。景帝の中六年(前144)には名を大長秋に更め〔二〕、或いは中人を用ひ、或いは士人を用ふ〔三〕。 | |
〔一〕應劭曰、皇后卿也、 | 〔一〕應劭曰く、「皇后の卿なり」と。 | |
〔二〕師古曰、秋者收成之時、長者恆久之義、故以爲皇后官名、 | 〔二〕師古曰く、「秋とは成(みの)りを收むるの時にして、長とは恆久の義なれば、故に以て皇后の官名と爲す」と。 | |
〔三〕師古曰、中人、奄人也、 | 〔三〕師古曰く、「中人は、奄人なり」と。 |
典屬國、秦官、掌蠻夷降者、武帝元狩三年昆邪王降〔一〕、復增屬國、置都尉・丞・候・千人、屬官、九譯令、成帝河平元年省并大鴻臚、 | 典屬國は、秦の官なり。蠻夷の降りし者を掌る。武帝の元狩三年(前120)に昆邪王降り〔一〕、復た屬國を增し、都尉・丞・候・千人を置き、屬官には、九譯令。成帝の河平元年(前28)には省きて大鴻臚に并す。 | |
〔一〕師古曰、昆音下門反、 | 〔一〕師古曰く、「昆の音は下門の反」と。 |
水衡都尉〔一〕、武帝元鼎二年初置、掌上林苑、有五丞、屬官有上林・均輸・御羞・禁圃・輯濯・鍾官・技巧・六廐・辯銅九官令丞〔二〕、又衡官・水司空・都水・農倉、又甘泉上林・都水七官長丞皆屬焉、上林有八丞十二尉、均輸四丞、御羞兩丞、都水三丞、禁圃兩尉、甘泉上林四丞、成帝建始二年省技巧・六廐官、王莽改水衡都尉曰予虞、初、御羞・上林・衡官及鑄錢皆屬少府、 | 水衡都尉は〔一〕、武帝の元鼎二年(前115)に初めて置き、上林苑を掌り、五丞有り。屬官には上林・均輸・御羞・禁圃・輯濯・鍾官・技巧・六廐・辯銅九官の令丞有り〔二〕。又た衡官・水司空・都水・農倉、又た甘泉の上林・都水七官の長丞は皆な焉に屬す。上林には八丞十二尉、均輸には四丞、御羞には兩丞、都水には三丞、禁圃には兩尉、甘泉の上林には四丞有り。成帝の建始二年(前31)には技巧・六廐の官を省く。王莽は水衡都尉を改めて予虞と曰ふ。初めは、御羞・上林・衡官及び鑄錢は皆な少府に屬す。 | |
〔一〕應劭曰、古山林之官曰衡、掌諸池苑、故稱水衡、張晏曰、主都水及上林苑、故曰水衡、主諸官、故曰都、有卒徒武事、故曰尉、師古曰、衡、平也、主平其稅入、 | 〔一〕應劭曰く、「古は山林の官を衡と曰ふ。諸〻の池苑を掌れば、故に水衡と稱す」と。張晏曰く、「都水及び上林苑を主れば、故に水衡と曰ふ。諸官を主れば、故に都と曰ふ。卒徒に武事有れば、故に尉と曰ふ」と。師古曰く、「衡は、平なり。其の稅入を平ぐを主る」と。 | |
〔二〕如淳曰、御羞、地名也、在藍田、其土肥沃、多出御物可進者、揚雄傳謂之御宿、三輔黃圖御羞・宜春皆苑名也、輯濯、船官也、鍾官、主鑄錢官也、辯銅、主分別銅之種類也、師古曰、御宿、則今長安城南御宿川也、不在藍田、羞・宿聲相近、故或云御羞、或云御宿耳、羞者、珍羞所出、宿者、止宿之義、輯讀與楫同、音集、濯音直孝反、皆所以行船也、漢舊儀云天子六廏、未央・承華・騊駼・騎馬・輅軨・大廏也、馬皆萬匹、據此表、大僕屬官以有大廏・未央・輅軨・騎馬・騊駼・承華、而水衡又云六廏技巧官、是則技巧之徒供六廏者、其官別屬水衡也、 | 〔二〕如淳曰く、「御羞は、地名なり。藍田に在り、其の土の肥沃なれば、多くの御物を進む可き者を出だし、揚雄傳(列伝第五十七上)に『之れを御宿と謂ふ』。三輔黃圖に『御羞・宜春は皆な苑の名なり』。輯濯は、船の官なり。鍾官は、鑄錢の官を主るなり。辯銅は、銅の種類を分別するを主るなり」と。師古曰く、「御宿は、則ち今の長安城の南の御宿川なり。藍田には在らず。羞・宿の聲は相い近ければ、故に或いは御羞と云ひ、或いは御宿と云ふのみ。羞とは、珍羞の出づる所にして、宿とは、止宿の義。輯の讀みは楫と同じにして、音は集、濯の音は直孝の反、皆な行船する所以なり。漢舊儀に云ふならく『天子の六廏は、未央・承華・騊駼・騎馬・輅軨・大廏なり。馬は皆な萬匹なり』。此の表に據らば、大僕の屬官には大廏・未央・輅軨・騎馬・騊駼・承華有るを以て、而して水衡には又た六廏技巧の官と云ふは、是れ則ち技巧の徒の六廏に供する者にして、其の官は別に水衡に屬するなり」と。 |
內史、周官、秦因之、掌治京師、景帝二年分置左右內史〔一〕、右內史武帝太初元年更名京兆尹〔二〕、屬官有長安市・廚兩令丞、又都水・鐵官兩長丞、左內史更名左馮翊〔三〕、屬官有廩犧令丞尉〔四〕、又左都水・鐵官・雲壘・長安四市四長丞皆屬焉、 | 內史は、周の官なり。秦は之れに因り、京師を治るを掌る。景帝の二年(前155)には左右の內史を分置す〔一〕。右內史は武帝の太初元年(前104)には名を京兆尹に更め〔二〕、屬官には長安市・廚の兩令丞有り、又た都水・鐵官の兩長丞。左內史は名を左馮翊に更め〔三〕、屬官には廩犧令丞尉〔四〕有り。又た左都水・鐵官・雲壘・長安四市の四長丞は皆な焉に屬す。 | |
〔一〕師古曰、地理志云武帝建元六年置左右內史、而此表云景帝二年分置、表志不同、又據史記、知志誤矣、 | 〔一〕師古曰く、「地理志には武帝建元六年(前135)に左右の內史を置くと云ふも、而して此の表には景帝の二年(前155)に分置すと云へば、表志同じからず。又た史記に據らば、志の誤れるを知らん」と。 | |
〔二〕張晏曰、地絕高曰京、左傳曰莫之與京、十億曰兆、尹、正也、師古曰、京、大也、兆者、衆數、言大衆所在、故云京兆也、 | 〔二〕張晏曰く、「地の絕高なるを京と曰ふ。左傳(荘公二十二年)に曰く『之と與に京(おほ)いなる莫からん』。十億を兆と曰ふ。尹は、正なり」と。師古曰く、「京は、大なり。兆とは、衆き數。大衆の所在を言へば、故に京兆と云ふなり」と。 | |
〔三〕張晏曰、馮、輔也、翊、佐也、 | 〔三〕張晏曰く、「馮は、輔なり。翊は、佐なり」と。 | |
〔四〕師古曰、廩主藏穀、犧主養牲、皆所以供祭祀也、 | 〔四〕師古曰く、「廩は藏穀を主り、犧は養牲を主り、皆な祭祀に供ふる所以なり」と。 |
主爵中尉、秦官、掌列侯、景帝中六年更名都尉、武帝太初元年更名右扶風〔一〕、治內史右地、屬官有掌畜令丞〔二〕、又右都水・鐵官・廐・廱廚四長丞皆屬焉〔三〕、與左馮翊・京兆尹是爲三輔〔四〕、皆有兩丞、列侯更屬大鴻臚、元鼎四年更置三輔都尉・都尉丞各一人、 | 主爵中尉は、秦の官なり。列侯を掌る。景帝の中六年(前144)には名を都尉に更め、武帝の太初元年(前104)には名を右扶風に更め〔一〕、內史の右地を治む。屬官には掌畜令丞有り〔二〕。又た右都水・鐵官・廐・廱廚の四長丞は皆な焉に屬す〔三〕。左馮翊・京兆尹と是れを三輔と爲し〔四〕、皆な兩丞有り。列侯は更めて大鴻臚に屬す。元鼎四年(前113)には更めて三輔都尉・都尉丞各〻一人を置く。 | |
〔一〕張晏曰、扶、助也、風、化也、 | 〔一〕張晏曰く、「扶は、助なり。風は、化なり」と。 | |
〔二〕如淳曰、尹翁歸傳曰豪强有論罪、輸掌畜官、使斫莝、東方朔曰益爲右扶風、畜牧之所在也、 | 〔二〕如淳曰く、「尹翁歸傳(列伝第四十六)に曰く『豪强に罪を論ぜらる有れば、掌畜の官に輸し、莝(まぐさ)を斫(き)らしむ』。東方朔曰く『益を右扶風と爲す(列伝第三十五「東方朔伝」)』、畜牧の所在なり」と。 | |
〔三〕如淳曰、五畤在廱、故有廚、 | 〔三〕如淳曰く、「五畤は廱に在れば、故に廚有り」と。 | |
〔四〕服虔曰、皆治在長安城中、師古曰、三輔黃圖云京兆在尙冠前街東入、故中尉府、馮翊在太上皇廟西入、右扶風在夕陰街北入、故主爵府、長安以東爲京兆、長陵以北爲左馮翊、渭城以西爲右扶風也、 | 〔四〕服虔曰く、「皆な治は長安城の中に在り」と。師古曰く、「三輔黃圖に云ふならく『京兆は尙冠前街の東入に在り、故の中尉府にして、馮翊は太上皇廟の西入に在り、右扶風は夕陰街の北入に在れば、故に爵府を主る』。長安より以東を京兆と爲し、長陵より以北を左馮翊と爲し、渭城より以西を右扶風と爲すなり」と。 |
自太子太傅至右扶風、皆秩二千石、丞六百石、 | 太子太傅自り右扶風に至るまで、皆な秩は二千石、丞は六百石たり。 |
護軍都尉、秦官、武帝元狩四年屬大司馬、成帝綏和元年居大司馬府比司直、哀帝元壽元年更名司寇、平帝元始元年更名護軍、 | 護軍都尉は、秦の官なり。武帝の元狩四年に大司馬に屬せしめ、成帝の綏和元年(前8)には大司馬府に居きて司直に比べしめ、哀帝の元壽元年(前1)には名を司寇に更め、平帝の元始元年(後1)には名を護軍に更む。 |
司隸校尉、周官〔一〕、武帝征和四年初置、持節、從中都官徒千二百人〔二〕、捕巫蠱、督大姦猾〔三〕、後罷其兵、察三輔・三河・弘農、元帝初元四年去節、成帝元延四年省、綏和二年、哀帝復置、但爲司隸、冠進賢冠、屬大司空、比司直、 | 司隸校尉は、周の官なり〔一〕。武帝の征和四年(前89)に初めて置く。節を持ち、中都の官を從へて徒千二百人〔二〕。巫蠱を捕へ、大姦猾を督す〔三〕。後に其の兵を罷め、三輔・三河・弘農を察す。元帝の初元四年(前45)には節を去り、成帝の元延四年(前9)には省く。綏和二年(前7)には、哀帝復た置き、但だ司隸と爲し、進賢の冠を冠し、大司空に屬し、司直に比べしむ。 | |
〔一〕師古曰、以掌徒隸而巡察、故云司隸、 | 〔一〕師古曰く、「徒隸を掌りて而して巡察するを以て、故に司隸と云ふ」と。 | |
〔二〕師古曰、中都官、京師諸官府也、 | 〔二〕師古曰く、「中都の官は、京師の諸〻の官府なり」と。 | |
〔三〕師古曰、督謂察視也、 | 〔三〕師古曰く、「督は察視を謂ふなり」と。 |
城門校尉掌京師城門屯兵、有司馬〔一〕・十二城門候〔二〕、中壘校尉掌北軍壘門內、外掌西域〔三〕、屯騎校尉掌騎士、步兵校尉掌上林苑門屯兵、越騎校尉掌越騎〔四〕、長水校尉掌長水宣曲胡騎〔五〕、又有胡騎校尉、掌池陽胡騎、不常置〔六〕、射聲校尉掌待詔射聲士〔七〕、虎賁校尉掌輕車、凡八校尉、皆武帝初置、有丞・司馬〔八〕、自司隸至虎賁校尉、秩皆二千石、西域都護加官、宣帝地節二年初置、以騎都尉・諫大夫使護西域三十六國、有副校尉、秩比二千石、丞一人、司馬・候・千人各二人、戊己校尉、元帝初元元年置〔九〕、有丞・司馬各一人、候五人、秩比六百石、 | 訓読文 | |
〔一〕師古曰、八屯各有司馬也、 | 訓読文 | |
〔二〕師古曰、門各有候、蕭望之署小苑東門候、亦其比也、 | 訓読文 | |
〔三〕師古曰、掌北軍壘門之內、而又外掌西域、 | 訓読文 | |
〔四〕如淳曰、越人內附、以爲騎也、晉灼曰、取其材力超越也、師古曰、宣紀言佽飛射士・胡越騎、又此有胡騎校尉、如說是、 | 訓読文 | |
〔五〕師古曰、長水、胡名也、宣曲、觀名、胡騎之屯於宣曲者、 | 訓読文 | |
〔六〕師古曰、胡騎之屯池陽者也、 | 訓読文 | |
〔七〕服虔曰、工射者也、冥冥中聞聲則中之、因以名也、應劭曰、須詔所命而射、故曰待詔射也、 | 訓読文 | |
〔八〕師古曰、自中壘以下凡八校尉、城門不在此數中、 | 訓読文 | |
〔九〕師古曰、甲乙丙丁庚辛壬癸皆有正位、唯戊己寄治耳、今所置校尉亦無常居、故取戊己爲名也、有戊校尉、有己校尉、一說戊己居中、鎭覆四方、今所置校尉亦處西域之中撫諸國也、 | 訓読文 |
奉軍都尉掌御乘輿車、駙馬都尉掌駙馬〔一〕、皆武帝初置、秩比二千石、侍中・左右曹・諸吏・散騎・中常侍、皆加官〔二〕、所加或列侯・將軍・卿大夫・將・都尉・尙書・太醫・太官令至郞中、亡員〔三〕、多至數十人、侍中・中常侍得入禁中、諸曹受尙書事、諸吏得舉法、散騎騎竝乘輿車〔四〕、給事中亦加官〔五〕、所加或大夫・博士・議郞、掌顧問應對、位次中常侍、中黃門有給事黃門、位從將大夫、皆秦制、 | 訓読文 | |
〔一〕師古曰、駙、副馬也、非正駕車、皆爲副馬、一曰駙、近也、疾也、 | 訓読文 | |
〔二〕應劭曰、入侍天子、故曰侍中、晉灼曰、漢儀注諸吏・給事中日上朝謁、平尙書奏事、分爲左右曹、魏文帝合散騎・中常侍爲散騎常侍也、 | 訓読文 | |
〔三〕如淳曰、將謂郞將以下也、自列侯下至郞中、皆得有散騎及中常侍加官、是時散騎及常侍各自一官、亡員也、 | 訓読文 | |
〔四〕師古曰、竝音步浪反、騎而散從、無常職也、 | 訓読文 | |
〔五〕師古曰、漢官解詁云掌侍從左右、無員、常侍中、 | 訓読文 |
爵、一級曰公士〔一〕、二上造〔二〕、三簪裊〔三〕、四不更〔四〕、五大夫〔五〕、六官大夫、七公大夫〔六〕、八公乘〔七〕、九五大夫〔八〕、十左庶長、十一右庶長〔九〕、十二左更、十三中更、十四右更〔十〕、十五少上造、十六大上造〔十一〕、十七駟車庶長〔十二〕、十八大庶長〔十三〕、十九關內侯〔十四〕、二十徹侯〔十五〕、皆秦制、以賞功勞、徹侯金印紫綬、避武帝諱、曰通侯、或曰列侯、改所食國令長名相、又有家丞・門大夫・庶子、 | 訓読文 | |
〔一〕師古曰、言有爵命、異於士卒、故稱公士也、 | 訓読文 | |
〔二〕師古曰、造、成也、言有成命於上也、 | 訓読文 | |
〔三〕師古曰、以組帶馬曰裊、簪裊者、言飾此馬也、裊音乃了反、 | 訓読文 | |
〔四〕師古曰、言不豫更卒之事也、更音工衡反、 | 訓読文 | |
〔五〕師古曰、列位從大夫、 | 訓読文 | |
〔六〕師古曰、加官・公者、示稍尊也、 | 訓読文 | |
〔七〕師古曰、言其得乘公家之車也、 | 訓読文 | |
〔八〕師古曰、大夫之尊也、 | 訓読文 | |
〔九〕師古曰、庶長、言爲衆列之長也、 | 訓読文 | |
〔十〕師古曰、更言主領更卒、部其役使也、更音工衡反、 | 訓読文 | |
〔十一〕師古曰、言皆主上造之士也、 | 訓読文 | |
〔十二〕師古曰、言乘駟馬之車而爲衆長也、 | 訓読文 | |
〔十三〕師古曰、又更尊也、 | 訓読文 | |
〔十四〕師古曰、言有侯號而居京畿、無國邑、 | 訓読文 | |
〔十五〕師古曰、言其爵位上通於天子、 | 訓読文 |
諸侯王、高帝初置〔一〕、金璽盭綬〔二〕、掌治其國、有太傅輔王、內史治國民、中尉掌武職、丞相統衆官、群卿大夫都官如漢朝、景帝中五年令諸侯王不得復治國、天子爲置吏、改丞相曰相、省御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士官、大夫・謁者・郞諸官長丞皆損其員、武帝改漢內史爲京兆尹、中尉爲執金吾、郞中令爲光祿勳、故王國如故、損其郞中令、秩千石、改太僕曰僕、秩亦千石、成帝綏和元年省內史、更令相治民、如郡太守、中尉如郡都尉、 | 訓読文 | |
〔一〕師古曰、蔡邕云漢制皇子封爲王、其實諸侯也、周末諸侯或稱王、漢天子自以皇帝爲稱、故以王號加之、總名諸侯王也、 | 訓読文 | |
〔二〕如淳曰、盭音戾、盭、綠也、以綠爲質、晉灼曰、盭、草名也、出琅邪平昌縣、似艾、可染綠、因以爲綬名也、師古曰、晉說是也、璽之言信也、古者印璽通名、今則尊卑有別、漢舊儀云諸侯王黃金璽、橐佗鈕、文曰璽、謂刻云某王之璽、 | 訓読文 | |
原文 | 訓読文 |
監御史、秦官、掌監郡、漢省、丞相遣史分刺州、不常置、武帝元封五年初置部刺史、掌奉詔條察州〔一〕、秩六百石、員十三人、成帝綏和元年更名牧、秩二千石、哀帝建平二年復爲刺史、元壽二年復爲牧、 | 訓読文 | |
〔一〕師古曰、漢官典職儀云刺史班宣、周行郡國、省察治狀、黜陟能否、斷治冤獄、以六條問事、非條所問、卽不省、一條、强宗豪右田宅踰制、以强淩弱、以衆暴寡、二條、二千石不奉詔書遵承典制、倍公向私、旁詔守利、侵漁百姓、聚斂爲姦、三條、二千石不卹疑獄、風厲殺人、怒則任刑、喜則淫賞、煩擾刻暴、剝截黎元、爲百姓所疾、山崩石裂、祅祥訛言、四條、二千石選署不平、苟阿所愛、蔽賢寵頑、五條、二千石子弟恃怙榮勢、請託所監、六條、二千違公下比、阿附豪强、通行貨賂、割損正令也、 | 訓読文 |
郡守、秦官、掌治其郡、秩二千石、有丞、邊郡又有長史、掌兵馬、秩皆六百石、景帝中二年更名太守、 | 訓読文 |
郡尉、秦官、掌佐守典武職甲卒、秩比二千石、有丞、秩皆六百石、景帝中二年更名都尉、 | 訓読文 |
關都尉、秦官、農都尉・屬國都尉、皆武帝初置、 | 訓読文 |
縣令・長、皆秦官、掌治其縣、萬戶以上爲令、秩千石至六百石、減萬戶爲長、秩五百石至三百石、皆有丞・尉、秩四百石至二百石、是爲長吏〔一〕、百石以下有斗食・佐史之秩〔二〕、是爲少吏、大率十里一亭、亭有長、十亭一鄕、鄕有三老・有秩・嗇夫・游徼、三老掌敎化、嗇夫職聽訟、收賦稅、游徼徼循禁賊盜、縣大率方百里、其民稠則減、稀則曠、鄕・亭亦如之、皆秦制也、列侯所食縣曰國、皇太后・皇后・公主所食曰邑、有蠻夷曰道、凡縣・道・國・邑千五百八十七、鄕六千六百二十二、亭二萬九千六百三十五、 | 訓読文 | |
〔一〕師古曰、吏、理也、主理其縣內也、 | 訓読文 | |
〔二〕師古曰、漢官名秩簿云斗食月奉十一斛、佐史月奉八斛也、一說、斗食者、歲奉不滿百石、計日而食一斗二升、故云斗食也、 | 訓読文 |
凡吏秩比二千石以上、皆銀印靑綬〔一〕、光祿大夫無〔二〕、秩比六百石以上、皆銅印黑綬、大夫・博士・御史・謁者・郞無〔三〕、其僕射・御史治書尙符璽者、有印綬、比二百石以上、皆銅印黃綬〔四〕、成帝陽朔二年除八百石・五百石秩、綏和元年、長・相皆黑綬、哀帝建平二年、復黃綬、吏員自佐史至丞相、十二萬二百八十五人、 | 訓読文 | |
〔一〕師古曰、漢舊儀云銀印背龜鈕、其文曰章、謂刻曰某官之章也、 | 訓読文 | |
〔二〕師古曰、無印綬、 | 訓読文 | |
〔三〕師古曰、大夫以下亦無印綬、 | 訓読文 | |
〔四〕師古曰、漢舊儀云六百石・四百石至二百石以上皆銅印鼻鈕、文曰印、謂鈕但作鼻、不爲蟲獸之形、而刻文云某官之印、 | 訓読文 |
文責: suite
2008.08.28 一部暫定公開開始